scene 33
火を目にしたボクは我を忘れて、火を求め駆け出していた。綺麗な白い石畳が後ろへと流れ、青白いヒカリたちがボクを誘導するように先へ先へと急ぐ。ボクの足は、先ほどまでの覚束ないものと同じとは思えぬほどしっかりと、地面を蹴って走る。
火があと少しのところまで迫り、まるでボクの行く手を阻むように設置されていた鉄格子の隙間を潜り抜ける。鉄格子と鉄格子の間の隙間は小さかったが、小枝のようにやせ細っていたボクには難なくその隙間を通ることができた。
ボクのすぐ目の前まで迫った揺らめく火は、とても温かかった。
凍った身体を温め、疲れを癒してくれる。
「温かい……。良かった。火があって」
ボクは錆びついたドラム缶の中で煌々と火柱を上げる火の前で、膝を抱えて座り込んだ。ドラム缶ごしに伝わる炎の温度を感じながら、ボクはドラム缶に手をかざし暖をとる。周りには人っ子一人いない。火の勢いは良く、とても温かいのに人がいないなんておかしいことだ。だけどその時のボクの頭には、おかしいと感じるような余裕なんかなかった。――ボクは、とても眠たくなっていたんだ。
「……ちょっとくらい、いいよね」
ちゃんと回りだした呂律で呟くと、ボクはこくんと頭を揺らした。景色が瞼によって遮られ、炎がパチンと爆ぜる音も遠くなる。ボクは意識を闇の底に預け、深い眠りに身を落とした。
――どれくらい、眠っただろう。
身体の左側に、冷たい土の感触を感じる。ということは、ボクは身体の左を下にして、横向きの体勢で眠ってしまっていたらしい。
その時は思いもしなかったが今思うと、よく寝る体勢を崩していたのにボクの身体は燃え盛る炎をその中に飲んでいるドラム缶にぶつからなかったものだなと、考えただけで少しひやっとする。
そうしてすっかりくつろいで泥のように眠っていたボクが、その時目を覚ましたのには理由がある。
「――っと。ちょっと。ねぇ。もしもし。大丈夫? ねぇ、ちょっと」
ゆさゆさと身体を揺らされ、耳元で声をかけられたのだ。ボクはせわしなく揺れる身体と、耳朶を打つ声が鬱陶しくなり喉の奥で小さく呻く。
「う……ん?」
かすかに声を上げながら目をうっすらと開いた刹那、ボクは爽やかな花の香りを嗅いだような気がした。
「あ。良かった。死んでいなかったのね」
ほっとした響きを含む、柔らかで小鳥のさえずりを思わせる綺麗な声。かすむ視界の中に、しゃがみ込んでボクの顔を覗き込む少女の姿が捉えられる。まず印象的にボクの目に飛び込んできたのは、とても澄んだ驚くほど煌めくエメラルドグリーンの瞳だった。次に視界で躍ったのは、自ら光を放っているかのような金糸を思わせる美しい金髪。見たところ歳はボクと同じか少し上くらいに見える子だった。
「っ……」
ボクはしばらく呆然として、意識が何処かを浮遊していた。女のボクでも言葉を失ってしまうほど、少女は美しかったのだ。
「……えっと。その、大丈夫? 言葉、話せる、よね?」
少女は、言葉を一つ一つじっくりと選ぶかのように、区切り区切りに話す。少女の顔からして、どうやら戸惑っているようだった。
少女は心の底からボクを労わってくれるような表情で、心配そうにボクを見つめる。ボクは身体を起こし、その場に膝を抱える格好で座った。
「あ……。え。うん。大丈夫、よ。私は、大丈夫、だから」
あ。ちなみに言っていなかったが、その頃のボクの口調はまだ丁寧だった。どうしてこんな口調になってしまったのかは……また話が進むうちに説明しよう。
ボクは少女の問いにしっかりと頷き、しっかりと少女を見つめ返した。自分で思ったより、しっかりした声で返事ができたことに、少し驚きながらも。
「そう。良かった」
少女はふっと微笑んだ。笑みを浮かべた少女はなお美しく、まるで職人がその生涯をかけて丁寧に作り上げた人形のようだった。彼女の微笑みの前では、どんなに美しい花さえも色あせて見えてしまうだろう。
「あ……。えっと、その、心配してくれてありがとう」
彼女のあまりの美しさに、みすぼらしい自分が少し恥ずかしくなりながらもボクはとりあえずお礼を言って頭を下げた。少女は首を小刻みに、上品に振りその金糸の様な髪を揺らした。瞬間にボクの鼻孔を、先ほど目を開けた時に嗅いだ花の様な香りが、ふわりとくすぐっていった。どうやらこの香りは彼女の身体から発せられる香りらしかった。
「ううん。そんな、お礼を言われるほどのことじゃないわ。それよりも、貴女は何故ここにいるの?」
「え?」
ボクは少女の問いに首をかしげる。だって、火を焚いていたから来ただけのことだ。それなのに、何故と聞く。
確かにボクは悪魔の娘だけど、少女はそんなボクを拒んではいない。ということは、ボクの力を知らないということだ。ボクのことを知っているのなら、何故問うのか分からなくもないのだが。
首を傾げ眉根を寄せたボクを、少女は右ひじを左手のひらで支え、右手のひらを頬につけてきょとんと見つめる。パチパチと瞬きをした少女は、
「貴女、南側の子でしょ? ここは、北側のバーンズ家の屋敷内よ」
きょとんとしたまま言った。
「ばーんずけ……? ばーんず家……。バーンズ家ぇぇぇ――!」
ボクは驚きのあまり、腰を浮かせて大声を上げてしまっていた。その声の大きさに、少女はびくっと身体を震わせる。ボクは驚きのあまり、ぽかんと口を開けたまま固まる。
少女があんぐりと口を開けたままのボクに声をかけようと、恐る恐る手を伸ばし口を開きかけた時だった。
「ちょっと! 今の声は何?」
ボクからは、大きなドラム缶に邪魔されて見えない前方の方から、大きな声が上がった。その声に、少女は瞬時に反応する。
「大変! ちょっと、ごめん!」
そう言うと、少女はすばやく立ちあがりボクをどんっ、と押した。
「うわっ!?」
ボクは困惑しながら、後ろへと倒れる。ボクの背に何かがざわっと当たり、そのままガサガサッという音とともに、ボクの身体は草むらの中に倒れこんだ。