scene 21
美桜は口の端を釣り上げたまま、唇をめくれ上がらせる。
「良いでしょう。では、表へ出てください」
「あぁ」
彩乃は固まった血が赤黒くこびり付いている右手を、ぎゅっと強く握り込む。それは短い彩乃の爪が、手の平に食い込むほどの強さだった。爪が強く手の平に食い込んでいるというのに、彩乃はその痛みに気付いていないかのようだった。
漆黒の瞳が、暗闇の中で閃く猫の目のような光を浮かべる。
「がんばれよ。彩乃」
「あぁ。必ず勝って見せるさ」
彩乃は正面を向いたまま海棠に向けてか、僅かにその口へ微笑みを浮かべた。海棠はその笑みを確認すると小さくその首を上下に動かす。
彩乃はゆっくりと、一歩前へ踏み出す。一歩、また一歩と着実に足は前方へと進む。彩乃の視線は移動する間も、つねに美桜へと注がれる。美桜は冷めたような光を浮かべた瞳で、彩乃の視線を受け止める。
「…………」
「……彩乃」
海棠は無言で眉をしかめながら彩乃の背を見送り、ユーフェミアはこちらへ徐々に近づいてくる彩乃を心配げに見つめる。
たくさんの視線を浴びながら、彩乃は玄関へと、美桜とユーフェミアのそばへとたどり着く。
美桜は彩乃を見て、まるで小馬鹿にしているかのようににやり笑い、一歩退いて外へ出ると指を折ったり伸ばしたりしながら彩乃を挑発するかのように呼ぶ。
彩乃は玄関に下りると慣れた手つきで素早くわらじをはき、足首にきゃはんをつける。ユーフェミアはまるで彩乃が想い人であるかのように、その姿をずっと見つめていた。しかし想い人を見る目と違うのは、その瞳に映る色が喜色ではなく憂いを帯びた暗い色だということだ。しかもその顔にはつねに不安と相手を心配するような表情が浮かんでいた。
わらじときゃはんをつけ終えた彩乃は、彩乃が外へ出やすいようにとわざわざわきへ寄ったユーフェミアをまっすぐな瞳で見つめる。
「ゆうちゃん。あたし、絶対にゆうちゃんを守るから」
「彩乃――」
彩乃は緊張で厳しくなっていた表情をふいに和らげ、屈託のない笑みをその顔に貼り付けてユーフェミアを見た。ユーフェミアはやや心配げに彩乃を見つめていたが、やがて僅かに頭を上下させるとその瞳に決意に似た固い意志を宿した。
「分かりました。私は、彩乃を信じております」
「ありがとう。あたしを、信じてくれて」
彩乃は自然な笑みをその顔に浮かべた。ユーフェミアはこくりと小さく頷き、彩乃はユーフェミアのそばを通り抜けると、木戸をくぐって外へと出た。
春の穏やかな青空。淡い桃色の桜花が雪のように地に降り注ぐ。
海棠と彩乃とユーフェミアが初めて出会ったあの桜の木は、今年も見事な花を溢れんばかりに咲かせていた。
紅桜は可憐に花弁を舞わせ、鮮やかな緑を放つ若葉は大変眩しく、まさに花紅柳緑と呼ぶにふさわしい風景だった。
美麗な景色の中。堅く、しかし強い決意を秘めた面持ちで歩む彩乃は、その景色にも劣らぬほど美しい。
彩乃は家の前に広がる土を固めただけの広場の中心に立ち、はっとするほど美しい蒼穹を静かに見上げる。
彩乃より先に外へと出ていた美桜は、ユーフェミアを乗せて来たらしい家の脇に置かれた駕籠の傍で肩甲骨あたりまであるクリーム色の髪と、澄んだ碧眼を持つ十歳くらいの少女から二本の木刀を受け取っているところだった。
二本のしなやかな木刀を携えた美桜は、彩乃のそばへと静かに歩み寄る。彩乃は視線をふっと下げ、自分へ向かってくる美桜を見すえた。
誰もが静かに成り行きを見つめる中、美桜は彩乃のそばまで歩み寄り、木刀の一本をまっすぐに差し出した。
「これを持ってください」
彩乃は美桜に差し出された木刀の柄を右手で握り、美桜も自分の手に握っているのは一本だけとなった木刀を静かに持ち直した。
「手負いだからと言って、甘く見るんじゃないよ」
彩乃は視線を数ミリも反らすことなく、美桜の瞳だけをしっかりと見つめる。
そんな彩乃をあざ笑うかの如く、美桜は不敵な笑みを浮かべた。
「そちらこそ、守り手の実力を甘く見ないでください」
すらりと光る、鋭い刃のような二人の瞳がぶつかる。
「じゃあ。はじめるよ」
「えぇ。はじめましょう」
彩乃は全神経を美桜へと注ぎながらも、ゆっくりと背後へ歩み出す。
彩乃は家から見て左の方向へ、美桜はそれと向き合う位置になる右の方向へと歩む。
二人の間がたっぷり十メートルほど空いたところで二人は止まり、身体の正面を相手へ向ける。
「彩乃……がんばってください」
「彩乃。必ず勝つんだぞ」
誰も美桜を応援しないという完全アウェイな状態で、しかし美桜は余裕と不敵に溢れる笑みを崩すことはない。
ユーフェミアは祈るように指を組み、瞼をそっと伏せる。海棠は彩乃を信頼し、両こぶしを握り締めて成り行きを見守る。蓬はそんな二人とは対照的に、まるで見世物を面白そうに見ているかのように口元を綻ばせている。
「では」
美桜は小気味良い音を立てながら、木刀で空を上から下へと斜めに切り裂く。そのまま連動するようにして、ゆっくりと中段に木刀を構えた。
その一連の動きは、緩やかでありながらもきっと清々しいほどに冷たく張りつめた、美しい冬の川の流れのようだった。
「っ――」
敵でありながら、美しいとさえ思えてしまう美桜の動きに、彩乃は思わず息をのむ。美桜の身体から発せられる、一点の濁りもない刃のように研ぎ澄まされた鋭利な雰囲気に、一瞬で気負され挫けそうになる。
彩乃は冷や汗を額から頬へと流しながらも、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「――では。行きます」
美桜はすらりと光る刀身のような眼差しを彩乃へ向ける。二人にはかなりの距離があるというのに、彩乃にははっきりと自分に向けられる美桜の突き刺すような視線が分かった。
今や美桜の顔には笑みは欠片も残っておらず、その顔に浮かぶのは真剣な表情だけだった。先ほどまで歪んだ笑みを浮かべていた口元は、すっかり引き締まっている。
美桜は対峙する彩乃へ視線をしっかりと向けたまま、ゆるりと右わきへ木刀を構えなおす。木刀の切っ先が地面へと向いた刹那、わらじをはいた美桜の足が強く地面を蹴り、低い体勢で走り出した。
風を切りながら猛スピードで走り寄って来る美桜を見すえる彩乃は、その瞳にきつい光を閃かせる。 そして――
木刀と木刀のぶつかり合う、鈍い音が響き渡る。