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長いプロローグ  作者: やきりいせ
5/8

短すぎるつながり

 - 5 短すぎるつながり -

  その朝、俺が夢から覚め、目を開けると、隣の陽子さんの様子がいつもと違うのは明白だった。

  体を越していた陽子さんは、乱れた髪で顔を見ることはできない。ただ、荒い呼吸で震えてるのはわかった。

  「......陽子さん?」

  微睡みの余韻が残っていた俺は、目をこすりながら声をかける。

  しかし返事はない。

  これはただ事ではないと思った俺は、起き上がり枕元の行灯に光を灯す。

  そしてその肩を揺すろうと手を伸ばす、が、俺の指先が彼女に触れた瞬間、陽子さんは小さな悲鳴を上げた。

  ゆっくり恐る恐る俺の方を見やるその顔は涙に濡れていた。

  「ど、どうしたんですか?」

  俺が問いかけても、彼女は何も答えない。

  ただ黙って俺の顔を見つめてくる陽子さんの表情は、怯えていた。

  外はまだ薄暗く、鳥のさえずりさえ聴こえない。

  彼女の吐息が響く世界で、俺は堪らず彼女を抱きしめた。俺の心臓の鼓動が伝わるくらい力強く。

  「大丈夫、大丈夫だから」

  彼女の背中をさすりながら、耳元で声をかけ続けた。

  大丈夫、大丈夫————

  そうやってなんどもなんども。

  「....空くん」

  どれだけの時間が経ったのかはわからない。障子の外から若干の光を感じたころ、陽子さんは震えた声で俺の名前を呼んだ。

  「ん?」

  抱きしめたまま俺は応える。

  「.....」

  彼女は何も言わない。それでも俺は待ち続けた。ゆっくりでいいから、急がなくていいから。ただ、その震える肩を抱きながら。

  「....空くん、大好きです」

  やがて彼女はそう言った。優しくて、そして悲しみに満ちたような声で。

  「俺も、大好きですよ」

  俺はより強く彼女を抱きしめる。

  壊れ物のように弱くて脆いその身体を。


  ❇︎❇︎❇︎


  「しるしー、起きろー」

  耳に響く柔らかい声。空くんの声だ。

  空くんが一緒に住み始めてから、ぼくを起こしてくれるのは母さんではなく空くんになった。

  ぼくもその方がよかった。

  なぜなら、空くんは“ちゃんと”起こしてくれるから。ぼくがしっかり目を開けて布団から出るまで声をかけ続けてくれるのだ。

  母さんだと「朝よー起きてー」の一言で終わる。ぼくが睡眠を継続させて遅刻間近の時間にベッドを飛び出しても、自分は起こしたと言い張るのだ。

  ぼくはあくびをしながら体を起こす。

  ぼやけた視界の向こう、襖のすぐそばに空くんが立っていた。

  「ご飯できてっぞ」

  腰に手を当てながらそう言うと、手を上に伸ばしながら空くんは廊下を歩いて行った。

  ぼくも大きく伸びをしてベッドから降りる。そしてよろよろとおぼつかない足取りで居間へ向かった。

  「おはよう」

  ニュースを見ていた空くんは、小さく微笑んでくる。ぼくも「おはよ」と返した。

  自分の定位置である障子の前の席に座って、テーブルに置かれていた朝食に手をつける。

  味噌汁をかき回しながら、ぼくはきょろきょろと首を動かす。

  「母さんは?」

  いつもなら台所に立って空くんのお弁当を作っている母さんが、今日は見えない。どうしたんだろう。

  「ちょっと具合悪いんだ。部屋で休んでるよ」

  「そっか」

  母さんが病気?めずらしい。というか、はじめてだ。

  いつも笑顔な母さんがいない。それがなんだすごく不安だった。テレビから流れる軽快な音楽がむしろその不安を煽るみたいで、なんだか不快だった。

  「心配すんなって、夏の疲れが出たんだよ」

  本当にそれだけならいいけど。

  胸のざわざわとした感じをどうすることもできず、ぼくは早々にご飯を食べて学校に行くことにした。


  ❇︎❇︎❇︎


  「陽子さん、大丈夫ですか?」

  俺は襖越しに声をかける。驗を見送った後、この家には俺と陽子さんしか残っていなかった。

  「すみません、心配かけて...」

  開かれることのない襖から怯えたような声で返事がくる。

  「俺、そろそろ行きますけど、今日は早く帰ってくるんで、夕飯は俺が作りますね」

  「すみません。迷惑かけてしまって」

  静寂の中で発せられる彼女の声はひどく弱々しく、俺の心に焦りと不安を掠めさせた。



  陽子さんと結婚して、すでに一ヶ月が経とうとしていた。葉の色は赤く染まり、衣替えを終えたばかりのこの季節は、訳もなく切なくさせる。

  さらにそこに陽子さんの異変。

  この二週間、毎晩泣いて寝室からあまり出ようとしなくなった。理由を尋ねても首を振るばかりでなにも答えてはくれない。それどころか、もっと涙を溢れさせてしまう。

  俺はただ抱きしめてあげることしかできなかった。

  体調が悪い訳ではないと彼女は言うが、俺は病院を勧める。

  それでも頑なに家の外へは出ようとしなかった陽子さんは、まるで何かに怯えているように肩を震わせるのだ。

  そんな陽子さんの様子を心配した驗も、家にいる間は寝るとき以外ほとんど彼女のいる寝室で過ごすようになった。

  「母さん、具合悪いの?」

  「ううん、大丈夫」

  優しさと強さを合わせた、母の声だった。だけど、どこかに翳りというか、儚さを含んでもいた。

  「驗」

  「なに?」

  「大きくなったね」

  陽子さんは驗を抱きしめる。どうしていいのかわからず、戸惑っていた驗も、その背中に手を回す。

  幼い母親が幼い我が子を、必死に守ろうとする、そんな親子の光景を、俺は襖の陰から見ていた。

  俺の中には不安と情けなさが募るばかりだった。

  陽子さんがああなっている原因もわからず、どうすることもできない自分自身の無力さが、無性に腹立たしかった。

  「よーし、そろそろ寝るか」

  俺はわざと明るい声でふたりの前に出る。俺がしょげて落ち込んでたって仕方がない。むしろ余計に空気が悪くかもしれない。俺は夫としてできることを、父としてできることをするだけだ。

  「じゃあおやすみ」

  そう名残惜しそうに部屋を出て行こうとする驗がを俺は引き留める。

  「今日は三人で寝よう」

  こんな時くらい、川の字で寝るのもまた、家族のあり方というものではないだろうか。

  生まれて此の方、両親というものを知らない俺だけど、それでも愛する家族と一緒にいれば不安だって和らぐと思う。驗はまだ幼い子供で、陽子さんも十代に忘れ物をしてきてしまった少女に過ぎない。

  それなら、そんなふたりを守るのは父である俺の役目なはずだ。

  夫婦の間に驗を寝かせて、俺は照明を消す。その途端、沈黙が世界を支配した。

  「なあ、そういえばさ、俺ふたりの誕生日知らないんだけど」

  暗闇に光を灯すように俺は言う。

  「ぼくは四月十三日だよ」

  「おお桜の季節だな」

  「今年の誕生日の時はもう散ってたよ」

  そいつは失礼しました。

  「私は三月の十五日です」

  「あ、じゃあ今度こそ桜の季節ですね」

  「いえ、ぜんぜんまだ咲いてませんでしたね」

  ...........。

  「....なんか、ふたりともごめん」

  俺たちは笑った。確かに世界が明るくなったと、そう感じた。

  「空くんは?」

  屈託のない驗の声。

  「俺は六月二十四日」

  .......誰も何も言わない。

  「まあ何もない日っす」

  黙っていられなかった俺は、自分を慰めるように言う。

  すると、意外にも驗がフォローをくれた。

  「何もなくないよ。空くんの誕生日じゃん」

  「そうだね。空くんの誕生日なら大事な記念日だね」

  ふたりにそう言われて、俺は少しばかり照れてしまう。それは嬉しさからだ。

  「なんかすごいね。なんでもない日が特別になるって」

  驗が言う。

  たしかにすごいことだ。たった三ヶ月前の俺にとってこのふたりはまったくの赤の他人だったのに、それが今ではひとつ屋根の下で生活を共にする家族になり、そしてふたりの誕生日が俺にとっても特別な日になるのだから。

  世の中何があるかわからないものだ。俺はしみじみとそう思う。

  なにもなかった俺に大切なものができた。

  それはまさに、世界が色鮮やかに染まったみたいな感動を教えてくれる。


  それから間もないうちに驗は静かな寝息を立て始めた。今日は寝言は言ってない。

  「ごめんなさい。私、迷惑かけてますよね」

  肘をついて驗の寝顔を眺めていた俺に、奥の陽子さんから声が届く。暗闇の中でも、その表情が不安の色を帯びていることは良くわかる。

  「そんなことないですよ」

  見えていないだろうけど俺は首を左右に振った。

  「好きなだけ迷惑かけてください。全部受け止めますから」

  俺は小さな息子の身体に手を置いて、とんとんと優しく叩く。

  そのとき、不意に俺の手に誰かの手が重なる。

  驗じゃない。もっと大きくて、だけど細くてか弱い。

  暗闇の中、重なるその手は強く俺のものを握った。

  「空くんは、死ぬのが怖いですか?」

  陽子さんは泣いていた。目に見えなくてもわかる。その声が震えているのが。涙が頰を伝っているのが。

  「えっと...」

  質問の意図がわからず戸惑ってしまったけど、俺は彼女の手を握り返して答える。

  「俺は....死ぬのは怖くない。だって、人間は遅かれ早かれみんな死ぬんだから。病気でも事故でも殺人でも、結末はみんな同じです 」

  繋がっていた手がびくっと震えた気がした。俺は握る力を少し強める。

  「でも、だからこそ生きるんです。醜くても情けなくても必死に生きて、最期のその瞬間まで“生”を輝かせる。たぶん、人は死ぬから生きられるんです」

  最後の方は自分でも言ってて意味がわからなかった。

  「それに死んだって、もしかしたら天国も最高かもしれないじゃないですか?税金ないし」

  「天国って税金ないんですか?」

  「いや、知らんけど」

  俺は誤魔化すように笑った。陽子さんも少し笑ってくれたみたいだ。小さく「ふふ」と声が漏れていたから。

  「空くんは強いですね」

  先ほどまでよりも、力のこもった声で言う陽子さん。

  「こんな薄っぺらい言葉に大した意味はないですよ」

  俺は自嘲気味に言う。

  「でも、私は好きです。『人は死ぬから生きる』って言葉」

  よりによってそこかい。一番意味不明な部分だよそれ。

  「陽子さんは怖い?」

  俺は陽子さんに同じことを訊き返す。

  「私は....」と少し言い淀んだ陽子さん。けれど、すぐに自分の思いを語ってくれた。

  「怖いです。すごく怖い。驗と空くん離れなければならないのがすごく」

  「そんなこと言ったら俺だってそうですよ」

  当たり前だ。愛する家族を失うなんて考えたくない。怖すぎる。

  「だけど、今は少しだけ安心感もあります」

  「というと?」

  「だって私はひとりじゃないから。生きているから、家族がいるから」

  暖かさと優しさに満ちた陽子さんの声。そこには翳りは見えなかった。暗闇の中でも、たしかな輝きを放つような、そんな声だった。

  「明日はお出かけしましょうか」

  陽子さんの気まぐれな提案が、俺の心を安堵の色に染めていく。

  「いいんですか?もう」

  「大丈夫。生きているのに部屋の中に閉じこもっていたら死んでるようなものですからね」

  「それもそうですね。じゃあどこ行きます?」

  「うーん」と少し考えた陽子さんは結局「空くんが決めてください」と、俺に丸投げしてきた。

  そんな時々自分勝手な陽子さんが、俺は大好きだった。


  ❇︎❇︎❇︎


  母さんが元気を取り戻してからもう一ヶ月が経った。

  家族みんなで寝た次の日、なぜかころっと元気になった母さんの提案でぼくたちは鎌倉へお出かけに行った。

  鶴岡八幡宮で、三人揃って『凶』のおみくじを引き当てた時は、暗い顔どころかむしろ大笑いしてしまった。

  結局なにが原因だったのかはわからないけど、今母さんが笑ってくれるならそれでいい。

  ぼくはあれ以来、少しずつだけど家の手伝いをし始めた。

  皿洗いやお風呂掃除、洗濯は前のアパートの時はやっていたけど、この家に移り住んで母さんがお仕事を辞めてから、ぼくは生活の全ての家事を母さんに任せきってしまっていた。

  それじゃあダメだ。母さんがお仕事を辞めたのなら、“母さんの時間”を増やすべきなんだ。

  だから、ぼくは自分のできることをやって、母さんの負担を取り除こうと頑張ることにした。

  というわけで今、母さんを家に残して、ぼくはひとりで夕飯の買い出しにスーパーへ来ていた。

  「あら、しーちゃんお買い物?最近ひとりで来て偉いねえ」

  レジの台に商品の入ったカゴを置くと、おばちゃんが声をかけてくれる。

  ぼくは母さんに連れられて昔からこのスーパーへ来ていて、このレジのおばちゃんも昔からの顔なじみなのだ。この人はぼくのことを“しーちゃん”と呼ぶ。

  「あ、ダメよこのジャガイモ。ほら少し芽が出ちゃってる。ちょっと待ってて、いいの選んできてあげるから」

  そう言って、おばちゃんは野菜売り場へと向かって行った。

  どうやらぼくにはまだまだ買い物スキルはないみたい。

  おばちゃんは二分ほどで戻ってきたけど、幸いにもぼくの後ろには誰も並んでいなかったので、誰かに迷惑をかける心配もなかった。

  「野菜はね、ちゃんと見て触って選ばなきゃ」

  「うん。ありがと」

  ぼくは新しくジャガイモを持ってきてくれたおばちゃんにお礼を言う。

  「いいのよ。またなにかあったら、ぜんぶおばちゃんが取っ替えてあげるからね」

  それはありがたいんだけど、ちょっぴり申し訳ないかな。今度から自分でいいものを選べるように頑張るよ。

  「じゃあねしーちゃん」

  「ばいばい」

  手を振るおばちゃんにぼくも手を振り返す。

  お店から出た時、外はもう真っ暗だった。

  さすが、十二月だね。気温も一気に下がって、吐く息が白いモヤになって目に見える。

  ぼくは街灯の下をなるべく早足で帰る。早く帰って食材を届けないと、晩御飯のカレーがいつまでたっても食べられなくなってしまうからね。

  てくてくてくと、小気味のいいリズム奏でながら路地に入る。

  すると、ぼくの家の方、門のあたりから赤い光が揺れ動いている。

  なんだろうと思ってぼくはさらに足を早めた。

  目を凝らして近づいていくと、それはパトカーのランプだった。不気味なほど赤いそれは、なにかを焦らせるようにくるくると回っていた。

  近所でなにかあったのかな。そんなことを思いながら、ぼくは自分の家の門に向かう。

  すると、そこには黄色い線が引かれていて、そばには警察官が何人も立っていた。門の奥からもたくさんの知らない人が出たり入ったりしている。

  頭の中にハテナマークが無限湧きしているぼくは、ただその場に立ち尽くすしかなかった。ここはぼくのお家だよね?

  「し、驗っ!」

  ぼくを呼ぶ強い声。空くんだ。

  声の方向へ顔を向けると、空くんが駆け寄ってきた。

  「驗!驗!」

  わけもわからずぼくは抱きしめられる。

  空くんは泣いていた。ああ、涙と洟水で顔がぐしゃぐしゃだよ。

  「あの、そちらは?」

  黒いスーツを着た男の人が、ぼくに手を向ける。それはぼくのセリフだよ。

  「息子です」

  空くんは腕で涙を拭いて、男の人に答える。

  「ああ、こちらが」

  男の人は、胸ポケットから手帳とペンを出してなにかを書き込む。

  そしてぼくたちのそばにきて、しゃがんで問いかけてくる。

  「お名前、訊いてもいいかな?」

  「日野驗」

  「驗くんね。手に持っているのは.......もしかして買い物に行ってたのかな?」

  「はい」

  「いつ頃お家を出たのかな?」

  「五時ちょうど」

  ぼくが答えたことをいちいちメモするこの人は、いったい誰?

  ぼくのそんな疑問を察知してか、空くんが説明してくれた。

  「この人は刑事さんだよ」

  刑事さん?あのドラマに出てくるやつ?

  「ああ、自己紹介してなかったね。おじさんはこういうものです」

  そう言いながら、内ポケットから何かを取り出して見せてくる。

  それは、正しくドラマでよく見る警察手帳と呼ばれるもので、目の前の男の人が写った写真の下に「藤原秀郷」と書かれている。『藤原』は同じ名字のクラスメイトがいるから読めるけど、その下はわからなかった。

  「それでね、君がお買い物に出かけている間に...」

  「ちょっと!」

  空くんが突然声を上げて割り込む。その目には怒りが滲んでいた。

  「俺から話しますから、もう少し待ってください!」

  さらに語気を強めた空くんの声に圧倒された藤原さんは、ため息混じりに「わかりました」と言ってその場を立ち去った。

  「驗」

  懸命に落ち着いた声で話そうとする空くん。だけど、声が震えているせいで、ぼくの不安は色濃くなるばかりだった。

  「その、お前が買い物に出てた間にな、家に泥棒が入ったんだ」

  ぼくは黙って空くんの次の言葉を待つ。

  「それでな、家にいた陽子さんと鉢合わせした」

  パトカーランプのチカチカが鬱陶しい。だんだんと自分の鼓動が早くなっていくがわかる。

  「.....母さんは?」

  きょろきょろと視線をさまよわせるけど、どこにもその姿はない。

  「病院に行った。救急車で運ばれたんだ」

  その言葉を聞いて、ぽろぽろと涙が溢れてきてしまった。

  そんなぼくを、空くんは優しく抱きしめてくれる。

  「大丈夫、大丈夫だから」

  その空くんの声が、ずっと耳の中でこだましていた。


  そのあと、ぼくたちは病院に向かい、そして日付が変わる頃に警察の人に案内されて、用意してもらったホテルで夜を過ごすことになった。

  そこで改めてなにがあったのかを詳しく教えてもらった。ぼくが頼んだのだ。

  空くんもぼくも泣きながら、お互いに黙りながら、付き添いのお巡りさんから話を聞いた。

  それはこんなものだった。

  『午後五時、ぼくが買い物に出かける』

  『その十分後、家に泥棒が侵入する』

  『母さんと鉢合わせをした犯人は、とっさに所持していたナイフで母さんを刺し、動揺して何も取らずに家を出ようとした

  『その直前に母さんの叫び声を聞いていた近所の男性が警察に通報。自分も外に出て様子を見に来た』

  『そして通用口から出てくる犯人と遭遇し、不審に思った男性が声をかけるも犯人は逃走、男性が慌てて取り押さえる』

  『やがて到着した警察に男は連行され、母さんの方は、刺された後も意識があり自分で救急車を呼び運ばれていった』

  母さんを救急車が発車した直後、アルバイトのなかった空くんが家に帰宅したらしい。そこで事件の発生を知ったという。

 

  「じゃあ自分はこれで」

  制服を着たお巡りさんは深く頭を下げて部屋から出ていった。

  残されたぼくたちは、ふたりして泣きながらその場に座り込むしかなかった。

  なにも考えられなかった。

  なにも考えたくなかった。

  怒りも憎しみもない。


  ぼくの心にはただ悲しみが広がるばかりだった。


  ❇︎❇︎❇︎


  「驗、起きろ」

  俺は襖越しに息子の名前を呼びかける。襖を開けないのは驗の気持ちを理解できるからだ。

  それでも一応は親しての責務を果たさねばならない。

  というわけで、返事のない襖の向こうへもう一度声をかける。

  「いい加減学校行かないと、まずいんじゃないか」

  なにを言ったところで言葉が返ってくることはない。俺はため息混じりに「先出るからな」と言って、驗の部屋から離れる。

  この三週間、驗はずっと部屋に閉じこもったままだ。俺のいない間に必要最低限の食事は行なっている形跡があるが、もう長いことその顔を見てはいない。理由は明白、母の死だ。

  あの日、陽子さんは死んだ。

  病院に運ばれて、医師による賢明な処置も虚しく、彼女は帰らぬ人となった。

  手術室の前でその報せを聞いた瞬間、俺と驗は声を上げて泣いた。

  驗は今でも泣いている。夜中に部屋の前を通りかかると洟をすする音が聴こえるのだ。

  そんな彼の哀しみを耳にすると、俺もどうしようもなく涙が溢れてくる 。今すぐにでも驗を抱きしめてあげたいけれど、泣いている驗の世界に土足で踏み込んでいいものなのかと躊躇ってしまうのだ。

  陽子さんは死んだ。

  俺にとっては妻だった。初めてできた恋人だった。驗にとっては唯一の肉親だった。たったひとりの母親だった。

  俺たちは、あまりにも短いつながりの上に残されてしまった、曖昧な家族だった。

  陽子さんは死んだ。

  それでも朝が来て、腹が空いて、夜が来る。毎日は過ぎていく。俺たちは確かに生きていた。

  だから俺は、日の出と同じ時間に起きて、飯を食って、今日も学校に行く。バイトはしばらく休ませてもらい、大学の講義が終われば真っ直ぐに家に帰るようにしている。残されたもうひとりの家族のために。

  鞄を肩にかけて、俺は遺影に手を合わせる。

  「行ってきます」

  そこに映る彼女は今にも「行ってらっしゃい」と手を振って笑ってくれそうな気がした。だけどそれはありえない。彼女は死んだのだ。

  俺は、息子を残して、今日も生きるのだ。

 

  家に帰宅したのは五時前だった。これでも駅から飛ばしてきたというのに、太陽は完全にその姿を隠していた。今日はもう、空は照らされない。

  「ただいま」

  玄関を開けて俺は言う。当然誰からもなにも帰ってこない。わかっていた。

  陰鬱な気分で上がり框に腰を下ろす。まるで泥の中に沈んでいくように身体が重かった。

  三和土に並べられた彼女の靴は、寂しげに主人を待つ犬のように佇んでいた。

  俺はため息混じりに玄関を後にする。

  そして驗の部屋を通り過ぎる時、俺の胸は強く波打った。襖が開かれていたのだ。

  まさか、そう思って部屋の中を覗くが、真っ暗なそこには誰もいない。

  俺は居間に駆ける。電気が点いている。

  「驗っ!」

  居間に飛び込んだ俺が目にしたものは、そこから続く台所に立つ驗の姿だった。病的なまでに青白く照らされる顔。泣き腫らした目には酷い隈ができている。俺の方を振り向いても、その虚ろな瞳は俺を映してはいなかった。

  そして、その細く小さな手には包丁が握られている。

  「なにしてんだっ!」

  鼓動が早くなっていく。呼吸が荒くなる。その狂気を捉えた瞬間、俺は堪らず叫んだ。

  けれど、そんな俺に怯むこともなく、驗はそこに立ち続けた。

  「母さんは痛かったかな」

  俺の手が震える。寒気がする。それなのに、身体中から汗が滲んでいるのがわかる。

  「ぼく、母さんに会いたいよ」

  「なに言ってんだよ!」

  「母さんに会いたいんだ!」

  俺の声の方があるかに大きくて勢いもあるのに、驗の言葉はそれ以上に重たくて鋭かった。

  「空くんは会いたくないの?」

  「........」

  なにも言えずにいた俺の胸に遠慮なく突き刺さる言葉が痛かった。

  やがて驗は、手に持ったそれを自分の喉元に向けた。照明の光を妖しく映す包丁は紛れもなく陽子さんの命を奪ったそれだ。

  その瞬間、俺はもう迷うことはなかった。

  哀しみに満ちた少年に向かって俺は足を進めた。ゆっくりと確かな足取りで彼の前に立つ。そして、刃物を手にしたその腕を強く握りしめ、力尽くで捩じ伏せた。俺の握力のせいで怯んだ驗の手からそいつは落ちる。

  驗の腕を掴んだまま俺は、台所の端に、足で包丁を滑らせた。

  頑なに抵抗する驗。しかし、たかが十一歳ごときの力でどうにかできるほど俺は優しく握っていない。

  真っ直ぐにその幼く苦痛にもがく顔を見下ろす。

  驗の手が青紫っぽくなってきたあたりで俺は少しだけ握る力を緩め、そのまま次の瞬間、俺は片方の手で思いっきり目の前の男の頰をぶった。父として息子に。大人として子供に。男として男に。俺は拳を振るった。

  勢いよく弾け飛んだ彼は、音を立てて床に倒れこむ。俺はその胸ぐらを掴んで身体を起こさせる。頰が赤く腫れている。思ったより強くやり過ぎたみたいだが、後悔はない。もっと強くやってもよかった。

  虚ろだった目に、微かに光が灯った気がした。ようやく俺が映ったみたいだ。

  「痛いよな」

  目に涙を浮かべる息子を俺は抱きしめた。

  「苦しいよな。辛いよな。悲しいんだよな」

  俺の目からも雫がこぼれていく。

  「ぜんぶ、ぜんぶわかるから、お前の気持ちは俺が一番わかってるから!

  でも...でも、お前は生きているんだよ!生きてここにいるんだよ!ひとりじゃないんだよ...」

  小刻みに洟をすする驗は、優しく俺の背中に手を回してきた。暖かくて柔らかい、こいつの母に似た手だった。

  嗚咽を漏らしながらも俺は再びその手を取って、今度は俺の頰に当てた。小さくてか弱い、俺の息子の手だった。

  俺も驗の頰に自分の手を当てる。小さな顔の半分を覆うほど、俺の手は大きかった。

  「なあ、驗」

  俺は息子の名前を呼ぶ。

  「俺たちは、残されても、生きていくんだ。だから、死ぬまで一緒に生きよう......?」

  涙と洟水で顔をぐしゃぐしゃに濡らした驗は、ゆっくりと頷いた。

  そっと微笑んで、俺は十一歳しか歳の違わない息子をまた抱きしめた。


  ❇︎❇︎❇︎


  ふたりで風呂に入った。ふたりで飯を食った。ふたりで寝た。今朝からは驗も学校にも登校させた。

  そうやって少しずつ世界は色を取り戻していった。

  もちろん全て元どおりになった訳ではない。未だに顔は暗いし、「行ってきます」の一言もない。

  でもそれは仕方のないことだ。なにもなかったかのように、いきなり“前みたいに”なんてあるはずがないのだ。

  あのやり方が正しかったとは思わない。どんなに綺麗事を述べたって、俺がやったことは暴力なのだから。

  後悔はないが、内心ではやはり驗に謝り続けている。

  驗は歩き出した。あとは俺の方だ。

  実を言うと、俺自身はまだ完全には立ち直れてはいなかった。

  後に残った陽子さんの物に触れられなかったのだ。遺品としてそれを整理しようとすると、どうしてもフラッシュバックのように彼女と過ごした短い日々が蘇ってくる。

  その瞬間、涙が溢れて感情が高ぶってしまい、どうすることもできなくなってしまうのだ。穿たれた胸を押さえつけて、俺はただ部屋を後にするしかなかった。


  居間の定位置に座った俺は、深くため息を吐いて、俯いて目を閉じる。わかっているのにどうしようもできないというのは、この上ない苦痛だ。

  残酷に過ぎていく毎日の中で、彼女のいた日々が、彼女を失った傷が、風化することもなく色濃く鮮明に残ったまま、俺はただ生きていくしかないのかもしれない。

  「空くん」

  唐突に俺を呼ぶ声がして、思わずはっとなって顔を上げた。居間の入り口に驗が立っていた。

  一瞬で最高速まで達した鼓動が、違うと気づいた今も、余韻を残して跳ねていた。

  「お、おお。おかえり」

  動揺を気取らないよう、俺は努めて平然と応える。

  細く鋭い驗の眼光。なんだよ。

  「母さんのバッグ」

  「....へ?」

  突然発せられた意外な言葉に俺は思うように反応できなかった。

  「母さんのバッグどこ」

  「部屋に、あるよ」

  陽子さんの荷物は、一切手を付けられていない。当然バッグも陽子さんが最後に置いたそこにある。

  「行こ」

  近づいてきた驗は、ランドセルを背負ったまま、俺を陽子さんとの部屋へ引っ張って行った。

  状況が飲み込めない。急に一体なんだ?

  部屋の勢い良く襖を開けた驗は、俺を連れて中に入る。

  電気も付けずに部屋中を見回す驗。

  「あった」

  陽子さんがまとめて荷物を置いていたところから、驗はそのハンドバッグを見つける。

  「なんだよいきなり」

  戸惑いの色を隠せない俺は少しだけ苛立ちの声を上げる。けれど驗はそんなことは御構い無しに、バッグの中を漁った。

  「おいっ」

  俺はその後ろ肩に手を伸ばす、が、この手が届く前に驗はくるりと身を翻して俺に向き直った。胸の前に持ち上げられた手にはふたつの白い紙を持っている。

  「これ」

  差し出されたそれは『空くんへ』と書かれていた白い封筒だった。

  「なんだよ、これ」

  ますます意味がわからない。何が起きているんだ?

  俺は受け取ったその封筒の意味がわからずに、驗に疑問をぶつけてしまう。

  「母さんからだよ」

  そう言って、驗は部屋に俺をひとりにして出て行ってしまった。

  ただ立ち尽くすしかなかった俺は、手に残されたそれを見つめる。

  流麗な筆遣いで書かれた俺の名前。間違いなくあの人の字だ。

  俺はその場に座り込む。障子の外からは橙色の夕陽が滲んでいた。まるで時が止まったかのような無音が、黄昏に染まる俺の世界に響いていた。

  俺は、震える手で、そっと封を破った。

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