エピローグはない
- 7 エピローグはない -
からからから、と油の跳ねる心地のいい音が台所に響く。衣がきつね色に変わっていく。
つい先ほど、洗濯物を取り込みおえた驗は居間でそれを畳んでいる。
「おーい、もうできるぞー」
エビフライをバットにあげながら、俺は驗に呼びかける。おお今日は素晴らしい出来だな。俺の家事スキルも素晴らしいくらいに上達している証拠だ。
ちらりと背後を振り返ると、洗濯物を畳み終えた驗は、それを縁側に続く障子のそばに丁寧に並べている。俺の山と驗の山に。下手くそで統一感のない畳み方だけど、俺は不満なんて何ひとつ感じない。
そうして台所にやってきた驗は、言われもせずに、ふたつのお椀にご飯をよそっていく。
「どう?今日のはなかなかよくできてないか?」
今日のメインを、先にサラダを盛っておいた皿に移して驗に見せる。
「見た目はいつもいいよ」
な.....皮肉かそれは?
俺たちはふたり分の食事を居間のテーブルに運んで、声を揃えて「いただきます」と手を合わせた。先に驗が食べるのを待つ。リアクションが気になるのだ。
さくり、癖になりそうなくらい気持ちいい音。
「美味しい」
と笑ってくれる驗。
そうか、美味しいか。それはよかった。俺も自分が作ったエビフライに齧り付く。うん、美味い!
咀嚼音や、箸が食器にぶつかる音が響く。
ふたりだけの晩餐も、今じゃすっかり慣れてきた。驗も、以前のように喋るようになった。それでもまあ、元が無口だから沈黙が生まれるのは仕方がない。
陽子さんの手紙を読んだ後、俺は彼女の遺品にはじめて触れた。思い出を呼び起こしながら、胸を穿たれながら、俺は過去に触れていった。そしてそれらは部屋の押入れに、全て丁寧にしまわれている。捨てることはできないし、たぶんこれから先、生きているうちには捨てようとも思わないだろう。
彼女のハンドバッグの中にはさらにもう一枚の茶色い封筒が入っていて、そちらには彼女の死後に残るあれこれに関する文言が書かれた手紙が収められていた。
『空くんと驗にはそれぞれ私のお金を残しておきました。
空くんの方には驗の学費も合わせて入っていますから、無理なく使ってくださいね。
驗への通帳は、あの子がその価値を本当に理解できるまで渡さないようにお願いします。母親として、父親に頼みます。
通帳と印鑑は抽斗の二番目の奥です。』
俺は抽斗を開く。陽子さん、ここは俺の抽斗だよ。しかも下着をしまっておく.....。
抽斗の奥に手を伸ばすと、下着の肌触りとは明らかに違う何かがあった。俺はそれを掴んで取り出す。
水色の毛糸の手袋だった。その中に通帳と印鑑が入れられていた。俺はもう一度抽斗に手を伸ばし、手をごそごそと動かして漁る。あった、もう片方の手袋が。
俺はそれぞれの手袋から通帳と印鑑を取り出す。
一方の通帳の表面には『空くんに』、もう片方には『驗に』と記されたメモが貼ってあった。
俺は自分に残されたそれの最新のページを開いてみる。
『無駄遣い禁止!!お小遣いは月四万円!』
赤字で書かれたメモが、でん!、と目に飛び込んでくる。思わず笑ってしまった。なんとも陽子さんらしい。さすが財布の紐を握るのは妻の役目だ。でも、四万円って多い方なんじゃないか?
メモをどけて中を見る。
通帳に記載されていた内容は驚くべきものだった。
確か、子供ひとりを大学まで育てるのに必要な金額はおおよそ三千万くらい必要だった気がしたが、その倍近い数字が記帳されていた。
......さすが元売れっ子キャバ嬢だな。
俺は陽子さんの渾身の注意が書かれたメモをページに挟んで戻して、それぞれの通帳と印鑑を元の場所へしまった。この手袋はサイズ的に驗のものだろう。あとでちゃんと渡しておこう。
その他、茶色い封筒の方には、驗の親権者としての手続きや、相続に関する云々が記されていた。
俺はその封筒も通帳と同じ抽斗に大事に保管し、残されたものとしてのやるべきことをひとつひとつ片付けていった。
陽子さんには不思議な力があった。それは予知能力とか読唇術とか、どこにでも転がっているような陳腐な言葉では言い表したくない、彼女だけの力だった。
今思えば、それを感じる瞬間はたくさんあった。どことなくそれに気がついている自分もいた。でも、そんな瑣末なことはどうでもいい。
俺にとっての一番は陽子さんを感じることだったから。その力はあなたの残したものにも受け継がれていますよ。
年が明けた頃、陽子さんにお墓を造った。あんまり豪勢なものではないけど、陽子さんが俺に用意してくれたお小遣いを随分前借りしてしまった。怒られてしまうな。
もちろん、墓を造ったからといって、穿たれた胸の穴が埋まっていくことはない。きっと永遠に彼女のいた隙間が、季節を変えるたびに疼いて、俺を悩ませていくかもしれない。
けれどそれでいい。どんなに時が経っても色褪せない、どれだけ日々を積み重ねても埋もれることのない、そんな彼女のいた証として俺はずっとその空白を抱え続けていくのだろう。
そして月命日の今日、大学が春休みに入った俺は、驗を連れて陽子さんの眠るそこへ赴き、共に手を合わせてきた。
真っ直ぐに、彼女の墓を据える驗の瞳は、確かな光と力強さがみなぎっていた。
『ごめんなさい。驗を背負わせてしまって』
あなたが俺にくれた手紙にはそんなことが書かれていたっけ。
————大丈夫だよ。大丈夫だから。
そんな心配はいらないよ。
驗は、自分で立てるよ。
俺なんかが背負わなくても、こいつは前を見て歩いてるよ。胸を張って生きてるよ。
ちゃんと、生きる力を持っているよ。
だから、もしもまた驗が転んでも俺は背負わない。自分で立ち上がれるように手を差し伸べて、ふらついたら支えてやるんだ。
俺はまだまだ未熟者でてんでダメな人間だけど、それでも驗の父親として精一杯生きるよ。
それまでどうか見ていてほしい。
いつかまた、そっちで会えたら、今度はあなたに釣り合うくらいの親になってるから。
———陽子さん。
生きている限り、俺は何度でもその名を呼ぶよ。
あなたは俺にとって太陽のような存在だった。いつも笑って、時々曇って雨を降らす。だけどまた笑ってくれる。
明るく俺を照らしてくれる、かけがえのないたったひとりの輝く太陽。
あなたのおかげで、俺の世界に色が灯った。
あなたのおかげで、俺は大事なものを手に入れることができた。知ることができた。
———俺はまだ、あなたと手を繋いだままでだよ。
離れないためには、離さないことが大切だから。
あなたが俺に言ってくれた言葉だから。
あなたと俺と、そして驗を繋ぐ言葉だから。
守るよ。俺が守り続ける。
エピローグはない。
だって、俺と驗はまだまだ生きるから。
死ぬその瞬間まで生を輝かせるんだ。
俺と驗の道は交わったばかり、
始まったばかりなのだから。
道は、死ぬその瞬間まで続いていく。
ゆっくり、ゆっくりと歩いていくから—————。




