scene 7
今にも涙がこぼれそうな彩乃の瞳。その瞳から逃れるようにして、海棠はふいと視線をそらした。彩乃もそんな海棠に話しかけたりはせず、ただ黙って俯く。
正面に向き直った海棠は前を向いたまま、
「……迷子になるなよ」
それだけ言うと歩み始めた。先ほどよりもそのスピードが遅いのは、彩乃への罪悪感があるからだろう。
自分の足音に重なるもう一つの小さな足音を聞きながら、海棠は後ろから彩乃がちゃんとついてきていることを悟る。それと同時にその耳は、ぐすぐすという鼻をすする音も聞き取っていた。
「……彩乃」
しばらく歩んだ後、海棠は正面を向いたまま妹の名を呼んだ。その呼びかけに後ろから返事はなかったが、それは重々承知の上で海棠は名を呼んでいた。
「すまない。先ほどは悪かった。あのようにムキになって……。某もあれごときで怒るなど、どうかしていた。どうか、許してくれ……」
ぎゅっと、海棠は両手でこぶしを握る。
彩乃と手を解いてから、ずっと考えて考えて考え続けていた謝罪の言葉。海棠は道中、ずっとそのことばかりを考えていた。普段優しく思いやりのある兄の姿しか見ていない分、あのように突き放したもの言いをされては、彩乃のショックも大きいだろう。
「…………」
歩みを止めぬまま、海棠は黙って彩乃の返答を待つ。
絶対に許さない、と言われようがそれは仕方のないことだ。しかし、海棠の心中では許してほしいという気持ちの方が断然勝っている。
「…………」
重苦しい沈黙。
「……彩、乃?」
さすがにここまで黙しているのはおかしいと思ったのか、海棠は歩みを止めると怪訝そうに彩乃のいる自分の後ろを振り返った。そして、
「っ! まずい!」
そこに彩乃の姿がないことに、やっと気がついた。
「くそっ! 考え事に気を取られすぎていたッ」
海棠の顔に、みるみる後悔の色がにじむ。彩乃がいなくなったことに気がつかなかった自分の不甲斐なさに、腹を立てているのだろう。海棠は強く奥歯を噛み締めると、勢いよく地を蹴った。
「……彩乃。無事でいてくれよ」
海棠はここまで歩いてきた道を、疾風のような速さで走り始めた。
病が悪化し、道端に倒れているかもしれない。
悪人にさらわれているかもしれない。
右も左も分からない中心都市で、迷子になっておろおろしているかもしれない。
最悪の事態ばかりが、海棠の頭に浮かぶ。頭によぎる彩乃はすべて、手を解いた時のように憂いを含んだ泣き出しそうな表情をしているのだった。
海棠の頭の中で、涙に潤む漆黒の瞳が自分を見つめる。
「――あぁっ! 某は何故あのようなことを言ってしまったのだ!!」
海棠は苦虫を噛み潰したかのように顔を歪め後悔するが、その念は海棠をイラつかせるばかりだった。
――おつかいと彩乃の世話を頼むよ。お兄ちゃん――
家を出る間際に見た、童顔の父の笑顔。
彩乃の世話をすることなど当たり前のこと。言われずとも分かっている。
強気にそう思っていた自分に、海棠は腹が立ち同時に恥ずかしくなった。
「……馬鹿みたいだ。全く」
陰鬱に俯き、ボソリと呟く。眉間に深いしわが刻まれる。
海棠が、今自分はどこまで引き返したのか確認しようと顔を上げ、道際に並ぶ店にどのようなものがあるのかを確かめようとしたときだった。
「ゆうちゃんをいじめるんじゃないよ!」
勇ましく響いた、甲高い少女の声。
「!」
その声に誰よりも早く海棠は反応する。
声の主を一瞬で悟った海棠は、ぴたりと足を止めた。海棠の前進方向の数十メートル先から上がった声。それは、
「彩乃!」
聞き間違えようのない、海棠が毎日聞いている妹の声。
「待っていろ……!」
海棠は声の上がった方向へ向けて、さらにスピードを上げて走り出す。
人込みは、海棠の前進を阻む。海棠はたくさんの人にぶつかり、たくさんの人に押されながらゆっくりと、しかし確実に前進を続け、
「っとと……!」
唐突に、開けた場所へ出た。
しかし海棠は、道のど真ん中だというのに何故ここだけ開けているのか、ということを考えるよりも先に、
「彩乃!」
眼が捉えた妹の方へと、身体が動き出していた。
開けた場所の中心。そこに彩乃はいた。凛とした顔つきで三人の少年と対峙し、尻もちをついている一人の少女を大きく両手を広げて背中に庇いながら。
海棠は彩乃以外の人物が自分の顔見知りなのかそうでないのかを確認するより早く、その瞳は彩乃と対峙している三人の少年たちの立ち位置、近辺に火の元がないこと、側を流れる浅瀬の川を確認した。そして何かを確信したかのように小さく頷くと立ち止まり、勢いよく前へ両手を突き出した。
唐突に不可思議な行動をとった海棠の姿を見つめる道行く人々は、怪訝そうに顔をしかめる。海棠の漆黒の闇を写し取ったかのように黒い瞳はうっすらとしか開かれておらず、唇は何かを詠唱するかのように小さく、しかし速く動いていた。その口からは、何の音も漏れては来ない。
彩乃に対峙する少年の一人が怪しげな行動をとっている海棠に気付き、そちらを振り向こうと顔を動かした刹那、
「――我が僕、風の精霊の風麗よ! ここに形を成し、我が力となれ!」
うっすらと開かれていた海棠の瞳が決意を秘めたかのような光を灯して力強く開かれ、朗々とした声がその場に響き渡った。