scene 14
入江家から走って十五分ほどの場所に、稽古場はあった。
そこはいかにも道場という風格のある、木造りの立派な建物だった。が、建物の鑑賞などをしてる余裕も暇も今の海棠にはない。
びしょ濡れになった海棠は、道場に入ったところで入口にいた人たちにタオルを渡され、同じくタオルを受け取っている、海棠を案内した少年に「こちらです」と案内される。海棠は導かれるまま、稽古をするための広い板張りの間をぬけ、扉によって仕切られた奥まった廊下へと歩を進める。窓のない薄暗いそこは、すみのほうでポツリポツリと頼りなげな蝋燭の炎が燃えていた。
海棠を案内していた少年は一つの扉の前で立ち止まり、そこを手で示した。
「彩乃さんがいるのはここです」
少年ができる限り音を立てないよう、静かに戸を開く。部屋の中は、闇を好み光を拒んでいるかのように一本の蝋燭しか光源は存在していなかった。
扉が開かれた部屋の中。そこには、数人の女性たちが一つの布団を取り囲むようにして座っており、部屋の隅にはその部屋では一人だけの男性が、気難しい顔をしてあぐらを組んで座っていた。
少女女性たちが囲んでいる布団の上。そこに、彩乃はいた。
「……おや。君は?」
海棠に皆の視線が集まる中、部屋の隅に座っていた男性が声をかけた。
見た感じ、四十代前半というところか。黒髪は短く刈りあげられており、筋肉隆々というわけではないが、しっかりと筋肉の付いたいかにも武道をしていそうな男性だった。
海棠はその場に音もなく正座すると、丁寧に両手をつけて深々と腰を折る。その背後からは、少年が静かに戸を閉める気配が感じられた。
「某は、彩乃の兄の海棠と申します。この度は、妹が大変ご迷惑をおかけしました」
海棠は頭を下げたまま、畏まって言う。
「まずは海棠殿、その頭を上げてください。それから、一つお聞きしてもよろしいかな?」
「はい」
海棠は頭をあげ、男をまっすぐに見る。
「彩乃殿は〝呪われし瞳の子〟と聞いたが、今までもこのようなことはあったのかね?」
「はい。突然倒れ、発熱することは度々ありました」
「では、対処法も分かるのだな?」
「承知しております」
海棠は頭を小さく下げると、再び音もなく立ち上がると彩乃の左側の枕元へと移動した。
彩乃を取り巻いていた人たちは海棠のために左右へと寄る。蝋燭のほのかな明かりのもと、海棠は少女女性たちが寄ってできた隙間に膝をつく。彩乃の顔は蝋燭によって僅かに朱に染め上げられていたが、実際発熱によってその顔は赤く火照っていた。額にはたくさんの汗の玉ができているが、できた途端にすぐさま水にぬれたタオルを持った女性によって吹き取られる。火照った頬とは反対に、僅かに開けられた唇はすっかり血の気を失っている。唇の隙間からは、苦しげなうめき声が漏れる。
「彩乃……。もう少しの辛抱だからな」
海棠は熱にうなされている妹を励ますように囁くと、周りに座る女性たちに彩乃の周りから離れてもらうようにことわりを入れる。
女性たちが心配げに彩乃を見つめながらも、彩乃から離れたことを確認すると海棠は手を正面にかざし、ゆっくりと顔を伏せ影を落とす。漆黒の瞳はうっすらと閉ざされ、口は何を言っているのか分からないほど速く小さく動く。その声は、静寂と沈黙という言葉がとてもふさわしいこの部屋にいる者にさえ、全く聞こえない。
やがて、
「我が僕、水の精霊の水蘭よ。ここに形を成し、我が力となれ」
海棠は声に出して静かにそう言う。
明らかに、小さなころより詠唱を唱える時間も短くなっている。
海棠の言葉とともに彩乃の右側の枕元に小さな水の渦が起きた。部屋にいる全員の視線を浴びながら、それはみるみる人ほどの大きさになり、ついには人の形へと変化した。
「っ――」
部屋の中にいる人々は、水からできた人物――ウンディーネを見た途端、一斉に息をのんだ。
ウンディーネはこの世のものとは思えぬほど神々しく、誰もが目を瞠らずにはいられない美貌を持っている。
暗闇に沈む部屋の中で眩しいほど煌めく水色の髪は光の粒子を纏っているかのようで、吸い込まれてしまうそうなほど深い紺碧の瞳は皆の視線を集めてしまうような魅力に溢れていた。肌は透き通るように白く、しかしそれが不健康に見えることは決してないのだった。
レースのほどこされた質素なワンピースは、よりウンディーネの美しさを際立たせる。
ウンディーネ――水蘭は、自分の目の前に座る、主人の海棠を微笑みながら見つめる。
「水蘭。彩乃の体温を下げてくれ」
「仰せのとおりに」
澄んだ音を奏でる鈴が震えるかのような、涼やかで儚い響きを持つ水蘭の声音。海棠への返答とともに、水蘭はその細長く白い手の平を彩乃の額にそっと当てた。一体何を始めるのかと海棠以外のものが注目する中、水蘭の手の下の彩乃の額が青白く発光しだした。光は、部屋を隅から隅まで照らせるほど明るい。
青白い発光とともに、彩乃の口からもれる苦しげな息も少しずつ穏やかになっていく。水蘭はそのまましばらく彩乃の額から手を離さなかったが、彩乃のうめき声が和らぐとそっと額から手を離した。同時に、青白い光も音もなく消え去る。
とその時、
「……う、ん。っ――あ、れ……」
固く閉ざされていた彩乃の瞼が、うっすらと持ち上げられた。その漆黒の瞳はまだ焦点が定まっていないのか、虚ろではあったが。
やがてその瞳に光が宿り、視線が枕元に座る海棠へと向けられる。
「あ、兄者……。一体、何故、ここに……?」
普段の声からは想像もつかないようなかすれた声で、彩乃は海棠に問う。海棠はそんな妹の顔を、ほっとしたような笑みを浮かべて見つめる。
「彩乃が稽古の途中で突然倒れたと聞いてな。某が慌てて駆け付けたんだ」
「あぁ……。そうだった、のかい……」
彩乃は視線をふらりと彷徨わせ、今度は海棠の反対側に座る水蘭の方へ向けられた。
「あ。久しぶりだね、水蘭」
「お久しぶりでございます。彩乃様」
水蘭は誰がどう見ても美しいというであろう、優美で可憐な笑みを浮かべながら、軽く瞳を閉じ膝に両手を置いて小さく頭を下げた。