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砂漠の薔薇  作者: 望月満
act 1 春の宵、桜の都
38/110

scene 37

 少女は震える声で吐息のような言葉を零した。かと思えば、ふいに足がなくなってしまったかのように、すとんと地面に崩れ落ちてしまった。

「えっ。だっ、大丈夫なの?」

 ボクは慌てて、少女のそばにしゃがんだ。少女はがくんと上半身を前方に傾け、その身体を両手で抱いていた。少女の身体は、小刻みに震えている。


「殺されるかと、思った……。怖かった……」


 ぎゅっと少女の手に力がこもる。その俯いた顔は影に覆われて見えないが、言葉を紡いだ唇は健康的で艶やかな赤を失い、身体と同じく小刻みに震えていた。

  先ほどは自分は所有物にすぎなくて、いつ殺されてもおかしくないと彼女はあれほどにまできっぱりと言っていたけれど、死ぬことはそんな軽々しいものではない。もっと重くて、もっと複雑で、もっと恐ろしい、闇と戦慄の塊のような存在なのだ。

 ボクは死に怯え、身体を抱き震える少女の姿をなすすべもなく虚ろに見つめるしかなかった。その肩に震えることさえ(はばか)られた。ボクがその頼りなく薄い方に触れた瞬間、彼女は崩れ落ち壊れてしまいそうなほど繊細に見えたから。

 少女の姿は、飼い主に捨てられ路地で雨に濡れながら震える子猫を思わせた。

「――大丈夫よ。君のことは、私が絶対に守る。守って見せるから」

 ボクはそんな言葉をかけるしかできなかった。それは、不可能な誓いになるかもしれない。この世に〝絶対〟なんてものはない。だから、ボクだっていざという少女のピンチに駆け付けられなくて、少女を失ってしまうかもしれない。


 ――口先だけの約束なら糸も容易いことだが、その約束を果たすことは口で言う約束とは比べ物にならないほど難しいものだ。


「シャノン……。ありがとう」

 けれど、ボクの言葉に彼女は震えながらも小さくしっかりとうなずき、礼を言ってくれた。少女は顔を上げ、ボクに微笑みを向けてくれた。

 涙に潤んだその瞳は、はっとするほど美しく澄んでいた。その瞳を見た瞬間、ボクは約束を口先だけにはしたくないと切に思った。


 それからボクと彼女は、たびたび会うことになった。

 ボクがバーンズ家の屋敷に赴いて、少しの間二人で会話をするのだ。ボクは屋敷の人たちに存在がバレないように、木に登って身を隠しながら少女と会った。ボクたちはまるで、小さいころからの親友であるかのように、仲良く喋った。そんなボクたちの姿に、誰も気づきはしなかった。

 ちなみに、あの目つきの鋭い女はボクたちのことを屋敷の者に報告しなかったらしい。つまり、〝嘘〟はつかなかったということだ。少女の方もボクの力を軽蔑したり、怖がったりしなかった。ボクたちは、仲良く平穏な日々を送っていた。永遠に、こんな幸せな日々を送れるのだとボクは思っていた。


 ――けれど、現実は残酷でそんな甘いものではない。


 彼女と出会ってから六年後の冬。それは、その日は、唐突に訪れた。


「シャノン。この服を着なさい。あっ、マフラーも忘れずにね」

 その日は――正確には、前日からイヤに母親がボクに対して優しかった。

 貧しい(うち)は春夏秋冬関係なく、身体を洗いたければ川から汲んできた水を使わなければならない。給湯装備なんて贅沢なもの、この家には存在しないからな。だから、冬に身体を洗うときはかなり寒い思いをしなきゃならない。

 だというのに、前日の夜はなんとか形を保っている湯船にあふれるほどお湯を張っていた。川から汲んできた水を火で沸かしたんだろうけど、水を沸かせるほどの火の元は不明だ。

 さらに髪も身体も綺麗にシャンプーや石鹼(せっけん)で洗ってよいと言って、風呂に入る前にそれらを母から渡された。

 ボクはその日、初めてシャンプーや石鹼というものを使った。それまではそれらがどんなものかということは知っていても、使ったことはなかったのだ。

 風呂では何度も泡を目に入れたり、口に入れたりして大変な目にあった。

 けれどボクには母が優しくボクに接する理由が分からず、前日はずっと顔をしかめて生活しなきゃいけないくらいだった。

 まっさらな、丈が長い灰色のTシャツとジーンズで身を包み、幾つも(ほつ)れができている赤いマフラーをしたボク。普段と変わらないマフラーはボロボロなのに対して、まっさらな服はとても不釣り合いだ。

「よし。良いわ」

 腰までの長さがある茶髪と淡い茶色の瞳を持つ母は、満面の笑みを浮かべてボクを見る。その隣では、肩にかかるくらいの金髪に濃い茶色の大きな瞳を持つ姉がクスクスと笑う。

 ――どうやらこの場にいる人間の中で状況を理解できていないのは、ボクだけらしい。

「お母さん。一体、コレは――」

 〝コレは何なの?〟と問おうとしたのだが、不気味なほど重く響いたノックの音に遮断されてしまった。(うち)は三分の二が崩れた瓦礫同然の家のため、来客を知らせるベルなんて御大層なものはついていない。

「あっ。来た来た。はーい。少々お待ちください」

 母は(まばゆ)いばかりに顔を輝かせ、ぼろきれの様なエプロンを翻しながら玄関へと走って行った。その場に、姉とボクは二人きりで取り残される。


「良かったわね。あんたのその力がやっと人の役に立つのよ。喜びなさい」


「?」

 姉のニヤリとした笑みとともに発せられた言葉に、ボクは眉を寄せて首を傾げる。全く、意味が分からなかった。

「ま。一生帰ってこないでね」

「何、言ってるの? お姉ちゃん」

 ボクはさらにぎゅっと眉間に深いしわを作った。姉はその美しい金髪を右手でなびかせながら、玄関の方を向く。姉が視線を投げた方向へ、ボクも自然に視線をやる。そこには――


「やぁ。今日は。君が、シャノン・アンヴィルだね」


 〝奴〟がいた。ほら吹きで、笑顔がキモくて、ボクを実験用のモルモット同然に扱いやがった、じじい。

 けど――その時のボクの目には、長身で人のよさそうな三十代後半の男性としか映っていなかった。

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