scene 8
海棠は鋭い声とともに、目の前の相手を下から袈裟に切るようにして、風を切り裂きながら右手を左下から右上へと勢いよく振り上げた。
刹那――
「ぎゃあっ!」「何なんだよー!」「うわっ! なッ――!」
彩乃と対峙ていた三人の少年が、突然吹いた疾風によって軽々と宙へ飛ばされた。
ぎゃあぎゃあと三様のわめき声を上げながら、三人は呆気なく川へと落ちる。派手に水しぶきが上がり、太陽の光によって小さな虹が出来上がった。
驚きと戸惑いと怒りと悔しさを練り混ぜたような複雑な感情を抱きながら、掘が深い川に落ちた三人の少年たちを気にもせず、海棠は彩乃へと走り寄る。
「彩乃! 大丈夫であったか? っと……あ。ユーフェミア?」
「あ、海棠さん……。貴方が、助けてくださったのですか?」
「あ、あぁ。正しくは、〝間接的に〟だがな……」
苦笑を浮かべる海棠。その曖昧な言葉と表情を見て、ユーフェミアはきょとんと首をかしげる。そして、
「あぁー! 非道いじゃない、海棠ッ! この浮気者!」
小鳥の泣き声のように清々しく、吹きわたる風のように涼しげなソプラノ声が、強く吹き付ける一陣の風のように甲高く流れてきた。
「なッ。ひっ、人聞きの悪いことを言うなッ! 大体、某はおぬしとの恋愛関係は一切持っていないぞ。あくまで契約主と僕だ。分かっているのか、風麗」
僅かに紅潮した顔で、海棠は後ろを素早く振り返った。
「っあぁん。もう。海棠ってば冷たいわね。でもそこがまた萌えるのよねぇ」
「何だそれは」
海棠がいかがわしげに見つめる先。そこには、宙に浮いている一人の少女がいた。見た感じの年齢は十代の後半ほど。ノースリーブの質素な緑と黄緑のワンピースを身にまとい、風にさらりとなびく腰まである白銀の長髪と、透き通るようなエメラルドグリーンの瞳と、エルフのような尖った耳をその少女は持っていた。
ふわふわと宙に浮く少女は化粧気はないが、まるで付けまつ毛をしているかのようにまつ毛は長く、綺麗な二重をしており、頬には紅を塗っているかのように朱が差し、蠱惑な笑みを浮かべる肉感的な唇は紅を引いているかのように真っ赤である。つまりは、大変色っぽい美人なのであった。その美しさはかなり人間離れして見えるが、実際宙に浮いているのだから人間ではないだろうと予想はつく。
「あ……の。海棠さん。あのお方は、一体誰ですか?」
少女のあまりの美しさとその身体が宙に浮いているという異様さに、しばらく呆気にとられていたユーフェミアは、言葉を絞り出すようにしてやっとそれだけ言った。
「あやつは、魔術的な契約を交わし某の僕となっている風の精霊シルフだ。まぁ。某専属のシルフだと思ってくれ。ちなみに名は風麗という」
「専属の、ですか……」
ユーフェミアはシルフの少女――風麗にゆっくりと視線を向ける。
「ちょっとぉ! 何、仲良さ気に話しちゃってンのよッ。そこの女! 邪魔よッ」
風麗の言葉とともに、海棠の横で小さな風が巻き起こった。風は海棠の髪をフワリと柔らかく揺らす。漆黒の髪が舞いあがり、もとの位置に戻るより早く、
「うわっ! 速ッ」
海棠のすぐ左隣りに風麗の姿があった。
風なのだから、もちろん速いに決まっているのだが。
「海棠~。久しぶりなんだから、もっと再会を感動してもいいじゃないの」
風麗は勢いよく海棠の腕に抱きつく。
「――って。わっ!」
その反動で、海棠はバランスを崩しそのまま風麗もろとも地面に倒れた。
「きゃっ。あたしったら海棠を押し倒しちゃったっ」
「阿呆ッ! だから! 某は――」
声を荒げ、風麗の腕から逃れようと必死にもがいた海棠だったが――
唐突に、海棠の口が閉ざされる。
海棠が、何かマズいことでもあったかのようにふっと言葉を止めた理由。それは、
「――待て。待てって言ってるんだよッ!!」
ふいに立ち上がり、大声で怒鳴りつけた彩乃に驚いたからであった。
海棠も彩乃も父親の血を濃く受け継いでいるのか、二人とも普段からよほどのことがない限りは声を荒げたりしない。そのため海棠は、大声を上げる彩乃の姿など見たことがなかったのだ。
「彩、乃……?」
驚きで目を瞠る海棠と、その横で彩乃にきょとんとした視線を送る風麗と、再び呆気にとられたユーフェミアを残し、彩乃は川へと落ちた少年三人組の元へと向かって行った。
「貴様ら。ゆうちゃんをいじめておいて、まさか何もしないで簡単に帰ろうってのかい? そんなこと、あたしが許さないよ!」
川の淵に立ち、腕組みをして彩乃はぎろりと三人を見下ろす。少年たちよりも彩乃の方が歳は下だというのに、今の彩乃には年上の相手さえも怯ませてしまうような凄みがあった。
風麗と海棠によるちょっとした諍いの間に、こそこそと川から這い上がって逃げようと企んでいた三人は、彩乃の剣幕に肩をすくめる。
「まずはゆうちゃんとちゃんと向き合って謝りな! ゆうちゃんが許すというまで、何回だって頭を下げな! 本当は土下座して謝ってもらいたいくらいだけどねッ」
風を切り裂きながら、彩乃は三人へと右手の指を突き出した。三人はまるで鋭く切れ味のよい刃物を突き付けられたかのように、同時にびくりと身体を震わせる。
「…………」「…………」「…………」
「速く謝りなって言ってんだろッ!!」
彩乃の叫ぶような声に、三人は居心地悪そうに互いの顔を見合わせる。
しばらく無言で見合わせていた後、三人の中で最も年長の中心的存在と見える少年が、「分かったから、川から上がらせてくれ」とぶっきらぼうに声を上げた。
「分かった。逃げるようなマネはするんじゃないよ」
彩乃は念を押し、その場から一歩退いた。しかし、その厳しい視線はしっかりと三人の方向へ向けられたままだ。
少年たちは慌てながら上へあがるために堀を登る。先に上がった二人が、三人の中で最も小柄な少年が上がるのを手助けした後、三人はびしょ濡れの身体の正面をユーフェミアの方へ向け、
「……すまなかった。許してくれ」「……ごめん」「すいませんでした」
彩乃に恐れをなしたのか、三人が腰を折って真剣に素直な声音で謝った。