scene 35
ボクの言葉に、少女はしばらく驚いたように目を見開いていたが、やがてそれは微笑みへと変わった。精密に丁寧に作り上げられた美しい人形の様な、できすぎた美しさ。同姓のボクまで見とれてしまうような微笑みを浮かべた少女は、ふわりと花弁が開くように口を開く。
「ありがとう。それから――ごめんね、シャノン。やっぱり、私は名乗れない」
「っ……。何、で?」
ボクは顔を歪める。いざとなれば、勝手ながらボクが命名しようとまで思っていたのだが、少女の言葉を聞いてその気持ちは一瞬にして萎えてしまった。
「私はただの奴隷よ。奴隷には人権なんてないし、人間として生きることさえできない。だから、名前なんて無意味なの」
「そんなのっ……だって、私は君のことをなんて呼んだら……」
「〝君〟で、いいよ」
少女は微笑みを浮かべたまま、あっさりと言った。口元は笑っているが、二つの瞳は笑っていない。真剣そのものの色を映し出すエメラルドグリーンの瞳。
「シャノン。私が奴隷だということを忘れないで。奴隷はあくまで所有物。所有物はいつ捨てられようと、いつ殺されようと文句は言えない。そんな私を、名前で呼んでほしくないの。物は物よ。貴女にとって地面に落ちている〝石〟は石でしかないでしょ? その石にいちいち名前をつけたりする? ……要するに、私はそれと同じよ。私は〝奴隷〟どれいでしかない。それ以外の名前なんて、存在しないのよ」
ボクはしばらく、何も言うことができなかった。
彼女の言っていることは絶対間違っていると、身体中が全否定するのに何と言い返せばよいのか頭が考え付かないのだ。
そのまま少しの時間が沈黙とともに過ぎる。
視線を火の方へ投げたままの少女を見つめながら、やがてボクは大きく息を吸い込んだ。
「でも、それでも、名前くらいあっても――」
「シャノン。もし名前があったら、私が消えてしまった時名前とともに私をはっきり思い出すかもしれない。けれど、名も知らぬ名もなき人だったら私はやがて記憶から自然消滅するでしょう。だから、いいの。私の姿を誰の記憶にもはっきりと刻まれぬようにするために、名前なんていらないの」
少女はきっぱりとボクの瞳を見つめて言った。きゅっと口元を結んだ顔にはもう、笑みの欠片もない。
――そんな顔は、今にも泣き出しそうな表情のように見えた。
「…………。分かったわ。じゃあ〝君〟は君でいいよ。だけど、私は君が私の前から消えても絶対忘れたりしない。忘れたりなんか、できない」
勝手に人の土地に踏み込んでいたボクを見ても、追い出したりしなかった心優しき少女。その姿は、その美しさと優しさとともに永遠にボクの記憶から消えたりしない。それほどにまで、少女の存在はこの短時間の間にボクの中で絶対的なものとなっていた。
「シャノン……。とても気持ちは嬉しいわ。でも――」
「ちょっと!」
少女の声を遮った、甲高い声。
その声に、さっと少女の顔が蒼くなった。その声に、ボクも聞きおぼえがある。それは――
「話声が聞こえると思えば、仕事をさぼって楽しくお喋りをしていたのね。良い御身分ですこと」
さきほどボクの叫び声を聞きつけてやってきた、目つきの鋭い女性だった。視線を屋敷の方向へ素早く走らせると、女性は腰を手に当て少女とボクを見下げていた。少女は顔面蒼白になり、小刻みに震えていた。一方のボクは、今にも意識を失ってしまいそうになっていた。目の前がぐらぐらと揺れ、ちゃんとした景色を見ることができない。頭の中はまさにまっ白になって、痛いような冷たさに襲われていた。
「そっ、その、これは……」
少女はもごもごと口ごもり、今にも倒れてしまうそうなほど蒼い顔をしていた。
――なんとか、しなきゃ。
まっ白になった頭の中でも、それだけは考えることができた。いや、逆にそれしか考えられなかった。白い空間の様な頭の中で真っ先に考え付いた解決策。それは、
自分だけ、さっさと逃げるということだ。
しかし、その考えは一瞬で抹殺された。この少女をおいて、自分だけのこのこと逃げるなどできるわけがない。
この事態は、ボクが招いたことでありボクの責任なのだから。
――しかし、どうしたらこの状況を切り抜けられる?
考えろ、考えろ。ボクは白一色で塗りつぶされてしまった脳をフル回転させる。
そんなボクの視界では、相変わらず浮遊する。ボクがどんなに思い悩もうと、ボクがどんなに悲しもうと、そこに傷つけるものとして、存在する――。
昨日入学式が済み、今日から高校生活スタートです☆
しかし……一時間かけて、息を切らしながら自転車登校はキツイorz