scene 17
「……え?」
海棠は、一瞬意味が分からなかった。というより、脳が、身体が、ユーフェミアの言葉を理解してはいけない、理解したくもないと、拒絶しているかのようだった。
「……な、何故、だ?」
海棠の身体が、驚愕と混乱と爆弾発言の衝撃によって不安定に傾ぐ。海棠はよろめく身体を支えようと、先ほど閉めた背後にそびえる自室の木戸に背をあずけた。木戸は鈍く低い音を立てながら、僅かに揺れる。
海棠は視線を不安げに四方へ彷徨わせ、手に大量の汗を滲ませ、額にはじっとりと脂汗のようなものを浮かべた。
「それは――」
ユーフェミアが憂いの色を浮かべた瞳を、そっと伏せながら口を開いたときだった。
「その説明は、わたくしからさせていただきます」
金髪金眼の少女の後ろから、海棠には聞き覚えのない女性の声が上がった。
氷でできた白刃のような冷たい鋭さと、一点の濁りもない水のように澄んだ響きをした声だった。
「ユーフェミア様――いいえ。主様。ここはわたくしがご説明をいたします」
ユーフェミアの後ろから現れたのは、くノ一の格好をした長身の女性だった。瞳は黒くややつり上がって鋭く、やや茶色を帯びた黒髪は女性にしてはとても短い。
「お初にお目にかかります。わたくし、この度〝秘宝〟の守り主となられました月倉ユーフェミア様の護衛兼秘宝の守り手をいたします、武政美桜と申します」
美桜と名乗った女性は慣れた動きで綺麗に四十五度腰を曲げ、丁寧にお辞儀をした。
「秘宝の守り主……。まさか、あの、森の中の……?」
海棠ははっとした声とともに、木戸へあずけていた身を前方へ乗り出す。漆黒の双眸はたくさんの感情が入り混じっているかのような複雑な色を浮かべながら、目玉が飛び出てしまいそうなほど大きく見開かれる。
「はい。左様でございます」
美桜は機械的な口調で、淡々と事実を明々白々に答えた。
「しかし……何故だ? 現在守り主である方は――」
「現在の守り主――いや、もう元守り主、というべきかな。秘宝の守り主であった白月閃花さんは先日、心ノ臓の病によって享年九十七歳で他界されたよ」
それまで緊張感の欠片も持っていなかった人物――蓬が、書かれた文章を淡々と読むようにして言った。
蓬の言葉に、海棠は憂いに顔を歪め、ユーフェミアと美桜は蓬の発言に驚いた。
「っ……。貴殿、名は確か蓬といいましたね。何故、そのことを知っておられるのですか。その事実は、まだ閃花様の身近な人しか知らない情報だというのに……。貴殿は情報屋なのですか?」
美桜の驚きを隠せぬ言葉に、蓬は大仰な仕草で肩をすくめる。
「まさか。私はただの魔術師兼時見の中年オヤジさ」
蓬はうっすらと笑みを浮かべる。
「そうでしたか……。貴殿が時見だというのならば、納得できます」
美桜は僅かにトーンが落ちた声で蓬に言う。
海棠は信じられないという風に頭を左右に振り続ける。美桜のそばに立つユーフェミアは憂いに顔を歪め、瞼をそっと伏せる。
「しかし……。しかし、何故、だからといってユーフェミアが守り主にならなければならないんだ? 白月様との関係性は一体どこにある?」
海棠は困惑しきった様子で視線を定位置に定めぬまま、慌てたような口調で美桜に問う。
「ユーフェミア様は姓は違いますが、閃花様の里子であられます。閃花様の家族や縁者の方々が何処で何をしているのかも、ましてや実際に家族や縁者がいるのかも不明ですので、自然に次期守り主はユーフェミア様となるのです。またユーフェミア様は中心都市に住んでおられますが、特別に秘宝を守っている屋敷への出入りを許されていました。また、秘宝の知識も閃花様より学んでおりますので、ユーフェミア様ほど次期守り主にふさわしい方はおられないのです」
「そ……んな……」
頭の中の整理ができず、混乱したままの海棠は未だに話が信じられずにいた。
秘宝とは、この瑞穂の国の平和を長年保っている魔力の宿った宝石の事である。その秘宝が壊されたり、盗まれたりして瑞穂の国の平安が乱れないように命をかけて守るのが、守り主の役目。そしてその守り主と、守り主とともに秘宝を守る者――俗に守り手と呼ばれる者――がいる。守り手は武術に優れ、守り主とこの国に忠誠を誓うことができる者でなければならない。また、屋敷の場所を知られないようにするためにも、守り主と守り手はそれぞれ一人ずつと決まっている。それは、秘宝を狙う者に捕まったとしても口を割るものが少数で済むからという理由でそうなったのだが、世間では大人数であまり派手な行動を起こさないようにするためという理由で通されている。
そして肝心な秘宝は、その場所が特定されないようにするために、広い森の中の屋敷で守られている。その秘宝が何なのかは、守り主と守り手以外には誰も知らない。
海棠の中にある秘宝についての知識が、一気に脳内から溢れだした。
守り主と守り手が一人ずつである本当の理由については、裏ルートからたまたま耳にした情報だ。それ以外の情報は、瑞穂の国の国民の大半が知っているであろう知識である。
海棠の頭の中から、秘宝についての知識と言う名の濁流が流れ出る。それと同時に、これからユーフェミアがどうなってしまうのかということが分かっている自分を非難するかのように、炎のように真っ赤な怒りの花が濁流を埋めつくさんばかりに咲く。
――これからユーフェミアは、秘宝と瑞穂の国の平和を守るために、その命をささげるのだ。それはもう、人柱と言っても過言ではない。
海棠は運命を呪い、きしむ音が立つほど奥歯を強く噛み締めた。
「海棠。大丈夫、ですか?」
ユーフェミアの心配げな眼差しと声音に、海棠ははっと我に返った。
「あ? あぁ……。某は、大丈夫だ。しかし、ユーフェミア……。おぬしは、どうなんだ……?」
「私、ですか……?」
ユーフェミアは目を丸くして、きょとんと小首をかしげた。まるで、自分は守り主になることは当たり前のことで、何故海棠が自分のことを心配しているのか心底分からないという風に。
「私は大丈夫ですよ。確かに……閃花さんが永眠につかれてしまったことは、言葉では言い表せないほど悲しいですが……その後を継ぐことができるのならば、これ以上の幸せはありません。それに――海棠や彩乃たちの住むこの地の平和を私は維持したいと願っていますから……」
ユーフェミアは屈託なく笑い、美しい蜜色の瞳に柔らかな光をたたえた。しかし――
――海棠はその瞳に入り混じる、不安と憂いの色に気付いていた。