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砂漠の薔薇  作者: 望月満
act 1 春の宵、桜の都
51/110

scene 50

「海が、見てみたいな」

 彼女は屋敷の庭で、憂いを帯びた瞳をしてよくそう言っていた。

 海が見てみたい。

 そんなこと、実現するのは容易いことだ。この街は西側が海に面しているから、屋敷から少し歩いたところには海は広がっている。

「それなら、行けばいいじゃない?」

 そのころのボクには、彼女が不思議でたまらなかった。ボクにとって、海なんて珍しくもなんともない。それなのに、何故彼女は……?

「無理なのよ」

「え?」

 ボクの問いかけに、彼女は遠い目をしながら掃除で使っているほうきの柄の先に、組んだ手を乗せてその上に顎を乗せた。

「私、ここから一歩も出られないの。奴隷だから。このお屋敷のお庭だけが、唯一私の居られる場所よ。私は籠に入れられた鳥と同じなのよ。籠の中の鳥は、広大で青く美しい空を飛びたいと望んでも、願いをかなえることはできない。私が海を見てみたいと思うのも、それと同じようなものね」

 ボクはさらに彼女が分からなくなってしまった。

「じゃあ、叶わないと分かっていて、どうして願うの? 虚しいじゃない」

「えぇ。とっても。けれど――叶わないことだからこそ、強く願ってしまうのではないかと思うわ。多分、だけれどね」

 微笑みを、可憐とも呼べる見事な作り笑いを、彼女はそのとき浮かべた。その瞳は、ここよりも遠くを見つめているように見えた。

 彼女は多分、西の方向に広がる海をその瞳で見ていたんだと思う。……たとえ彼女が海とは真逆の方向である東を見ていたとしても……。

 彼女は自分が東を見つめていることにも気付かずに、しばらくの間自分が行くことのできない遥か遠くを見つめていた。


 黄昏の淡いオレンジ色の光が、彼女を黒い影に染め上げる。

 その黒い背は小さく、弱く、そして儚く見えた。まるで何かを憂いているような、大きな哀愁を帯びているのだ。

「……やっぱり、ここにいたか」

 空の色を映し出す光の海。オレンジの夕日は、自らと同じ色に海を染める。

 砂浜を踏みしめるかすかな音を立てながら、ボクは波打ち際に独りで佇む彼女のもとへ向かう。

 身体の正面を夕日の方向へ向けて立つ彼女。長い金髪が、風に小さく揺れる。そのシルエットの細さは、数か月前と今の暮らしの大きな差を十分に物語っていた。

「……なぁ」

 呼び方が分からず、少し悩んだ後にそう呼んでみる。名前がないというのは、その人を呼ぶことができないから、とても不便でとても悲しい。

「…………。来た」

 彼女は僅かな間を開けた後、聞き取るのが困難なほど小さく呟く。その呟きと間の意味が分からず、ボクは首を小さく傾げた。その瞬間、強めの風に髪を乱暴に撫でられた。刹那、

「わっ。……あぁ。すごい――」

 風と共に、小さなピンクの花弁が運ばれてきた。

 空で軽やかに舞うそれらは、とても美しく幻想的だった。

「サクラ。隣国、瑞穂の国の国花。名前の由来は、瑞穂の国の古典に登場する〝木之花咲耶姫(このはなさくやひめ)〟が最初のサクラのタネを蒔いたので「さくやひめ」の名前から「さくら」になったらしいわ」

 彼女は緋色の景色の中で、柔らかく微笑むように舞う花弁を見つめる。

 サクラというらしいこの花は、海上に流れ続ける。まるで、長い布を纏って躍っているかのようだった。

 サクラの舞いと、海の煌めきと、黄昏の光。その三つが絡み合い、神々しいまでに荘厳な景色を紡ぎだす。

 しばらくの間、ボクはその景色から目が離せなくなっていた。はっと我に返りこちらへ背を向けている、影に覆われた彼女を見つめる。その表情は、全くうかがえない。

「……ごめん。ボク、何も言わずに姿を消しちまって。サイテーだと思うなら、無視してくれたって構わない。許してくれなくても、構わない」

桜の知識は、Wikipediaさんから頂きました。

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