scene 19
「なっ……!」
海棠は驚きに絶句し、
「!」
ユーフェミアは目を瞠り、
「……ほう。それは面白いですね」
美桜は口の端を釣り上げて歪んだ笑みを浮かべ、
「…………」
蓬は、くすりと小さく笑った。
彩乃は標的を視線で捉えるようにして、双眸を眇める。
僅かな間の沈黙。沈黙は人々を容赦なく、静かに圧する。
沈黙の中。海棠はまるで自分の問題であるかのように不安げに眉を寄せ、心配げに彩乃を見つめる。
が、そんな兄に彩乃は少しも目をくれようとはしない。その視線はただ一人――武政美桜にのみ注がれる。
「彩乃! 気持ちは分かるが、そのようなこと――」
「兄者! 少し黙っていてくれないかい。これは、あたしの問題なんだっ――」
不安げに海棠が見つめる中、彩乃は美桜を見つめたまま海棠へと声をかけた。低いアルト声が大声で海棠の発言を阻止し、そして、
「っ……ゴホッ!!」
唐突に、その言葉が止まった。彩乃はふいに身体を折り曲げ、口元を右手で押さえると咳き込み始めた。しかもその咳は普段のものとは違っていた。普段の乾いたようなものではなく、もっと重く、喉の奥に何かが詰まっているかのような――
嘔吐か吐血をする間際のような。
「彩乃ッ!」
海棠が妹の名を叫んだ刹那、
「ガハッ!」
手で塞がれた彩乃の口から――真っ赤などろりとした液体が溢れだす。
彩乃の口からこぼれ出した血は床へと落ち、その上へ不気味な跡を形成し始める。液体と言うにはどろどろとしすぎている血は、床や彩乃の足を真紅に染め上げてゆく。
「彩乃!!」
再び、海棠の叫び。
彩乃は血を吐きながら呻き、力なく膝を折る。海棠はすぐ傍にいる彩乃へと素早く近寄り、その背中を撫でる。
「彩乃――」
床に座り込んだ彩乃を、ユーフェミアは今にも泣き出しそうに瞳を潤ませて見つめる。
「――」
美桜は双眸を鋭いナイフのように細め、真っ赤に染まる少女を見つめる。
彩乃の口から流れ出していた血はやっと止まり、血に汚れた口で荒い呼吸を数回繰り返した後、声を出すためにゆっくりと唇を持ち上げた。
「兄者……。大丈夫だよ。本当さ。だから――行かせて、くれ……」
「馬鹿者! 何を言っているんだ!! 今の自分の状態が分かっているのかッ!」
海棠は目をむいて叱責する。彩乃は血色の悪い顔をゆるりと上げ、大声を上げた海棠を見る。
海棠は叱りつけたようには見えない穏やかな表情で、血に顔を汚した彩乃を見つめる。
「彩乃……。ユーフェミアを守りたいという気持ちは分かる。しかし、これ以上……無理をするな」
海棠の穏やかではあるが、しっかりとした力強い声。彩乃は僅かに瞼を伏せて俯き、血にまみれた右手を小刻みに震えるほど強く握りしめた。
「っ――。あたしは、あたしが正しいと思ったことをするだけだ――」
呟きとも囁きともとれる、彩乃の小さな声。それとともに彩乃は握りしめたこぶしで乱暴に口元をぬぐった。口元についていた血は、僅かに手へと移動する。
彩乃は海棠が驚いたように、心配するように見つめる中、しっかりと床に足をつけて立ち上がる。その足は立ち上がる間、僅かもふらつきはしなかった。
彩乃は拭ったもののまだかなり血で濡れている口を開き、爪の間まで血に汚れている右手の人差し指を刀の切っ先であるかのように美桜へと突き出した。
「美桜! あたしと、勝負しな! あたしは――月倉ユーフェミアを絶対に守るんだ!!」
海棠は彩乃の行動に再度絶句し、戸惑うような瞳で玄関の脇に立つ蓬を見た。蓬は先ほどから一ミクロンも立ち位置を変えずに、うっすらと微笑んだ。その笑みは、普段見せる子供の様なものではなく、落ち着いた大人びたものだった。
「彩乃」
静かな声が、勇ましい少女の名を呼ぶ。彩乃は自分の名を呼んだ人物――父である蓬へ、ゆっくりと視線を向ける。
「何だい。父上」
「本当に、お前はその選択でいいんだな」
「あぁ。絶対に、後悔はしないよ」
「これから先、身を裂かれるほどの苦しみや辛さがあっても、その思いは変わらないか?」
蓬の鋭い瞳。彩乃は視線を少しもそらさずに、その強い眼光を宿した漆黒の瞳を見すえる。
「――あぁ」
「ユーフェミアちゃんを、絶対に何があっても守り抜くことがきるか?」
「〝できる〟んじゃないよ。〝やってみせる〟んだよ」
彩乃の顔に、僅かな笑みが浮かぶ。その笑みを面白そうに眺める蓬は、静かに瞼を下ろした。
「そうか……。なら、私は止めない」
蓬は瞼をそっと持ち上げる。その瞳を、海棠が驚愕の視線で見つめる。
「父様!」
絶望の滲む海棠の顔を見ながら、蓬は双眸を細める。その表情は厳しく、いつもの幼さと緊張感の無さは欠片も感じられない。