scene 12
「なっ、何でそのような話に、なるんだよッ」
「うん? 何でって、別にいいじゃないか。あ。さては誰かに会ったな?」
ニヤニヤと意地の悪い蓬の笑み。
「……こういうところがガキなんだよな」と独りごちる海棠は、ため息とともに言葉を発する。
「ユーフェミアに、会った」
「ほう! あの美人の! あ……。だから、私はロリコンではないぞ」
冷たく湿ったような海棠の視線に、蓬はいそがしく首を降る。
「分かってるよ。で……ユーフェミアに会ったんだが、その……ユーフェミアが、三人の少年にいじめられていた」
海棠のその一言に、ニヤついていた蓬の顔がふっと一瞬で能面のような無表情になった。俯きながら話している海棠は、父の表情の変化に気がつかない。
「彩乃が助けてくれたからよかったんだが。まぁ、その、ユーフェミアくらい内気な女の子ならいじめられることもあるかもしれないが……某が気になったのは、たくさんの人がそこにいたのに誰一人としてユーフェミアを助けようとしなかったことなんだ。ユーフェミアがいじめられている周辺には意図的に避けてるとしか思えないくらい人がよりつかなかったし、皆見て見ぬふりをするように素通りして行くんだ」
海棠は眉を寄せて訴える。何故人々はユーフェミアを助けなかったのだろう? 何故、誰一人としてあの少年三人を止めなかったのだろう?
海棠の頭の中にはそんな疑問ばかりがつのる。が、頭や心の中へ自問自答したところで、少しも答えは返ってこない。海棠はそれでも何度もユーフェミアがいじめられていた場面を思い出し、何故誰も助けなかったのかを思案し続け、結局答えは「分からない」で行き詰まり、そして、
「それは、ユーフェミアちゃんがハーフだからだよ」
その疑問の答えは、唐突に蓬の口からこぼれ落ちてきた。
海棠は驚いたように、びくりと身を震わせる。それは蓬の答えに驚いたのではなかった。――蓬の、その声音の冷たさに驚いたのだ。
「――え?」
海棠は答えの意味が分からないことと、驚きに素早く顔を上げて蓬を見た。そして、息をのんだ。
蓬は、その柔和な顔に普段は見せないような厳しい表情を浮かべていたのだ。
絶句している海棠をよそに、蓬は表情を崩さぬまま言葉を続ける。
「海棠。差別って知ってるか?」
「差別って……あの、区別をつけて扱う、あれ?」
「そうだ。今の世の中、差別というのはそう珍しいものじゃない。ユーフェミアちゃんはアシュリー人とのハーフで、そっちの血が濃く出ているから人種差別を受けてしまうんだ。まぁ、二十七年前に大陸共通語になってからは国々の文化も統一性を帯びてきているから、瑞穂の国とアシュリー王国とユバーフィールド連合王国の間での人種差別は僅かながら減ってきたんだけどな」
蓬の言葉に、海棠は苦汁を飲んだかのようにぎゅっと顔をしかめた。
「だって、同じ人間だろ。それに、ユーフェミアは何も悪くないじゃないか」
「そうだ。海棠の言っていることは正論だ。だけどな、人生正論ばかりでできているわけじゃないんだよ」
「でもっ……」
海棠は顔を俯けこぶしを握り、何かを訴えようとしたのか肩に力が入る。がすぐに力を抜き、僅かに上げていた肩を力なく、呆気なく落としてしまった。
「海棠。ユーフェミアちゃんと仲良くなったからには、絶対に最後まで仲良くしろ。分かっているな?」
海棠は蓬の言葉に、俯きながらもこくこくと大きく力強く頷いた。
「今日から刀稽古を受けたい!」
そんな突拍子もないことを言い出したのは、身体の弱い彩乃だった。
それは、早起きが苦手な蓬がまだ布団の中でいびきをかいて眠り、早起きに慣れている海棠と彩乃が二人で朝食を作っている朝のことだった。
その日は、蓬と海棠がユーフェミアについての話をした次の日である。
キャベツを千切りにしている途中であった海棠は、妹の突然の発言に危なく手に持っていた包丁で自分の手を千切りにするところであった。が、慌てて包丁を手を切るより速く止め、事なきを得る。
「っと……。え、ま、またどうしてだ?」
戸惑いがちに海棠は彩乃を見る。彩乃は小さな鍋の中の味噌汁を味見しながら、目つきを鋭く尖らせる。ふわりふわりと柔らかく湯気を上げる味噌汁と、彩乃の鋭い眼光はとても不釣り合いに見えた。
「無論、ゆうちゃんを守るためだ」
真剣な彩乃の答えに、海棠ははっと目を瞠る。包丁を握る手から力が僅かに抜け、銀光りするそれはまな板の上に重い音を立てながら落ちた。
海棠が見つめる中。彩乃は神妙な眼差しで味噌汁を混ぜていた。
「……もしかして、彩乃。昨日の話、聞いていたのか」
「あぁ。聞いたよ。最初から最後まで、一語一句逃さずにね。だから、ゆうちゃんをしっかりと守れるだけの力があたしは欲しいんだよ」
彩乃は手が白くなるほど、お玉を持っている右手をぎゅっと握りしめた。まるで硬いお玉の柄を、へし折らんとするかのような力の入れ具合だった。
海棠は何か追い詰められているような妹の表情を、呆気にとられたような憂鬱に歪めるような悲嘆にくれたような、様々な感情が入り混じった複雑な表情で見つめる。
「……本当に、それでいいのか」
「あぁ。あたしは、ゆうちゃんを守りたいんだよ。いつまでも、守られてばかりは嫌なんだ。それに――ゆうちゃんの悲しむ顔も、見たくない」
彩乃はその瞳に、強く輝く光を宿す。その言葉に、海棠は未だ複雑な表情を浮かべたまま、
「いいんじゃないか? 彩乃が大丈夫なら」
そう言わなかった。
「えっ?」「わっ!」
突然上がった声に、二人は同時に飛び上がった。そうして身体を僅かに震わせた後、二人はそろえているとしか思えないような動きで同時に振り返る。そして、
「父様!」「父上!」
また同時に、同じ人物を指す言葉を大声を上げた。
「はっはっは! 二人とも、ぴったりだな。以心伝心ってやつか?」
台所の入口にもたれて顔をのぞかせている蓬は、そんな二人を見て大きな笑い声をあげた。その笑いに、海棠と彩乃は互いに目を合わせて苦笑しあう。
「ところで彩乃。刀を習いたいのか?」
蓬の言葉にふっと彩乃は一瞬で表情を引き締め、蓬を真っすぐな眼差しで見つめる。
「あぁ。あたしは本気だよ。……確かに身体は弱いし、体力もない。けど……ゆうちゃんを、守りたいんだ」
何かを固く決意したときのゆるぎない瞳。燃え盛る炎を灯したかのようなその瞳に、蓬はふっと微笑んだ。
「何かを守るための強さ、というのは何ものにも負けないほど強いものだ。彩乃なら、大丈夫だろう」
蓬の答えに、彩乃はぱっと明るく顔に笑みを浮かべる。が、
「しかし父様。彩乃は身体が弱いのだぞ」
それに反論したのは、海棠だった。
海棠は厳しい眼差しで彩乃を見つめ、続いて蓬を見つめる。蓬は昨夜とは打って変わって、普段通りのゆるりとした笑みを浮かべて海棠の視線を受け止める。
「刀を習ったとして、彩乃が身体を壊しては――」
「兄者! あたしは大丈夫だよ。あたしは、もう決めたんだ」
彩乃の決意は、誰にも壊すことのできないような巨大な岩のように恐ろしく固かった。そんな決意をあらわにしている瞳に見つめられ、海棠は僅かに狼狽する。
「私はいいと思うよ。だけど、誰でも気軽にできるほど刀稽古は楽じゃないと思うぞ」
「あぁ。勿論分かってるよ。あたしにゃ魔術の才能がないからね。刀なんかの武器の扱いを習うしかないんだよ」
苦笑交じりに彩乃は言う。
「どんなに辛くても、続けられるという覚悟はあるか?」
「勿論だよ」
彩乃は心配げに見つめる海棠の視線を受けながらも、力強く頷いた。
その首肯により、彩乃が刀稽古を受けることは決まったのだった。