scene 16
快晴。太陽を東に置く雲ひとつない空は、凝視していると目が痛くなりそうなほど青い。
「…………」
海棠は重くも暗くない、寧ろ清々しさにあふれた沈黙を纏いながら、床にあぐらをかいて大きなリュックの前に座り、自室で荷造りをしていた。海棠は一つひとつその手にとって確認しながら、大きく開かれたリュックの口の中に荷物を丁寧に入れていく。
「……彩乃。必ず某が病を治してやるからな」
海棠は漆黒の瞳に、決意と信念を秘めたようなゆるぎない光を帯びていた。その口調はいつものように涼やかで柔らかな響きを含んでいるが、数多の修羅を駆け抜けてきた者のような恐ろしいほどの強さがそこには滲んでいた。
海棠は男にしては細く白い手で、リュックに入れる最後の荷物――文庫本サイズの小さな古めかしい魔術書――をリュックの側面に付いた小さなポケットにゆっくりと収める。本がポケットに入りきり、海棠がポケットをボタンで閉じる。
「……ついに、某はゆくのか……」
海棠が物思いにふけるように視線をぼぅっと彷徨わせ始めた時、
コンコンコンッ
家の玄関の戸を素早くも歯切れよく、鋭い音を立てながら叩く音がした。
「うん? 朝から客か……?」
海棠は僅かに腰を床から浮かせる。
「はーい。今開けます」
海棠の自室とは木戸一枚で仕切られている居間から、蓬の呑気な声が上がる。ゆっくりと立ち上がった海棠の耳に、ゴトゴトと鈍い音を立てながら木戸が開く音が届く。
首をかしげながらも、海棠は自室の戸をあける。海棠の部屋は居間を挟んだ玄関の正面にあるため、戸を開ければ瞬時に玄関を見ることができる。
部屋から顔だけ出した海棠は、
「っ――」
一瞬で言葉を失い、黒目がちな双眸を大きく見開いた。
海棠の視線の先にある、大きく戸が開かれた玄関の前。そこに――
美麗な少女が立っていた。
「…………」
海棠は自分の鼓動が速まっていることにも気付かずに、自然と開いた口も閉じぬままに呆けたような顔で金髪の美しい少女を見つめる。そんなアホ面丸出しの海棠を、玄関脇に立つ蓬はニヤニヤと意地悪く見つめる。
「?」
玄関前に立つ少女は、蜜色の髪を揺らしながら小さく首をかしげて、きょとんと海棠を見つめる。少女の真っ赤な紅を引いているふっくらとした唇は、小さく微笑んでいる。
蜜色の髪は丁寧に結いあげられ、そこには涼しげな音を立てる綺麗なかんざしが飾られている。髪と同色の大きな瞳は澄んだ真っすぐな光を宿す。
少女の姿を固まったまましばらく見つめていた海棠は、突然何かに気付いたかのようにはっと息をのんだ。
「あ……。え、ま、まままさか、ユーフェミア、か……?」
「はい。そうですよ。そうですが……どうしたのですか? 海棠。とてもぼうっとしていらっしゃるようですが……」
「えっ? あ、いや……その……」
海棠は裏返った声でどぎまぎと言葉を発していたが、やがてその言葉を濁す。耳から首まで真っ赤になった海棠は、ユーフェミアを見ていられなくなり視線を床へと落とす。
「ユーフェミアちゃんがあまりに綺麗だったから、照れているんだよ」
何の恥ずかし気もなくそう言ったのは俯いている海棠ではなく、その姿をにやにやと見つめる蓬だった。
海棠とユーフェミアの視線を一気に集めた蓬は、ふふんと小さく笑い声を上げる。
「なっ……! 父様ッ!!」
「そうだったのですか?」
ユーフェミアはきょとんとしたまま、視線を蓬から海棠へと移す。海棠は怒っているのか、戸惑っているのか、恥ずかしがっているのかよく分からない表情をしてユーフェミアと蓬の間で視線を行き来させる。
「えっと……。その、ユーフェミア……その……えっと……それは……」
海棠は顔を伏せて、もごもごと呟く。
ユーフェミアは再び俯いてしまった海棠を見つめながら、柔らかく微笑んだ。
「――ありがとうございます」
感謝を示すその一言に、海棠はぱっと顔を上げた。その頬は、まだ朱を帯びている。
「綺麗と思って下さっていたのなら、それはとても嬉しくありがたいことです」
「……え。あ、あぁ。うん……」
海棠は僅かに開いた口から、やっとそれだけ言葉を発する。
「ふふん。初々(ういうい)しいねぇ」
玄関脇に立つ蓬は、小さく笑いながら海棠を見つめる。その黒い瞳には――僅かな憂いと焦燥が滲む。
「とっ、ところでユーフェミア。今日はまた、何でそんな格好を……?」
海棠は自室から出て、後ろ手に戸を閉める。居間に彩乃の姿はない。どうやらまだ床の上で夢を見ているらしい。
「そうなのです。私は、海棠と彩乃に伝えなければならないことがあって、ここへ来たのです」
「伝えなければ、ならないこと……?」
海棠は、ふいに影を落としたユーフェミアの顔を見て、ぎゅっと強く眉を寄せた。先ほどのものとは違う胸の高鳴りが、海棠の身体を満たす。
ユーフェミアの赤い唇が、そっと開かれる。
「実は私……、ここを去らなければならないのです。なので、とても仲良くしてくれた海棠と彩乃に、そして大変お世話をおかけした蓬さんに――お別れの挨拶をするために、ここへ来たのです」