短すぎる一日
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俺が陽子さんにプロポーズしてから、三日が経った。林間学校から帰ってきた驗は、土日を挟んで今日からいつもどおり学校に登校して行った。
「お弁当ここに置いておきますね」
居間でテレビを見ていた俺に、台所から陽子さんの声がかかる。
俺はテレビから顔を逸らして、「ありがとうございます」と返事をする。
そしてタイミングよくCMに入ったテレビから離れて、それを取りに行く。
白に近い水色の風呂敷で包まれたお弁当。あの日からほとんど毎日、陽子さんの手料理を食べている。そして今日からはそれを一日三食楽しめるのだ。
つい昨日、俺の荷物はほとんど運び終え、これからはこちらが完全に俺の“家”としての生活の場となった。まあひとり暮らしだった俺の荷物なんて、陽子さんには車を出してもらえばあっさりと終わってしまった。しかし、広すぎるこの屋敷には、しばらくは慣れないだろうな。
「今日のおかずはなんですか?」
「今日はウインナーと玉子焼きとほうれん草とベーコンの炒め物、あとは緑とりんごです」
「やった!陽子さんのウインナーは焼き加減が最高なんです」
俺は弾むように喜びの声を漏らしてしまう。それくらい陽子さんのウインナーは美味いのだ。まあそれだけじゃなくて全部美味いけど。ちなみに、陽子さんは野菜のことを総称して『緑』と呼ぶ。ただし、ほうれん草とかぼちゃ(今日は残念ながらいない)のふたつは、俺の好物だからと、特別待遇で名前を呼称してもらえるのだ。よかったなお前たち、俺のおかげで陽気さんに気にしてもらえて!
「今日は何時頃に帰ってこれますか?」
皿を洗いながら、陽子さんは背中で声をかけてくる。
「今日は、学校の後にそのままバイトに行くんで....たぶん遅くても七時半までには」
俺は頭の中で今日の大まかな予定を思い浮かべながら答える。
「わかりました。じゃあそれに合わせて夕飯を用意しますね」
「すみません。わざわざ手間かけさせちゃって」
頭に手を当てながら、俺は後ろ姿の陽子さんにぺこぺこと頭を下げた。
すると、陽子さんは洗い物を中止して俺に振り返る。そばに置かれていたハンドタオルで手を拭きながらキリッと俺の目を見つめてきた。
「空くん、そこは『すみません』じゃなくて、『ありがとう』って言ってもらえた方が気持ちがいいです」
腰に手を当てて少し頰を膨らませる陽子さんはこの世で一番キュートな女性だった。きっと怒っているつもりなんだろうけど、ついついその可愛らしい仕草に見とれてしまう。
「あ、いや、すみません!あ...!」
「ほらまた!」
俺たちは笑い合った。秋の朝に美しい花が咲いた。
「じゃあ行ってきます」
玄関先まで見送りに来てくれた陽子さんに、俺は手を挙げる。陽子さんは微笑みを返してくれる。
今日、学校を終えバイトから帰ってくれば、俺と陽子さんは名実ともの夫婦になっている。
それは、俺が出かけている間に陽子さんが『日野陽子』と『梅宮空』が書かれた婚姻届を提出してきてくれるからだ。そして
俺は晴れて『日野空』になる。本当に晴れやかな名前だ。
もちろん銀行口座の氏名やらマイナンバーカードに記載されている情報の変更手続きやらなんやら、すべきことはたくさんのあるけれど、俺が陽子さんの籍に入る以上は致し方ないことだ。
今朝、婚姻届を提出することを驗に伝えたら、「ふたりで出しに行かないの?」と訊かれてしまった。たしかに、できることならふたりで出しに行きたかったのだけど、いかんせん当分俺には休みという休みがなかったのだ。中間試験や課外講座、バイトなんかでほぼ毎日学校へ行かなければならない。幸いにも今週の土曜日は一日空いていたけど、せっかくなので親子三人での初めてのお出かけに、と動物園へ行く約束をした。
帰ってきてから夜に一緒に行くこともできたけど、できれば俺と驗と陽子さんの三人で家で過ごし時間も大事だと考えて、それはやめた。今までひとりで夜を過ごしていた驗のためにもこれからは笑いのある夜を作るべきだとも思うし。
俺がなかなか時間を作れずに申し訳なく思っていたところ、「私ひとりで出しに行きますよ。買い物ついでに」なんて陽子さんに言われてしまい、渋々ながら頼むことにした。
午後一時、大学の食堂で陽子さんの愛妻弁当を堪能した俺は足早にバイト先へ向かう。
「あれ梅宮?お前が手作り弁当なんて珍しいな」
同じゼミで仲のいい源が箸を向けてきたが、「幸せの証拠だ」と、それだけ言って俺は学校を出た。
電車に乗ってバイト先のある二駅目まで俺は入り口付近で立つ。
徐々に蒼い葉が消えていく街並みは、季節の移り変わりを教えてくれていた。
もう秋だ。それなのに俺の心は夏の日差しに透ける炭酸のように、弾けて浮かれきっていた。
理由は明白。俺に家族ができたからだ。家に帰れば家族が待っている。陽子さんと驗。まだ出会って間もない俺たちだけど、俺にとってはもういなくてはならない存在だった。世界で一番大事な“ふたり”。
陽子さんとは出会って一ヶ月と少し、驗とはまだ二週間も経っていない。それでも俺たちは家族だ。少なくとも俺はそう思っている。
時間が全てじゃない。きっかけなんて些細でちっぽけなものでいい。たとえ短いつながりでも、これからの未来を紡いでいけるのだから。
窓の外を眺めながら、完全に不審者のごとくにやけていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。
『いま提出しました。おめでとうございますと言われましたよ!』
陽子さんからだった。
ああ、俺たちは本当に夫婦になったんだ。
なぜだろう、なぜこんなに嬉しいんだろう。ついこの間までは、いきなりプロポーズするような陽子さんを訝しんだ目で見ていたというのに、今では何の疑いもなく彼女を好きだと言える。
もしかして俺はちょろい男なのだろうか?
いやいやいや、なわけ。陽子さんのことは正直まだ知らないこともある。というか知らないことの方が多い。
だけど、それならこれから共に過ごすうちにたくさん知っていければいい。たとえ障害があっても乗り越えていける。それが夫婦というものだろう。支え合うのが家族というものだろう。
俺は返信メールを送る。
『おめでとうございます!改めて、これから末長くよろしくお願いします』
ポケットにスマホをしまって、開いたドアを弾みよく飛び出した。
❇︎❇︎❇︎
わあ!ゾウが絵を描いているよ!なんの絵なのかはさっぱりわからないけど、とにかく筆を操っているよ!すごいね!
ぼくは最前列で柵に手をかけてまじまじとその光景に見入ってしまった。
土曜日。母さんとぼくと空くんは、動物園に来ていた。入園早々に『ゾウが絵を描く』というアナウンスがあって、気がつけばゾウのいるところまでダッシュしていた。
休日だということもあって、人の波は凄まじいけど、ぼくは小さな身体をスルスルと滑らせて、いとも簡単に最前列をゲットした。
やがてまばらに拍手が起きると、ぼくもそれに合わせて賞賛を贈る。ゾウくん、ぼくにはきみの絵を理解することはできないけれど、きみが絵を描くこと自体が素晴らしいことだと思うよ。
ぞろぞろと人の波が散っていくと、ぼくは後ろの方で並んで立っていた母さんと空くんの元へ戻る。空くんはカメラを片手に持ち、ぼくにレンズを向けていた。
「どうだった?」
母さんが訊いてくる。
「あのね、ゾウが絵を描いていたよ!なんの絵かはわからなかった!」
まだ興奮の余韻が頭の中に残るぼくが母さんにそう言うと、カシャっと空くんがシャッターを切った。
「いい笑顔だ。撮らずにはいられない!」
そんなことを呟きながら、カシャカシャと連続でシャッター音を響かせる空くん。少し鬱陶しいな。
「驗、今うぜーって思ったろ?顔に出てたぞ」
「別に」
「その顔もいただきっ!」
.......うぜー。
「ところで、次はなにを観に行く?」
ぼくたちのやり取りをそばで見ていた母さんが笑いながら言う。
「驗の好きなところに行こう」
次はと言っても、入園してまだゾウしか観ていない。なにせ、入園ゲートを抜けた瞬間にアナウンスがあったから。
ぼくは手元のパンフレットで、園内の動物の位置を確認する。ここから一番近いのはサル山だった。ぼくはその位置を指差してふたりに見せる。
「よし、じゃあ次はサルな」
カメラを首に下げた空くんは、ぼくと母さんの手を取って歩き出した。なんだかんだ言って、空くんが一番楽しんでいるように思えた。
「休憩しようか」
入園して早一時間。ガラス越しのトラの迫力に胸を騒がせた後、道順に歩いていたら見えてきた園内カフェを前にして空くんが言った。額には汗を滲ませているけど、ぼくがそれに気がつくのと同時に母さんがタオルでそれを拭う。今は手を繋いでいないんだから自分で拭けばいいのに。
「そうですね、ちょっとお腹も空きましたし。今のうちに食べておきましょうか」
というわけで、ちょっと早めのランチになった。
店内は外よりもさらに混み合っていて、座れるのかどうか怪しかったけど、奇跡的にぼくたちと入れ替わりでお客さんが出たのでなんとか座ることができた。
窓側の席に通されたぼくたちは、母さんをひとりにして、その向かいに空くんとぼくが座るという構図になった。ぼくが隣に来たことに空くんが少し驚いていたが、すぐに嬉しそうな顔をしてぼくの肩を抱き寄せた。別に、ただなんとなく座っただけなんだけど。
「よし!今日は好きなものをなんでも食べてな!空くんが奮発しちゃいますっ!」
上機嫌な空くんは胸を反らせて鼻高にそう宣言する。「もお、調子に乗りすぎですよ」と母さんは口を尖らせていたけど、どこか楽しそうに見えた。
ならば、と開いたメニューを遠慮なく指差すぼく。カレーにハンバーグにエビフライ。デザートはプリンとシュークリームにしよう。
ぼくの注文に思わず息を飲む空くん。なんでもいいんでしょ?
「じゃあ私も驗と同じやつで」
ぼくが自分の食べたいものを選び終えると、続けて母さんが言う。
「えっと....どれですかね?」
「驗が頼んだものですよ」
「だから驗が頼んだやつが多すぎてどれのことを言ってるのか....」
「カレーとハンバーグとエビフライ、デザートにプリンとシュークリーム、です」
空くんの顔面がみるみる青くなっていく。そしてすぐにボディバッグから財布を出して中身を確認する。
ぼくは、ぼくが頼もうとしているメニューの金額の合計を暗算してみる。えーっと....四千百円だ。税抜きでね。
それを母さんも頼むと掛ける二で八千二百円。うわあ、豪華なランチだね。
「あの...すんません。やっぱ遠慮してください.....。俺、貧乏学生なんで....」
情けない声でぼくたちを交互に見る空くん。
仕方ないなあ。そんなガラスケースの中に閉じ込められたスローロリスみたいに泣きそうな顔されたら、ぼくだって遠慮しちゃうよ。
「じゃあエビフライでいいよ」
ぼくはため息混じりに言う。そしてそのすぐ後に「あとプリンも」と付け足す。デザートは譲らない。
「じゃあ私も驗と同じで」
母さん、自分で選ぶ気ないのかな。さっきからずっとぼくと同じやつじゃん。
今度は安堵の表情を浮かべる空くん。どうやら財布の命が守られたらしい。呼び出しボタンを押して、ものの五秒もせずに現れたウェイトレスさんにぼくたちの注文を伝える。
「なにも食べないの?」
ウェイトレスさんが注文を確認して立ち去った後にぼくは空くんに尋ねた。空くんは自分の分をアイスティーしか頼まなかったからだ。
「しばらくは陽子さんの手作り料理しか食べたくないのさ」
きらっ、と語尾に星マークが付きそうな言い方の空くん。かっこよくないよ。
「まあ、空くんったら。それだったら今日もお弁当作って来たのに」
「いやいや、今日は陽子さんにも羽目を外していただこと思ってですね...」
「こちらセットドリンクです」
いいタイミングで飲み物を持ってきてくれたウェイトレスさん。ありがと、このままふたりののろけなんて見たくないからね。
ぼくは運ばれてきたオレンジジュースのストローに口を付ける。ちゅー....ちょっとすっぱいよ。
窓から見える景色は人人人。見渡す限り人がいる。子供も大人も。ハンチング帽を被ったおじいさんも。何故かおばあさんは見ない。
今日は土曜日だから、みんな家族で遊びに来ているんだ。中には手を繋ぎ歩く恋人たちも少なくない。
ぼくは向かいに座る母さんと、隣に座るを見る。
ふたりは夫婦だ。窓の外を通り過ぎるあのカップルに混じってもおかしくない年齢だ。
母さんも空くんも、お互いに好き同士だってことは、はたから見てもよくわかる。家にいると、くすぐり合ったりいちゃいちゃちして見るに耐えない。
だけど、今はふたりの間にぼくがいる。ふたりが手を繋ぎたくても、なんだかぼくが邪魔をしているみたいだ。
ちょっと悪いかな。本当はふたりきりにしてあげたほうがいいかな。
「驗、驗!」
「にゃっ?」
「ここ出たら次はなに観るって、さっきからその話してたんだけど」
ぼくと同じようにアイスティーを一口飲んだ空くんが訊いてくる。ぼーっとそんなことを考えていたぼくは、急な呼びかけに思わずびくんと反応してしまった。
「まだ爬虫類館に行ってない」
「うわ、お前そういうの好きなの?」
なぜか引かれた。
「別に」
別に好きだから行くわけじゃないよ。せっかく園内にあるんだから、見れるものは見ておくべきだと思うから。
「陽子さんはヘビとかどうですか?」
「私はちょっと苦手ですね」
「実は俺もなんですよー。あのとぐろを巻いたところとか....」
「ああ!わかります!あと、あのにょろにょろした感じも特に....」
ふたりがヘビの悪口で盛り上がっていたその時、またしてもタイミングよくウェイトレスさんが料理を運んで来た。ありがと、次に観に行こうとしてる動物を悪く言われて、ぼくもなんだか嫌な気分になりかけていたからね。
そのまま、ぼくたちは他愛もない話をしながら美味しい食事を楽しんだ。途中、空くんが、エビフライに齧り付くぼくのことををまじまじと見つめてくるので、心の優しいぼくは一口食べさせてあげることにした。「うめえー!」と目を瞑る空くんは、すごく嬉しそうで、なんだかぼくも気分がよかった。
暑い。じめっとしてる。それはここが爬虫類館だからだね。
ランチを食べたぼくは、一休みもそこそこに爬虫類館に向かった。母さんと空くんは、入り口を抜けてすぐにいた『パンサーカメレオン』の水槽に入っていた餌のコオロギに悲鳴をあげて「俺ら外で待ってるから!」と言って、肩を縮こませながら入り口をUターンしていった。コオロギならスローロリスのコーナーにもたくさんいたじゃん。
それにしても、ここはすごい。爬虫類だけじゃなく、アロワナとかカエルとか、熱帯に生息する動物が勢揃いだよ。しかも、どれもぬるぬるしてそうな外見だ。オオサンショウウオなんてとくに。
ところで、このオオサンショウウオって食べられるのかな。昔の人はカエルとかヘビを食べていたって聞いたことがあるけど、こいつはどうなんだろう。
そんな疑問を抱いていたら、水槽に『オオサンショウウオの豆知識』と書かれた紙を見つけた。
なるほど。それによると、以前は食用にされたこともあるらしい。どんな味なんだろうねこいつ。
ぼくは新たな疑問を浮かべながら、オオサンショウウオの水槽から離れて、今度はカエルのコーナーへやってきた。
のっぺりしたやつとか背中に穴が空いているやつとか、カエルと言ってもいろんな種類がいるんだね。
このカラフルな模様のやつとか、ジャングルで目立つでしょ、なんて頭の中でぼくはつっこむ。
すると『アイゾメヤドクガエル』を見つめるぼくの肩を、だれかがとんとんと叩いた。
誰だろうと思って振り向けばびっくり、なんと和泉ちゃんがいた。
「あ、やっぱり日野くんだ」
驚きと安堵が入り混じったような不思議な表情の和泉ちゃん。
「あのね、さっきレストランで見かけたの。だけど、その時は遠目だったから日野くんだって確信が持てなくて」
そっか。和泉ちゃんも来てたんだ。まあ今日は土曜日だし、別におかしなことじゃないよね。
「一緒にいた人って....この前のお父さんだよね?」
「うん」
この前というのは、林間学校初日の朝のことだろう。和泉ちゃんと歩くぼくに空くんは財布を届けに来てくれた。
「じゃああれはお母さん?すっごい若いんだね」
「二十七歳だよ」
「ええ!?」
手で口下を抑える和泉ちゃん。相当驚いたみたい。
「うちのお母さんなんて、四十七歳だよ?二十一歳も違うってすごいね」
「そうだね」
ぼくは和泉ちゃんの周りを見渡してみるけど、どうやらここには和泉ちゃんのお母さんはいないみたい。
すると、ぼくがなにも言わずとも和泉ちゃんが説明してくれた。
「ああ、お母さんたちは外で待ってるの。ヘビとかカエルとか気持ち悪いって。日野くんのとこは?」
「うちの親もそんな理由だよ。入ってすぐ引き返しちゃった」
「そっか。じゃあさ、一緒に見ない?」
「いいよ」
というわけで、ぼくと和泉ちゃんは、爬虫類館を一緒に見て回ることになった。
「和泉ちゃんは平気なの?」
ガラスケースに手をつけて『インドニシキヘビ』を見つめる和泉ちゃんに問いかける。
「ぜんぜん平気。この顔、かわいくない?」
「うん。かわいい」
つぶらな黒目がとくにキュートだ。
「というか、生き物全般が好き。虫も平気だよ」
虫も平気......。ぼくは黒くてすばしっこいアイツを想像する。その瞬間、全身の毛穴がぞわぞわと粟立つのを感じた。
ぼくも大抵の虫は平気だけど、アイツだけはムリだ。気持ち悪いっ。なんでだかわからないけど、たぶん遺伝子にそう刻まれているのかもしれない。アイツには近づくなって。
「あ、ゴキブリは嫌いだけどね」
ぼくの考えていることを察したように、和泉ちゃんは笑って言った。なんだ、そこは同じなんだね。
でも、意外と和泉ちゃんって強いんだね。女の子って、みんな虫が嫌いなイメージだったから。
こうやって学校以外の場所で会うと、その人の知らなかった一面っていうのを強く意識させられる。ヘビに夢中な和泉ちゃんを見てぼくはそう思った。
その後もぼくと和泉ちゃんは爬虫類館を大いに堪能した。
❇︎❇︎❇︎
「なあ驗、今日楽しかったか?」
帰路、俺は電車の中で眠たげに揺れていた我が子に尋ねる。
「うん」
静かな声でそう答える驗は次の瞬間、大きくあくびをした。あ、かわいい。
血の繋がらない息子の様子を眺めていると、俺まで眠くなってきてしまいそうだった。いかんいかん。俺は小さく首を振って眠気を吹き飛ばす。
それにしても、短い一日だった。
朝から動物園に行って、気がつけばもう夕方。普段はおとなしい驗も、こういうところに来ると、ちゃんと子供らしく笑ってはしゃいで楽しそうに目を輝かせて.......。
俺も陽子さんも、その姿を見ているだけでテンションが上がってしまった。子供の魅力だなあ、としみじみ思う。
けど、爬虫類館から驗が出てきた時はびっくりした。だって、隣に女の子連れてるんだもん。まさかナンパでもしたのか?なんてお父さん思わずなにも言えなかったね。
しかしなんてことはない。よく見ればその女の子、いつかどこかで見たことのある顔だったのだ。そう、林間学校に出た朝にも、驗と一緒に歩いていた子。
『和泉ちゃんだよ』
俺と陽子さんにその子の紹介をした驗。和泉ちゃんがぺこりと頭を下げるものだから、俺たち夫婦までそうしてしまう。
『あ、どうも、驗の父です』『同じく母です』
......なんだこれ。俺たちは息子に彼女を紹介されているのか?いやいやいや、早すぎだろ。まだ小五だぜ?
俺脳内でちょっとしたパニックが発生してしまう。そして、それを加速させるような声が別方向から飛んでくる。
『和泉?』
声の主は中年の女性。幼稚園児ほどの男の子と手を繋いでいた。
『あ、お母さん』
お母さん?ああ、なるほどね、和泉ちゃんのお母さんね。
.......?
あれ、これって両家のご挨拶的な?
おいおいおいおい!爬虫類館でなにがあったんだよ!俺と陽子さんが外で待っている間に、いつのまにか驗は大人になってしまったのか!?
『こっちはクラスメイトの日野くん。さっき言ったレストランで見た子、やっぱりそうだった』
『ああ、さっき似てる言うとった!じゃあもしかしてご兄弟?』
疑問の矛先が俺と陽子さんに向けられる。俺は思わずドキッとしてしまう。だってこの人、ヒョウ柄の服着てるんだもん。それに、なんとなくイントネーションが西側の人っぽいし。
初めて会う人種にちょっとだけビビってしまう俺。情けない。
『あ、はじめまして...えっと、驗の、父です』
俺はなぜか申し訳なくそう言う。初めて会う“息子の友達の親”というものに緊張していた。
『え!嘘!お父さん!?ほんまに?じゃあこっちのはお母さんなん!?』
『母です』
『若いなあー!』
いちいち声が大きいよ。ぐいぐいくるよ。怖いよこの人。
『どうも、大江和泉の母の京子です。こっちが和泉の弟の和彦、来年で小一。あ、そや!こんなとこでお会いしたのも奇遇やし、ちょっと話していかん?ほら、ちょうどそこに座れるとこがあるし』
そして俺たちは、そばにあった園内カフェのテラスにほとんど無理やりと言っていい具合に連れていかれてお話をすることになった。
驗と和泉ちゃんと和彦くんは、そこから見えるふれあい広場でカピバラを触っていた。
『いやあ、実はな、あたし和泉の友達見んのはじめてなんよ』
テーブルに頰杖をつく和泉ちゃんのお母さん———京子さんは子供達を眺めながら言う。
『それがおっかなびっくり、まさか彼氏がいたとはね』
『いや、まだ彼氏ってわけじゃ....』
俺は堪らず口を出してしまう。カピバラの鼻の下を執拗に撫でているあの少年にまだそんな感情ないだろう。......うん、ないはず。
『まあなんでもええけど、結構お似合いなんちゃう?』
『いやあ、あははは』
笑うしかなかった。返し方がまったくわからない。これがママ友ってやつなのか?付き合い方マニュアルが欲しいんだけど....。なぜかいつのまにか陽子さんまでカピバラの鼻の下を触りにいってるし。
誰にも助けを出してもらえず、俺は目の前のヒョウに苦笑いするしかなかった。てか、あの親子はなんだ?カピバラに吸い寄せられる体質なのか?
『そういやさ、あんたいくつなん?』
『二十一歳です』
『二十一歳っ!?じゃあ奥さんは?』
『えっと、二十七です』
『すっごいねえそれ。あんたあの子らと同じ頃には子供作ったってことでしょ?しかも高校生のあの人に』
しかめ顔の京子さん。何かを訝しんでるようだけど、ちょっと勘違いしてるなあ。
『あ、いや、俺たち、この前結婚したんですよ。驗と俺は血繋がってないんです』
『ああ、そうなん?でもまあ、よく子持ちの二十七と結婚しようと思ったなあ』
京子さんはストローを加えたまま言う。
俺は愛しい家族たちの微笑ましい光景を眺めながらそれに答える。
『まあ最初は俺もビビりましたけど、今はふたりとも大好きなんで、それだけですよ』
『うっわかっこええな!うちの旦那にもそう言ってもらいたいわ』
俺たちはふたりして笑った。向こうにいる子供たちも笑っている。そして陽子さんも。
その後も適当な話をして、俺たちは何度も笑いあった。ぐいぐいと迫ってくるけど、意外と親しみやすい人で、そのうち緊張も忘れてしまっていた。
しばらく話した後、大江親子は次に行くところがあるらしく、俺たち日野家とはそこで別れた。
散々カピバラを触ったのにまだそこから離れられないうちの親子を引っ張って、俺たちも動物園を後にした。
電車を降りる頃、驗は完全に寝てしまっていた。「かぴー.....」だなんて可愛い寝言を言ってるこいつを起こすなんて、そんな残酷なこと俺にはできない。仕方がないので俺は十一歳になる息子を背負って帰ることにした。
「どっこいせ」
背中に乗せて立ち上がった瞬間、思わずそんなん声が漏れてしまう。ちょっとおじさんくさかったかな、なんて思ったら案の定、陽子さんに「おじさんみたい」と言われてしまう始末。
「俺がおじさんなら陽子さんはなんなんですか」
「うわあ、そういうこと言っちゃいます?前は精一杯手を振って誤魔化していたのに」
「それくらいのことを言い合えるほど、親密になったってことです」
俺は、背中に確かな熱を感じながら、一歩一歩をなるべく柔らかく歩く。驗が起きないようにだ。
駅を出ると、空はもう暗くなっていて、日の短さを強く実感じさせた。秋がやってきたんだなあとしみじみ思う。
「ねえ陽子さん」
俺は星の光る空を見上げながら愛しい人の名前を呼ぶ。
「あっという間でしたね」
「そうですね」
柔らくて優しくて温かい声。陽子さんの声。俺の奥さんの声。
「次はどこに行きましょうか」
こつんこつんと陽子さんの硬い靴音が人気のない道に響き渡る。
「次は紅葉が綺麗なところ」
「じゃあその次は?」
「その次は雪景色が綺麗なとこ、そしてその次は桜を見ましょう」
「なんかそれ、ワンシーズンに一回しかお出かけしないみたいですね」
「あ、そうですね。じゃあ空くんの行きたいところと驗の行きたいところも」
陽子さんは人差し指を立てて言う。
そして不意にどこからともなく風が吹いた。まだ夏の香りを残すその風は、暖かくて冷たかった。
「あと、陽子さんの行きたいところもね」
俺たちは家族だ。陽子さんと驗と俺。三人だけど、まだ短いつながりだけど、それでも共に生きる家族。確かにつながっている家族。
繋がっている限り、どこへだって一緒に行こう。
「カピバラ....美味しい....」
......へ?
今何か聞いてはいけないことを聞いてしまったような.....。
まあいいか。
夏の余韻に浸りながら、俺たちの家を目指して歩いた。




