プロローグ 小向花蓮
チリチリと、嫌な予感がして廊下を早足に歩く。
目指すのは妹の花梨の教室だ。
私と花梨は双子ということで、毎回別々のクラスへと割り振られる。
それもご丁寧なことに、一組と四組といった、物理的な距離まである扱いだ。
双子で纏まらず、友人知人を作れ、という大人たちの気遣いだろう。
いらぬお世話というものだ。
比較的言いたいことを言える性格の私はそれでも大丈夫なのだが、花梨は違った。
人見知りをして、なかなか新しい級友に慣れることのできない花梨は、クラス替えのたびに孤立し、慣れた頃には年が変わってまたクラス替えの季節となる。
必然的に話をする級友の数は少なく、言葉数の少ない花梨の評価は男女で分かれた。
無口な花梨は、男子生徒には『おとなしくて可愛い』と密かに人気がある。
頭に『姉と違って』と付けられることも多いが、花梨が可愛いことは私も認める事実なので仕方がない。
そして、女子生徒からは『無口で何を考えているか判らない』『無表情で不気味』と陰口を叩かれることがある。
これもある意味では事実なので、仕方がないとは思う。
思うのだが、この男女による花梨評の差は時々悲劇を生む。
花梨に片思いをする男子生徒と、その男子生徒に片思いをする女子生徒とで一方通行の三角にならない三角関係が出来上がるのだ。
「やっぱりいない! リンは!?」
花梨の教室に飛び込むと、すぐに妹の席と鞄を確認する。
そこに花梨の姿はなかった。
ただ、鞄はまだ机の横にかかっているので、帰ってはいない。
すれ違いになったわけではなかった。
「小向(妹)なら、平本が連れてったぞ」
「あれだろ? 優也が小向(妹)に告ったって噂が広がってたやつ? 女は怖ぇーな!」
花梨の情報を求めて周囲を見渡す。
不思議とどんなクラスでも必ず一定数の『高いところが好き』な男子生徒が存在するようで、花梨のクラスにも彼らはいた。
教室の後ろに並んだロッカーの上に座る男子生徒は、次々と私の求める情報を吐き出す。
やはりというのか、花梨は平本という生徒に連れ出されたようだ。
……知らない人にはついていっちゃ駄目、って言ってあるのにっ!
平本弓子は、花梨の隣のクラスだった。
体育の合同授業ででも出会えば、花梨にとって『知らない人』ではないのかもしれない。
とはいえ、色を抜いた明るい茶髪の平本弓子は、花梨と気の合うタイプではなかったはずだ。
花梨が進んで呼び出しを受けたとは考え難い。
「優也、平本から助けてやったら、小向(妹)が惚れてくれるんじゃね?」
「別に、あんな根暗女。もう好きでもなんでもねーよ。今さら惚れられても困るつーか……」
「や、リンがアンタみたいなのに惚れるとか、ないから」
何言ってるんだおまえ、と男子生徒間の会話を遮る。
だいぶ話が見えてきた。
いつものようにおとなしい花梨に杉中優也という男子生徒が想いを寄せ、花梨に告白。
そして玉砕。
しかし、杉中優也が花梨に告白をした、という噂は広がり、杉中優也に片思いしていた平本弓子はこれが面白くはない。
そして平本弓子は花梨を連れ出し――
「中庭かっ!」
教師から目を付けられない程度に、しかし確実に花梨を痛いめにあわせたい。
そう平本弓子が考えたのなら、花梨を連れ出す場所は絞れる。
小・中学校が同じだった人間のほとんどが知っている弱点が、花梨にはあった。
高校に入ってからは生徒の顔ぶれが変わったため、これを知っている人間は減ったが、同じ中学出身の同級生が平本弓子と親しければ、話している可能性はある。
故意に他者の目を集めよう、と大きな声を出して廊下に飛び出る。
そのまま窓に張り付くようにして中庭を見下ろすと、すっかり葉桜に変わってしまった桜の木陰に、女生徒数人の足が見えた。
「見つけた!」
リン、と妹の名前を呼んで、窓を叩く。
窓を割る意図も、中庭にいる平本弓子の意識をこちらへと向けさせる意図もない。
ただ私の奇行に、廊下を歩く生徒たちの視線が何ごとかと中庭に向けられればいいのだ。
いじめの目撃者など、多いに越したことはない。
なんだったら、後々苛めの証拠となる動画を撮影してくれる場合もあるだろう。
上履きを鳴らして廊下を走る。
段を飛ばして階段を駆け下り、上履きのまま中庭へと飛び出した。
そのまま真っ直ぐに桜の木を目指して進むと、見張りと思われる女生徒二人の奥に、平本弓子とすでに正気ではないと判る花梨の姿が見えた。
花梨は両目にいっぱいの涙を浮かべ、真っ赤な顔をしている。
……あいつ、また?
見張りの一人は同じ中学から来た、元級友だ。
彼女が平本弓子へと花梨の弱点を教えたのだろう。
中学時代、彼女の片思いしていた男子生徒が花梨に告白をした、と噂になったことがある。
その時にも、花梨は逆恨みをされて面倒なめにあわされていた。
私と目の合った元級友は、私が引っ張ってきた野次馬の視線にたじろぐ。
私だけならなんとでも逃げられたかもしれないが、これだけの視線があれば証拠も証言も十分だ。
元級友は平本弓子の肩を叩き、自分たちが追い込まれそうになっている、と平本弓子に伝える。
しかし、これが引き金になってしまった。
平本弓子は対峙していた花梨の肩を押すと、バランスを崩して花梨が背後へ倒れそうになる。
背後へと迫った池に、花梨が辛うじてつなぎとめていた理性が切れた。
「いやぁあああああ!」
普段の様子からは想像もできないような大声をあげて、花梨は平本弓子の腕に掴まる。
池に落ちたくない、水が怖い、そんな必死の形相を浮かべた花梨に、追い込んだ側の平本弓子が逆に怯えた。
本来は池に怯える花梨を笑って楽しむはずだったのだろうが、これでは立場が逆である。
……そのまま支えててよ!?
花梨が池に落ちる前に助けられるか。
それは平本弓子の腕力にかかっている。
花梨が掴まっている平本弓子の腕が、花梨の全体重を支えていた。
当然、平本弓子に花梨の体重を支えられるような腕力はなく、咄嗟のことでなぜか突き落とした側の平本弓子も花梨の腕を引っ張って支えてはいるが、そう長くは持たないはずだ。
「リン!」
間に合った。
私ひとりの腕力では難しいが、平本弓子と二人なら花梨が池に落ちる前に引っ張りあげることができる。
平本弓子もそう考えて、花梨の腕を掴んだ私に安心したのだろう。
その一瞬の油断で、体から力が抜けた。
ぐらりと平本弓子ごと背後の池へと傾く花梨に、せめて一緒に濡れるか、完全に落ちる前に体を支えてやろう、と花梨の体の下へと自分の体をすべり込ませる。
これが反動になったのか、平本弓子の倒れる方向が変わった。
平本弓子が倒れる先は、桜の根元だ。
池の中ではない。
……もうっ!
狙ってやったわけではないが。
花梨を助けるつもりで、加害者である平本弓子を助けてしまった。
せめて制服のクリーニング代は平本弓子の小遣いから出させなければ割に合わない。
そう考えたところで、花梨の体が私の上へと乗ってきた。
あとはそのまま、二人で仲良く池の中へと沈む。