scene 13
海棠と彩乃がユーフェミアに出会ってから、八年の歳月が流れた。
彩乃は刀のセンスがあったのか驚くほど上達し、海棠も父とともに人助けをできるようになるほど魔術の力をつけた。
やはりユーフェミアは差別を受けていたが、人助けで有名な腕の立つ魔術師である蓬の息子、娘と中が良いということで、さほどひどい扱いは受けていないようだった。
このまま穏やかな日々が過ぎてゆくのだと、誰もが思い、これから起きる三人の転機に気付くものなど、誰一人としていなかった。いや――時見である蓬には、分かっていたことなのかもしれないが。
そんな運命の境目は、雨とともにやって来た。
黒く染まった曇天の空の下。
「――あっ」
人助けの依頼を終え、蓬とともに家へ帰っていた海棠の頬に突然雨粒が降って来た。
「うん? どうした」
蓬はふいに声を上げた海棠の顔をのぞき、海棠は「いや……」と曖昧に返答を返しながら、湿った頬を右手の平で拭った。
「雨が降ってくるみたいだ」
海棠は低く雲が垂れこめる空を見上げ、顔をしかめた。
「そうか。少し風も湿っぽくなってきたしな。急ごうか」
蓬は急いでいる風は全くない、のんびりとしたマイペースな声でそう言う。
「あぁ。まぁ、笠も持ってきてあるがな」
海棠はひもで首にかけている笠がちゃんとそこにあるか確認するように、肩越しに軽く振り返る。一方の蓬は全く気にする風もなく、海棠の言葉に頷く。
「そうだな。――あぁ、そうだ。話は変わるが、海棠」
「何だ?」
海棠は暗い虚空を見つめていた視線を下げる。
「周囲の人の中で雨が最初に落ちてきた人は不幸になるって迷信、知ってるか?」
「何だよ? それ」
「雨って、あまり嬉しいもんじゃないだろう」
「まぁな。日照りが続くのも、嬉しいものではないが」
「だな。まぁ、一般的に雨はあまり好かれない。だからその雨が一番に落ちてきた人は不幸になるって、それだけの話さ」
「ふぅん」
海棠はやや顔をしかめながらも、さして興味もなさそうに生返事を返す。その瞳は再び曇天の空を映し出す。漆黒の瞳に灰色の空が映り、その瞳の下に再び雨が落ちてきた。雨の雫はゆっくりと頬を滑り、その後素早く駆け抜けるように頬の上を走る。それはまるで、海棠が一粒の涙を流したかのようであった。
本降りになる前に、なんとか二人は家にたどり着くことができた。
雨は僅かに強さを増していた。今はその雫が地や木の葉を打つ、冷たく湿った音が聞こえるほどになっている。
「あー、父様。彩乃はちゃんと笠を持って、下駄をはいて稽古場に行っただろうか?」
海棠は囲炉裏に火を焚きながら、玄関でわらじを脱いでいる蓬に問いかける。わらじときゃはんを脱ぎかけていた蓬はその手を止め、玄関脇の笠をかけている壁を見つめ、それから土間に並べられている靴を見つめ、
「あぁ。大丈夫だ。ちゃんと彩乃の笠が一つなくなっているし、わらじはあるが下駄はなくなってる」
海棠は安堵のため息をそっとついた。彩乃にとって雨は天敵である。雨の勢いが強ければ笠をかぶったところで少しはぬれるが、かぶらないよりはましだろう。
安心している海棠を見ながら、蓬はにやりと意地悪く笑う。
「ま。あいつはお前と違ってしっかりしているからな」
その言葉に、むっと海棠は顔をしかめる。
「某がそれほど頼りないというのか」
「いいや。誰もそこまでは言ってないぞ」
蓬はわらじときゃはんを脱ぐと、海棠が火を焚いている囲炉裏へと近寄った。
その時だった。
強風が戸を揺らすような、激しく戸を叩く音が響く。戸の建てつけが悪いのか、入口の戸はかなり激しく揺れ、大きな音をたてた。
「何だ……? 風か」
音の原因は、雨とともに強まってきた風のせいだろうと海棠は決めつけたが、
「誰か……! 誰か、いませんか……!」
音とともに聞こえてきた、今にも風にかき消されそうな声によってその可能性はゼロになった。
「あ、はい! 今開けます!」
海棠は先ほど入って来たばかりの戸へ駆け寄り、軽くわらじをはくと大きなきしむ音を立てながら木戸を開けた。そこにいたのは、
「あの……! 入江さんのお宅で、間違いありませんよね?」
十代半ばほどに見える見知らぬ少年だった。笠もかぶっていないため、その短い黒髪はぺったりと頭に張り付き、毛先からは水が滴り落ちていた。
「そうだが……。何の用だ?」
訝しげに海棠はずぶぬれになりながら息を切らしている少年を見つめる。
「とにかく……! 彩乃さんが、大変なんです!」
「彩乃がっ? 彩乃が、どうしたんだ!」
海棠は突然出てきた妹の名に、目を見開き声を荒げた。その声の大きさに驚いたのか、囲炉裏の前に座っていた蓬も玄関前へと出てきた。
「彩乃さんが……稽古中に突然、倒れてしまって……。とにかく、発熱がすごいんです……! それで、僕はお家の方を呼んでくるようにと……」
「分かった。父様」
海棠は振り返り、土間には降りず土間より前に立っている蓬へと声をかけた。
「あぁ。分かった。私はここで待っている。誰もいないときに、仕事の依頼が突然来ても困るしな。それに、海棠なら一人でも大丈夫だよ」
海棠は頷くと、笠もかぶらずにわらじではなく下駄をはいて外へと出る。
「案内を頼む」
「はい!」
海棠と少年は頷きあい、さらに強さを増して降り出した雨の中を駆けだす。
雨は容赦なく二人を打ち、服に水を吸わせていく。ずぶぬれになって重さを増す服に、体温と体力を奪われながらも二人は稽古場へと急ぐ。
「彩乃……」
妹の名を呟いた海棠は、嫌な予感に胸を激しく打つ心臓を抱えながら、眉間に深い縦皺を刻んだ。