scene 26
桜の舞う澄みきった蒼空。風は穏やかに人々の髪を揺らし、桜の花弁を乗せ、春の香りを届ける。風光明媚なその場に漂うのは、緊迫した空気。
表情を引きつらせた守り主の命を狙う女性は、驚愕に双眸を見開く。自分の思惑通りに事が進んでいる彩乃は、クスッと小さく笑った。
「そう――」
儚い響きを含むアルト声が、彩乃の口からこぼれる。月の明るい夜闇のように艶めく漆黒の髪をなびかせながら、視線はそのままに彩乃は顔だけを僅かに上へ向けた。黒曜石のような瞳が、太陽の光の力を借りて煌めく。そして――
誰もが魅せられてしまいそうなほど可憐な笑みを、その口元に綻ばせた。
彩乃の、ユーフェミア顔負けの美しい笑みに誰もが息をのむ。
「――本当の守り主はこの私。私の命が危なくないように、私は守り主となるまではここで安全に暮らしていたのよ。残念だったわねぇ。すっかりダミーに騙されちゃって。守り主の刺客って、もっと頭のキレる賢い人だと思っていたわ。なのに、――プッ。貴女って、本っ当に〝馬鹿〟なのね」
人を嘲るように、クスクスッと彩乃は笑う。馬鹿を強調した言葉と彩乃の笑みに、
「……っざけるな……。――ふざけるなぁぁぁッ!」
女性は冷静な思考と判断力と理性をすっかり失い、怒り任せに鋭い咆哮を上げた。その脳内は憤怒だけに支配されており、何故彩乃が守り手である美桜と戦っていたのか、などという彩乃の証言との矛盾には気付かない。女性は瞳に怒りの業火を燃やし、自分の怒りをぶつけるようにして捕まえていたユーフェミアを強く地面に突き飛ばした。
「きゃっ!」
ユーフェミアは土ぼこりを纏いながら、地面に強く身体を打ちつける。
「っ――!」
本当の守り主の身を案じた美桜が、ユーフェミアへと近付こうとしたが、
「――!」
ユーフェミアの強い光を宿した蜜色の瞳に睨みつけられ、足を止めざるを得なかった。
ここで美桜が駆けよってしまうと、女性に本当のことを見抜かれてしまうかもしれない。そうなってしまえば、彩乃の演技も身体を打ったユーフェミアの痛みもすべてが無駄になってしまう。
美桜は駆け寄りたい衝動をぐっと堪え、ユーフェミアから視線を引き剥がすために彩乃へと無理やり目を向けた。
彩乃は今、己の命をかけてユーフェミアを守っているのだ。自分が本当の守り主だと言えば女性は自分の命を狙ってくると考え、自分が身代りになってユーフェミアを守ることを決断したのだ。
「私をっ……馬鹿にするなぁぁぁ――!」
女性は空気を揺るがすような叫び声とともに、その場から姿を消した。
「彩乃! 気をつけてください!」
ユーフェミアはそのか細い声を限りに叫び、
「――神の愛娘、か」
この場で唯一その名を知っている蓬は、女性の特殊な瞬間移動能力の名称をふと口にした。
どこから現れても構わないよう、彩乃は神経を尖らせてすっと身構え、
「――ああああっ!」
刹那、彩乃の背後から猛々しい声とともに疾風が吹き荒れた。
彩乃は風を感じた瞬間、可憐に宙を飛ぶ黒蝶のようにひらりと前方へ跳んだ。地面が近付くと、しなやかに身体を丸めて受け身を取り、一回転をしたのち地面に足をしっかりとつける。土で汚れたことなどお構いなしに、すぐさま後方を振り返る。
「――ちぃッ!」
黒光りするくないによって、彩乃が先刻まで立っていた地面が砕け散る。粉砕した土は宙を飛び、その向こう側からくないを握る女性の射るような視線が彩乃を貫く。
普通であれば粉砕などしないであろう地面が粉々になっていることを確かめた彩乃は、女性の怪力に驚きつつも素早く立ち上がり、バックステップで後退。すぐさま膝を折って身構える。
「畜生――!」
女性は地面に深々と刺さっているくないを抜こうとはせず、懐から新しいくないを引き抜いた。一点の曇りもなく研がれた鋭い両刃が、女性を睨み据える彩乃を映し出す。
「はあぁぁぁぁぁ――ッ!」
女性は右手で逆手に持ったくないを身体の左側に構え、彩乃の腹部めがけて真一文字に薙ぐ。
その動きをよんだ彩乃はひゅっという口笛のように短く鋭く呼吸をし、両足に力を込めて地面を蹴り、後方へと跳ぶ。女性のくないは獲物にありつけず、空を切り裂く音だけを上げる。
「っあぁあ!」
続いてくないは下から上へと縦に振り上げられる。彩乃は僅かに身体をのけ反らせつつ、再び軽く跳んで後退。またもくないは彩乃の身体ぎりぎりで空を掻き切り、ふわりとなびいた彩乃の黒髪を数本宙に散らばらせた。
僅かに宙で舞っていた桜の花弁が、くないの動きによって起きた風に乗って蒼い空へと飛翔する。
「くっそおぉぉぉッ! 当たれぇ――!」
反狂乱の叫びとともに、右足を大きく一歩踏み出す。女性は踏み出すと同時に右手をぴんと真っすぐ伸ばし、くないを前方へ突き出す。が、またも彩乃は身体を少し横に反らしただけで、やすやすとくないをかわす。足に力を込め、身体をのけ反らせて後方へ大きくジャンプ。そのまま両手で着地し、さらに両手に力を込めて身体を僅かに内側へ丸めながら再度跳ぶ。小さく風を巻き起こしながら着地。そのまますくっと立ち上がり、身構えながら敵を睨む。彩乃の着地によって起きた風に、地面に積もっていた薄紅の花弁が彩乃を取り巻くようにして躍る。
「どうしたのかしら? 貴女、とっても弱いですよ?」
クスリとまた、彩乃は一笑。
「黙れぇッ!」
女性は額とこめかみに血管を浮き出し、彩乃へ唾を飛ばしながら吠える。
彩乃は女性を挑発するようにして、困ったような表情を作る。
「私は本当のことを言っているだけなのですが……?」
「ガキがほざくなぁぁ――!」
女性は地面を抉るほど強く足を踏み出す。くないを突き刺すつもりなのか身体の前にくないを構え、彩乃めがけて弾丸のように突進する。
ひゅっと彩乃は口笛のような息をし、地面を強くしっかりと蹴る。
「あぁぁぁああぁぁあぁぁッ!!」
裂帛の気合とともに突進してきた女性をあっさりとかわし、彩乃の身体は胡蝶のように宙を舞う。