プロローグ 小向花梨
これは両親と花蓮から聞いた話で、私の記憶にはない出来事だ。
小学生の頃、お盆に母の田舎へと遊びに行き、私はそこで溜め池に落ちたらしい。
それほど深い池ではなかったそうなのだが、まだ泳げなかった私は池に沈み、たまたま近くにいた高校生に助けられた。
以来、池や銭湯の大きな浴槽といった『たくさんの水』がある場所が苦手だ。
側に近づくのも嫌で、ほとりに立たされれば恐怖で足が竦む。
プールや大きめの水溜りを前にして涙が止まらなくなる私に、同年代の子どもたちは残酷だった。
恐怖で声を引きつらせて泣く私が、彼らには面白い玩具に思えたのだろう。
長い棒を振り回して追い掛けられ、水場へと追い立てられたことは一度や二度ではない。
女の子はこんな『遊び』はしなかったが、少し成長をして中学にあがると、また状況は変わった。
女の子の思春期は早く、男の子よりも先に色恋に目覚める。
小学生の頃と同じノリで『私で遊ぶ』男の子に、『子どもの遊び』ではなく、男の子が『私を好きでちょっかいをかけている』のではないか、と邪推するようになったのだ。
あとは、結果だけなら小学生の頃と変わらない。
ただ、女の子は知恵が回るので、よりやり方が悪質だっただけだ。
息苦しいだけの中学生活が終わり、高校にあがって少しだけ周囲の顔ぶれも変わった。
これで息がしやすくなるかと期待もしていたのだが、今度は女の子の邪推ではなく、本当に男の子から告白を受けるようになってしまった。
ここまでくれば、もうオチは判る。
待っているのは中学時代の二の舞だろう。
告白してくる男の子に好意を寄せた女の子から、なぜか私が恨まれるのだ。
そして本日、隣のクラスの平本弓子に呼び出された。
呼び出されたというか、仲間を引き連れた平本弓子に中庭へと連行された、と言った方が正しい。
ほとんど話したこともない級友との関係を邪推され、「スギナカ君に話しかけるな」「私の方が先に好きになったのに」と筋の通らない要求をされた。
平本弓子の言う『スギナカ君』とまともに会話をしたことなど告白をされた時の一度きりで、もともと挨拶すらしない程度の級友だ。
話しかけるな、もなにもない。
先に好きになった、という平本弓子の主張も、「そうですか」としか私には答えようがなかった。
平本弓子が誰を好きだろうと、『スギナカ君』が私を好きだろうと、私には何の関係もないのだ。
謂れのない罵倒だとは思ったが、私なりに真摯に話を聞き、応じた。
その結果が、これだ。
中庭の池へと、平本弓子とその『オトモダチ』に追い込まれ、今まさに突き落とされそうになっている。
遠くから花蓮の声が聞こえてきたが、きっと間に合わないだろう。
平本弓子の腕は私の肩を押し、私の体は背後の池へと傾く。
あとの事は覚えていない。
ただ頭が真っ白になって、必死で両手を伸ばした。
何かを掴んだ気がして、それをけっして放すまいとしていたはずなのだが、わからない。
怖くて、とにかく必死に掴まる場所を探して、腕を伸ばして、怖くて、また腕を伸ばして。
とにかく池に『また』落ちるのだけは嫌だ、と力の限り抗った。
完全に体が傾いて、顔が水面に叩きつけられる僅かな感覚があった。
両肩に花蓮の手が巻きつくのは判ったが、池に落ちる恐怖から硬く目を閉じ、息すら止めていた私には確認のしようがなかった。
息ができない。
呼吸を忘れている。
そう私に思いださせてくれたのは、誰かの大きな手だ。
花蓮の手とは違う大きな手が私の額を撫で、濡れて顔に張り付いた前髪を払う。
力強い手に体を押し上げられ、水面から頭が完全に出た――
「……へ?」
頭が水面へ出た。
そう感じていたのだが、違った。
池に落ちたと思っていたのだが、私の体は濡れていない。
髪も乾いたままで、目の前にいるのは双子の姉の花蓮だけだ。
一瞬前まで感じていた大きな手の持ち主は、どこにもいなかった。
「……レンちゃん?」
「リン、だよね?」
目の前に鏡がある。
双子なのだから、そう思ってしまったのも当然だろう。
多少髪型に違いはあるが、私と花蓮は同じ顔をしている。
私と同じ顔をした花蓮が、私と同じように目を瞬かせ、今の私の心情と同じ表情をしていた。
「ここ、どこ?」
「少なくとも、中庭の池はこんなに広くなかったと思うんだけど……ね?」
不安から互いに手を繋ぎ、周囲を見渡す。
高校の中庭にある池に落とされたはずなのだが、周囲の様子は一変していた。
見た目よりも深い池だったとしても、見えるのは濁った水や、苔の生えた石だけだっただろう。
けれど、今見えているものはまるで違う。
真っ暗かと思えば、遠くに星の光が見える。
ならばここは宇宙空間かと気が付くと、足元に青い星が現れた。
テレビや写真で見た地球のようだ、と大陸を意識して足元の星を観察する。
雲があってはっきりと大陸の形が見えるわけではないが、どうやら地球ではないようだ。
大陸があることはあるのだが、知っている形をしていない。
「……異世界転生は白い部屋と相場が決まっているんだけど」
「死んでない、死んでないよ」
「じゃあ、異世界召喚だ!」
これでどうだ、と胸を張った花蓮の足元に、パッと幾何学模様の魔法陣らしき光が現れた。
「え? 嘘? マジで?」
「レンちゃん!」
このままでは花蓮が謎の魔法陣に引きずり込まれる。
そう咄嗟に花蓮の体へと抱きつくと、魔法陣から光の蔓のような物が伸びてきた。
光の蔓は私と花蓮の体に区別なく巻きつくと、その輝きを増し始める。
「なに、これ……っ!」
「気持ち、悪い……」
光の蔓を通じて、何かが私たちの体の中へと入ってきた。
『何か』が『魔力』であり、この魔法陣が想像通りの『異世界召喚の魔法陣』であると理解できたのは、光の蔓のおかげだ。
この蔓から、必要最低限の情報も同時に流れ込んできていた。
「……この蔓、切ったら異世界召喚阻止とかできるかな?」
「むしろ、逆に全部吸い取ってやらない?」
「吸い取ってどうするの!?」
「そろそろ誰かの都合で振り回されるのが嫌になってきたの!」
たまには振り回される側になってみろ、と言って花蓮は光の蔓を掴む。
私が苛められるたびに、助けに駆けつけてきてくれていた花蓮だ。
同級生の苛めどころか、異世界からの了承も得ない一方的な呼び出しに、これまで溜めこんでいた鬱憤が爆発したのかもしれない。
全部吸い取るという発言のままに、花蓮は光の蔓を引っ張る。
顔も見えない召喚者に対し、おまえのすべての魔力を寄越せ、と呪いの言葉を吐きながら。
「なんだかノリノリだね、レンちゃん」
「だんだん楽しくなってきた」
リンもやってみなよ、と言って花蓮が私へと光の蔓を差し出す。
花蓮の引っ張っている光の蔓は金色に光っているのだが、私へと向けられたのは銀色に光る蔓だ。
「これ、色の違いで何かあるのかな?」
「さあ? 引っ張ってみて何か判らない?」
「んー、……あ、これ体力的なものだ」
流れ込んでくる力の感覚から、なんとなく『ソレ』がなんであるかが判る。
体力的なものとざっくり答えたが、正確には生命力といったところだろうか。
活力ともいうかもしれない。
「この光の蔓は、契約の力とか、そんな感じのものだね。光の蔓を通じて召喚先の基礎知識とかを刷り込む予定だったみたい」
「予定は未定だね。まさか、光の蔓を通じて自分の魔力を吸い取られるとは思わなかっただろうし」
「ねー」
最初こそ気持ち悪かったが。
慣れてくれば、逆に楽しい作業だ。
一方的に私たちを呼び出し、利用しようとしている存在に、一矢も二矢も報いることができている。
奪えるだけ奪ってやる、と考えてしまったのは仕方のないことだったかもしれない。
私たちに吸い取られすぎたせいで、光の蔓は糸のように細くなってしまった。
あとほんの少しで光の蔓は切れる。
光の蔓が切れれば、この召喚は失敗に終わる。
そう途中から理解していたのだが、吸い込み作業は途中で遮られてしまった。
突如として響いた男の声に、私たちの集中が途切れてしまったのだ。