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長いプロローグ  作者: やきりいせ
3/8

長すぎる路

- 3 長すぎる(みち)-

走り出した赤い観光バスは、ぼくたちを遠く離れた地へ連れて行く。数時間の長移動も、お祭りのように盛り上がっていた。

普段からテンションの高い旅人くんは、今日はいつもの三倍はうるさかった。はしゃぎすぎだよ。

ぼくは窓の外を眺め、景色の移り変わりを楽しみたかったけど、隣に座った旅人くんの肘が当たって不愉快きわまりなかった。

「あ、そういえば日野、これ食うか?」

おやつの時間、ぼりぼりとスナック菓子を頬張る旅人くんは、突然思い出したかのようにぼくに訊いてくる。

お菓子の詰まったビニール袋からなにかを取り出し手渡される。なんだろ。

「食ってみろよ」

旅人くんは自分も同じものを封を開けて口に放り込んだ。飴玉みたいだけど、ぼくは別に飴玉なんか好きじゃないよ。嫌いでもないけど。

旅人くんに倣ってぼくもそれを口に含む。

....コーラ味だ。別にこんなのはよくあるし、わざわざもらうほどのものでも...んん?

おお...!口の中で転がし続けていたら、しゅわしゅわぱちぱちとなにかがはじけているよ。

これはびっくり、普通の飴じゃなかったんだね。

「うまいだろ」

「うん」

ぼくはあまり炭酸飲料が好きじゃないけど、この飴は悪い気はしなかった。炭酸飲料は喉を通るときに痛いんだ。それに対してこの飴は、口の中だけでしゅわしゅわが収まってくれるから、あの炭酸独特の不快感がない。

だから、ゆっくり味わって舐めたかったんだけど、何を言いだすか旅人くん、次の瞬間、ガリガリと噛み砕き始め、「お前も噛んでみな」なんて言ってくる。

「やだよ」

「いいからいいから!なんだったらまたやるからさ」

ぼくは目を細めて横目で旅人くんを見る。

仕方がないので言われたとおり噛み砕いてみた。ああ、もったいない。飴は口の中でゆっくりと時間をかけて味わうからいいのに...んん?

おお...!遠慮がちに何度か噛み砕いてみると、飴玉の中からガムが出てきたよ。しゅわしゅわするだけの飴じゃなかったんだね。

「すげーだろ」

「うん」

ぼくは驚きと感動が入り混じった、返事をする。

「ところでお前、自分のお菓子は?」

ぼくは窓の外に目を移す。

「.....忘れた」

旅人くんは口をぽかんと開けた後、盛大に、お腹を抱えて笑った。

走り出したバスは止まらない。目的地までぼくたちを運ぶだけだ。


❇︎❇︎❇︎


あれ?浴衣の帯って.....どう結ぶの...?

二十年間生きてきて、残念ながら俺は浴衣なんて着たことがない。これから先もそんな機会ないと思っていたから、まったくやり方がわからなかった。

湯上がり後に体を拭いた俺は、脱衣所に置いてあった浴衣に袖を通したはいいが、帯の結び方を知らなくて困り果てていた。

仕方がないので腰で何周か回して適当にそれっぽく結ぶ。まあ他所に行くわけではないのでこれでいいだろう。

それにしても、広い風呂場だった。家が広いから当たり前か。だけど檜風呂だなんて、ここはまるで旅館だな。俺は脳内で旅番組なんかで紹介される瀟洒な和風旅館を想像するが、まさしくそのイメージと合致するのが、この日野家だ。

脱衣所を出た俺は、頭にタオルを乗せてわしゃわしゃと水気を取りながら、居間へ向かう。

「お風呂、ありがとうございました」

今朝と変わらず(今も十分朝だが)同じ場所でお茶を啜っていた陽子さんにお礼を述べる。

「いいえ。そういえば、今日学校の方は...?」

「ああ、今日は講義ないんですよ。文化祭なんで」

俺もさっきと同じ位置に腰を降ろす。まだこの家に住んでいるわけでもないのに、自分の定位置になりつつある気がする。

「そうだったんですか。でも、行かなくていいんですか?せっかくの文化祭なのに」

「いいんですよ。俺、サークルやめちゃって、行く理由もないんで」

バイトの日数を増やすためにサークルはやめた。これから先、俺には金が必要になるから。

俺は置きっ放しにされていたトンボ柄の湯飲みに手を伸ばす。熱かった。

「お風呂から上がる前に入れておきましたよ」

そうだったのか。でもどうして俺の出るタイミングがわかったのだろう?なんだか、俺の顔が見えない時でも、陽子さんには俺の行動を見透かされているみたいだ。思い返してみれば....。

「じゃあ私と行きましょうよ」

俺が回想に入ろうと、視線を上へ持ち上げたところで、思わぬ言葉が飛んでくる。ふわふわと浮かび上がっていた情景が一瞬でかき消された。

「...マジで言ってます?」

「はい、マジです」

にこっ、と微笑む陽子さん。

おかしい。

心臓が...どくんと波打った。なんだ?心臓の疾患か?

俺.....死ぬのか!?


❇︎❇︎❇︎


ジュウジュウと油のはじける音と香ばしい匂いがぼくの食欲を刺激する。豚肉、牛肉、鶏肉...いろんなお肉と、ピーマンにニンジン、とうもろこしの焼ける鉄板は、見ているだけで飽きない。ああ、早く焼けないかな。

色とりどりの食材が敷き詰められた鉄板に釘付けになっているぼくを他所に、今日もまた旅人くんと好子ちゃんが何やら言い争っていた。

「ちょっと!なんで全部いっぺんに焼いちゃうのよ!」

「いいだろ!どうせ食うんだし」

「そういう問題じゃないでしょ!焦げちゃったらどうすんのよ!」

見晴らしのいい丘の上に位置するバーベキュー場で、ぼくたちはそれぞれ班ごとに昼食を開始した。

緑が広がる大地、遠くに見える山の稜線、どこまでも広がるこの大空。その全ての景色が、ぼくにとっては初めてみるものだった。

アスファルトの大地、ビルやマンションの山、排気ガスが立ち込める空。それがぼくの生まれ育った街だったから。

普段の生活の中で空を見上げても、建物に阻まれてその大きさは限りがあったけれど、今ここから見える世界にはどこまでも続く青空があり、もはや大地との境がわからなかった。

お腹にいっぱいの空気を吸い込んでみる。空気に味があるわけではないけど、これが美味しい空気ってやつなのかな。自然とは素晴らしい。

さて、旅人くんが勝手に人数分の食材を鉄板に撒き散らしてそろそろ時間が経つ。

豚肉はしっかり焼かなきゃお腹が痛くなるって母さんが言っていたからまだダメかな。牛肉はいい具合に焼けている。待ちきれなくなったぼくは舌鼓を打ちながら鉄板を見渡した。

ちょうどいい焼け具合のあいつを....。

ぼくは紙皿を片手に、鉄板の真ん中にいた牛肉に狙いを定め箸を伸ばす。

「そんなこと言うんならお前も食えよ。ほら」

「勝手にのせないでよ!」

ぼくの視界から狙っていた肉が消えた。

ああ....ぼくの...お肉が......。

....まあいい、獲物はまだこんなにもあるんだ。ぼくは次に美味しそうに焼けていそうなお肉を探す。よし、こいつだ...。

「和泉ちゃんも食べなよ。はい」

「あ、ありがと」

..........。

「日野も食えよ。まだたくさんあるんだからさ」

ぼくの紙皿に野菜が山盛りで載せられる。これ...ピーマン以外まだ生だよ...。

ぼくはキリッと旅人くんとを睨みつける。

わざとやっているのかな。もしそうだったら、ぼくは許さないよ。

「ちょ、どうした日野?」

「驗くんっ!?」

悠長としていたぼくが悪かったのだ。戦の中にいて戦を眺めるのは死を意味する。戦いは始まったその瞬間から動き出さなきゃ負ける。

そう、つまりは早いもの勝ちだということだ。


❇︎❇︎❇︎


「私、高校もすぐ中退してますし、驗が生まれてからは忙しく働いていましたので、文化祭ってものを知らないんです」

つり革ではなく手すり部分を握る陽子さんは、窓の外を眺めながら、呟くように言った。

お互いに浴衣を着た俺と陽子さんは、俺の大学まで行くために、電車に乗っていた。

せっかく俺が浴衣を着ているからということで、陽子さんもそれに合わせて桜色の浴衣に着替えて共に家を出た。ちなみに帯は陽子さんに締め直してもらった。全裸の上に直接着ていたので、帯を解かれた瞬間は死ぬほど恥ずかし過ぎてよく覚えていない。気がついたら「もう終わりましたよ』と膝をついた陽子さんが笑顔で俺を見上げていた。普通は肌着を中に着用するらしいのだが、さすがにそれはなかったらしい。というわけで今もこの浴衣の下には地肌が広がっている。

「学園ドラマなんかでよく文化祭の最中に大勢の前で好きな人に想いを告げるシーンとかありますけど、やっぱりフィクションと現実は違うんでしょうかね?」

俺の方を見て首を傾げる陽子さん。俺の方が背が高いせいで、並んで立つと陽子さんは自然と上目遣いになる。その澄んだ瞳は俺を映していた。

そうか。陽子さんはその特異な経歴のせいで、中学までの学校行事しか知らないんだ。大抵の中学校には文化祭なんてなかったはずだし。

「どうなんでしょう?でも、少なくとも俺が通っていた高校では『みんなの前で告白』とかそういうのはなかったですね」

というか、俺がそういう青春とは無縁だっただけで、実際には俺の知らないところで行われていたのかもしれないけど。

「あら、じゃあ大学の文化祭は?」

「俺、去年も出てなくて、よくわからないっす」

「あら、そうだったんですね」

口元に手を当てて陽子さんは小さく笑う。浴衣を着ているからなのか、一連の所作が洗練されて、普段以上に美しくて気品といものを感じさせた。俺は着物美人と大和撫子はこの人にこそ相応しい言葉だと確信した。

電車を降りた俺たちは、五分ほどかけて大学まで歩く。路にはキャンパスを飛び出して、たくさんの学生が呼び込みやパフォーマンスを行なっていた。

「わあ、すごいですね!あの人、髪が緑ですよ!」

俺の袖を引っ張って指を指す陽子さんの目はまるで宝物を見つけた子供のようにきらきらと光っていた。心なしか声も弾んでいる。どうやらすでに興奮を抑えられないみたいだ。

「学校の敷地にはもっと面白いものがあるはずですよ」

人混みに苦戦しながらも、俺たちは通りを進む。

九月も後半戦に突入したこの季節、流石に浴衣は時季外れかと思い込んでいたが、集団の中に浴衣はもちろん、コスプレや奇抜なファッションをした人ばかりで俺たちが目立つことは一切なかった。

それに、ぎりぎり残暑という言葉を使えるあたり、歩いているだけでじっとりと汗ばんでしまう。むしろ浴衣で正解だった。

「ここです」

人混みを抜けてやっと大学前にたどり着くと、そこは通りとは比較にならないほどの人で溢れていた。

うちの学校は『地域にも愛される』をモットーにしているので、老若男女誰でも楽しめるよう、豊富種類のな屋台が軒を連ねていた。だがあいにく今日は平日で、しかもまだ昼前なので子供の姿は一切ない。それでもほとんどの屋台は大盛況で、忙しそうに働く学生もなんだか楽しそうに見えた。いくつかの屋台は、完全に身内だけで楽しんでいるような状態だったが。

「盛り上がってますね...」

人の量と屋台の数に圧倒された陽子さんは、感嘆とも取れる声を漏らす。俺も正直ここまでの熱気を帯びるほどのイベントだとは知らなかった。

「まあ、学生はお祭りが好きですからね」

俺たちは賑わいの外からしばらくそれを眺め続けた。かわいそうなことに、この人混みに飛び込む勇気がまだなかったのだ。

「陽子さん...」

俺は彼女の方を見る。どこから攻めようか、と言った具合に屋台を目で舐めていた陽子さんは俺の声に反応する。

「行きましょうか」

俺は歩き出す。彼女を連れて。彼女の手を引いて。

大丈夫、これははぐれないために、だ。問題は起きてからではなく起きる前から排除しておくべきなのだ。

「あの、空くん?」

俺は手を引く彼女を振り返って見る。桜色の浴衣は、ここにいる人間の中で誰よりも美しく、誰よりも輝いていた。

「私、たこ焼き食べたいんですけど....戻っていいですか? 」

申し訳なさそうに苦笑いの陽子さん。

ああ、張り切って調子こいて....こんなカッコつけたことしなきゃよかった。前のめりになり過ぎるがあまり、彼女が楽しむという目的を忘れていた。俺のバカ!今すぐあの射的の屋台の中に入って的になりたい。誰か俺を撃ち殺してくれ!

「....すみません」

落ち込みを隠せない俺はそれはそれは情けない声で謝る。手も離してしまった。勝手に握っておいて勝手に離す。もはや何がしたいのかわからないアホだ。

けれど彼女は微笑んでくれる。今度は苦笑いではない。俺の離した彼女の右手が、優しく、だけどしっかりと俺の左手を握った。

「離れないためには、話さないことが大切です」

陽子さんは諭すような落ち着いた声音でそう言った。この盛況の中にいても、俺は彼女の声を聞き逃すことはなかった。

離れないためには、離さないことが大切......。

それに深い意味があるのかはわからない。それでもその言葉は、広い荒野にぽつんと咲く一輪の花のように輝きを持って、俺の心に根を張った。

俺たちはたこ焼きを目指し再び元来た場所を歩く。今度は俺が手を引いて前を行くのではなく、彼女と二人、並んだままで。彼女の手を握ったままで。


❇︎❇︎❇︎


「ごちそうさまでした」

食台に紙皿と箸を置いて、ぼくは手を合わせた。

とても美味しかった。肉も野菜もデザートも。とくに、あのラム肉というのは初めて食べたけど、独特な匂いの中に、柔らかな食感と脂身の旨味が絶妙にたまらなく美味しかった。今度母さんと空くんにも食べてもらいたい。

ふう、と一息ついて木製のベンチに腰掛けて麦茶を一口。大空に下で楽しむ食事はなかなかいいね。

ぼくは初めて体験したバーベキューに大満足の感想を抱く。

「お、おい日野...お前大丈夫なのか....?」

ぼくの隣に座った旅人くんが、恐る恐る問いかけてくる。なんのことだろう?ぼくに何かあったのかな。

「うん」

よくわからなかったけど、訊き返すのが面倒なので頷いておく。

「す、すげー.....にしても急にどうしたんだよ、あんな勢いよく食べ始めて......お前、俺らの分もほとんど食ってたぞ?」

「別に。お腹空いてたから」

「お前、まるでトラみたいな、ケモノの目だったぞ....」

ぼくはトラじゃないけど、横取られていく獲物を前に、じっとしていられるほどおとなしくできる人がいるのかな。

「驗くんって痩せの大食いだったんだね」

バケツと雑巾を持った好子ちゃんがいつのまにかそばに立っていた。後片付けの時間らしい。

もう少し座っていたいのだけど。

手伝わないわけにはいかないので、ぼくは立ち上がって、食台の上に置かれたみんなの紙皿と割り箸を持ってゴミ捨て場に向かう。たぷたぷと、お腹の中が揺れる感じがしたけど、まだまだ胃に隙間がある証拠だ。もうちょっと食べたかったかも。


昼食の後は、近くの施設で動物たちと戯れた。

牛や豚や羊に顔をベロベロと舐められた。鶏には手をちょんちょんと突かれてくすぐったかった。

「な、なんか、日野くんが触ってた動物ってさっき食べたやつばっかりだね....」

ごろんと寝転がったカピバラを撫でながら心を癒されていた時、隣で同じようにカピバラのお腹をさすっていた和泉ちゃんがそんなことを言う。

「日野くん、すごく嬉しそう」

「うん」

この細めた目、鼻の下のよくわからない溝、まるまる太ったこの体。いますぐ抱きしめたい。顔をすりすりしたい。そしてなんか噛みつきたい。

「可愛いね」

ぼくはこの感情を共有したくて堪らず、和泉ちゃんに言ってみた。

「うん...。だけど、さっきの日野くんを見た後だと、なんか違うことを想像しちゃう...」

「違うこと?」

「食べたいのかなって、カピバラ」

.....?

何を言っているんだい、和泉ちゃん。こんな愛らしい動物を、ぼくがそんな目で見るわけないじゃないか。

「食べないよ」

「じゃあお肉屋さんで売っていたら?」

.....それは話が別だよ。

「..........」

「ひどい、こんな可愛いのをやっぱり食べるんだ!」

だって、お店に売られているってことは、食べてもいいってことでしょ。牛も豚も羊も鶏も、みんな生きていた頃は可愛かったんだ。和泉ちゃんだってそれをさっき食べてたくせに、ぼくをそんな悪魔を見るような目で見なくてもいいじゃないか。

それに、少なくともいま目の前にいるこいつを食べたいとは思わない。

キュルルと鳴くカピバラくんは、その奥の見えない眼差しでぼくを釘付けにする。大丈夫、食べないよ。

「もうすぐ集合時間だよ。行こ」

「もうちょっと」

「でももう時間が...」

何度も腕時計を気にする和泉ちゃんは、名残惜しさからそこを離れられないぼくの手を掴み、無理や引き剥がして集合場所まで連れて行った。

ああ、まだ触り足りないよ。

まるで愛しいジュリエットに手を伸ばすロミオのように、ぼくはカピバラに手を伸ばす。

さようなら、カピバラくん。また会おうね。もしかしたらお店で会うことになっても、恨まないでね。

悲劇の別れを乗り越えて、ぼくは前を向いて歩くことを決めた。

ところで和泉ちゃん。いつまで手を握っているの?


❇︎❇︎❇︎


「アツイですね」

「そうですね。暑いし熱いです」

たこ焼きから始まり、わたあめ、チュロス、チョコバナナなど、目につく食べ物を手当たり次第に食べて歩く陽子さんは、見た目に似合わず巨大な胃袋を持ち合わせているらしい。

屋外の出店を散々食べ歩いた俺たちは、運良く空いていたベンチに座って、小休憩がてら昼ご飯にと屋台で買った焼きそばを食べようということになった。ちなみに、陽子さんの曰く、おやつとご飯はそれぞれ別腹なのだとか。

額に浮かぶ汗を手の甲で拭いながら、俺は焼きそばのパックを開ける。

「大丈夫ですか?ハンカチどうぞ」

俺に気を回してくれた陽子さんは、手にぶら下げた巾着から花柄の水色のハンカチを差し出してくれるが、俺は片手で断る。

「いや、俺は平気ですよ。それより陽子さんも汗かいてる」

この気温と人集りを相手にして、汗をかかない人間がいるのだろうか?いくら陽子さんのような色白の美人であっても、普通の人間と同じで汗はかくものなのだと俺はなぜか感心する。

「そりゃ私だって汗くらいかきます」

「あはは....そうですよね」

焼きそばを陽子さんには手渡そうと差し出す。しかし、「先に一口食べてください」と言われてしまった。毒味役か俺は。

少し訝しみながら俺は焼きそばを啜る。ソースの香ばしい香りとモチっとした食感の麺が美味い。学生が作ったにしてはなかなかだ。うん、この美味さはなにか毒的なものが入っているな?

「ほら、滴ってますよ」

俺の顎先から落ちる汗を見て、陽子さんはすかさず顔にハンカチを押し付けた。急に顔を触られたことに俺はびっくりして仰け反る。焼きそばをむせそうになる。

「気にしないでください。私が勝手にやってるだけですから」

「...すいません。ありがとうございます」

俺は深々とお辞儀をした。美しい容姿を持つ人は、それと同じくらい美しい御心をお持ちらしい。俺は一生この人には敵わないんだろうな。

「それより、私にもそれ、くださいな」

まるで子供がおねだりするかのような声音で顔を近づけてきた陽子さんは、口を開けてあーんとやってきた。目は閉じている。

な、なんて大胆な...。陽子さんもドラマで見るような男女の甘い関係に憧れてたりするのだろうか....。

俺は開けられた口に焼きそばを入れてあげようとするが....麺類ってそれに適してなくね?

「陽子さん....自分で食べた方が安全だと思います」

「......それもそうですね。焼きそばは失敗でしたね」

....別に失敗ではないと思います。今の顔もなかなかでしたし......。

俺は陽子さんに焼きそばのパックを渡す。そして普通にそれを啜って食べる陽子さん。俺が使った箸だけど嫌じゃないのだろうか。まあ美味しそうに食べているからいいのだろう。

昨今の女性は蕎麦やうどんなんかの麺類を恥ずかしがって音を立てずに食べる、とテレビでやっていたが、陽子さんは何も気にするそぶりなく、堂々と音を立てて啜っていた。

「パスタ以外の麺類は音を立てるから美味しいんですよ」

「え、あ、そうっすよね...!」

俺にパックを返した陽子さんは、巾着の中からウェットティッシュを取り出して口元を拭いた。

「あの...陽子さんって、人の心とか....読めます?」

いや、そんなわけないだろ。何バカなこと訊いているんだ俺は。だけど、バカでありえないことだってわかっているのに、どうしてもそんなような気がしてならない。

陽子さんにはいつも心を見透かされているのだ。俺は考えていることが顔に出やすいって、陽子さんは言っていたけど、そんなピンポイントで言い当てることができるものなのか?

「あ、いや、...変なこと訊いてすみません!忘れてください」

俺は自分で訊いておいて、それを無かったことにしようと手を振った。

「バレちゃいました?」

その瞬間、周囲の喧騒が消えた気がした。

そっと吹いた風が、陽子さんの前髪を揺らす。俺は、ただその顔を、黙って見ているしかできなかった 。

「嘘ですよ?」

.......なんやねん。


❇︎❇︎❇︎


旅館に行くまでのバスの中でぼくは寝てしまった。たくさん食べてたくさん遊んで、たくさん寝る。旅人くんのうるさい声も気にならないくらいぐっすりだった。

旅館に着いて、バスから降りるときに、旅人くんと好子ちゃんが肩を揺すってくれなかったら、ぼくはいつまでも夢の中にいられた気がする。

「お前めっちゃ寝相いいな」

「良すぎてまるで死んでるみたいだったよ」

ふらふらといまだに残る睡魔の爪痕に揺らされながらバスを降りると、旅人くんと好子ちゃんが揃って言ってくる。

「だけど、ときどき寝言言ってたんだけど、『カピバラ、おいしい、かぴー』って、あれどう言う意味?」

ぼくは思わずきょろきょろと和泉ちゃんの姿を探す。よかった、前で別の班の女子とおしゃべりしていた。

こんなのを和泉ちゃんに聴かれたら絶対に嫌われる。和泉ちゃんは大事な友達だから、それはすごく嫌だ。

「きっと夢の中でカピバラに『おいしい?」って訊きながら餌をあげてたんだね」

好子ちゃんが勝手にそう自己完結してくれるので、もうそれでいいと思う。というかそれは素晴らしい言い訳だ。もしもぼくのその寝言を和泉ちゃんも聴いていたとしたら、ぜひともその言い訳を使わせてもらおう。ありがとう好子ちゃん。

「いやあ、にしても早かったな。もう一日目も終わりだぜ」

両手を頭の後ろに回して歩く旅人くんが言う。

「終わりって言うけど、まだ五時だし」

「だけど後は宿で過ごすだけだろ?終わりみたいなもんだろ」

「まだあるじゃない、あれが」

「ね?驗くん!」ぽんとぼくの肩を叩く好子ちゃんは「まだまだ楽しいことはこれから」みたいな笑顔をしていた。

「うん」

とりあえず同意を求められたので返事をしておくが、実はぼくもこの後になにかあったかは覚えていない。

お肉にお魚、野菜もちろん、カレーやいろんなご飯が食べ放題のビュッフェ形式の夕食を食べて......後はお風呂に入って寝るだけでいいと思う。

「なにがあったっけ?全然覚えてねえや」

「まあ、お楽しみね」

うん、お楽しみだよ。お肉にお魚野菜にデザート...。牛豚鶏に、羊もあるかな?魚はやっぱりお刺身がいい.....。

うふふふ..楽しみだな。


「おい、あいつちょっと食い過ぎじゃね?」

「いや、たぶんここからだと思う。昼はもっとすごかったから...」

「日野ってあんなに目つき鋭かったっけ...?」

「あいつ、ご飯おかわりするの四杯目だぞ!?」

なんだろう、みんながぼくを見ている。どうしたのかな?みんな食べないのかな?それにしてもこの炊き込みご飯はおいしい。まだ秋には早いけど、それでも十分食材の香りが引き立っていて、これを作った人素晴らしい腕の持ち主なんだろうと強く思わせる。こっちの舞茸の天ぷらも抜群いい。というか全部最高。

「あー、あの日野くん?よかったらわたしのゼリーも食べる?」

丸テーブルでぼくの隣に座る和泉ちゃんが、カップに入ったゼリーを指で持ち上げて言う。

「いいの?」

「うん。なんだか幸せそうに食べてるから、よかったらって」

ぼくは遠慮なくもらった。よかった。ゼリーは一人一個でおかわりがなかったから。やっぱり和泉ちゃんは優しいや。

「ありがと」

ぼくは受け取ったゼリーに早速スプーンを入れる。ちょうど炊き込みご飯を食べ終えてしまったので、お口直しにぴったりだ。

「おいしい?」

和泉ちゃんが訊いてくる。うん、おいしいよ。ぼくはこくんと頷いて、その意を伝える。口の中に物が入っている時に喋っちゃダメだからね。


「はいちゅうもーく!」

夕飯の時間も残りわずかとなった頃、突然教員用の席にいた武蔵先生(一組の担任で、五年生の学年主任でもある)が、立ち上がって声を張り上げた。ぼくはそのあまりの声の大きさに、手に持っていたスプーンを放り出してしまいそうになる。楽しいひと時を邪魔された気分だ。

「この後六時半より一組から順に入浴の時間です。そして、八時二十分まではそれぞれ自由時間として過ごしてください」

ぼくはそこまでの予定は把握していたので、とくに聞く必要のない話だと感じ、デザートの堪能を再開しようとした。

「そして八時半には正面玄関に集合すること。肝試し係は十分前には来て準備なー!」

.....ん?肝試し?ぼくは高速で瞬きをする。

な、なんてことだ....。ぼくは完全に忘れていた。この二泊三日の旅の中で、ぼくが唯一楽しみじゃなかったイベントを。

人間の脳は嫌なものを知らず知らずのうちに記憶の外へ投げ捨てることができるのかもしれない。

ああ、最悪だ。せっかくのおいしいデザートが......不味くはならないけど、味気ないものへ変わってしまったみたい。

「日野くん?どうしたの、なんか顔色悪い」

気のせいだよ和泉ちゃん。ぼくはいたって正常だよ。ほんとに....。

「それじゃあごちそうさまをして食べ終わったものから解散!」

武蔵先生の掛け声を合図に、それぞれのテーブルから「ごちそうさまでした」と言う声とともに、下膳で席を立つ人が増えていく。ぼくのテーブルからも好子ちゃんと旅人くんが下膳に向かった。

最後の一口を食べたぼくも、一息吐いて立ち上がる。和泉ちゃんも合わせて席を立つところを見ると、どうやらぼくのことを待っていてくれたみたい。


「じゃあ女子の部屋はあっちだから。またね」

食堂を出たぼくと和泉ちゃんは、それぞれの部屋がある廊下で別れた。

ぼくたちの学校は一クラス二十五人前後で、各学年二クラスしかない。だからこの階だけで二クラス全員の部屋が揃っている。

ちなみに、二クラス合わせて男子は六部屋、女子は四部屋で一部屋五人ずつで割り振られている。

ぼく自分の部屋に入って入浴の準備をする。

着替えとタオル、シャンプーにリンスに石けんと....大丈夫、忘れ物はないや。

「日野ー、お前もトランプやろうぜ」

準備を終えて窓の外に座っていたぼくに、声がかかる。みんなでお菓子をかけてババ抜き大会をしていたらしい。

「ぼくお菓子持ってないよ」

残念なことに忘れてしまったのだ。そもそも買ってくることすらも。

「まじか。お前ほんとドジだな」

カードをシャッフルしながら蘇我くんが言う。

「じゃあみんなからなんか一個ずつ日野に恵んでやろう。そしたら日野もかけができる」

というわけで、なぜか満場一致でぼくはほかのみんなからお菓子を分けてもらい、それを元手に勝負に参加できることになった。

お菓子がほしくてかけ合っているのかと思えば、どうやらみんなは“かけごと”という行為そのものを楽しんでいるらしい。混ぜてもらった以上はぼくも全力でやらせてもらうよ。


❇︎❇︎❇︎


「うわっ!」

真っ暗闇の中で人の呻く声、振り返れば血で顔を濡らした白衣の女.......。

や、やばい。なんなんだこのお化け屋敷。学生が作ったにしてはクオリティ高すぎだろ!

てか、ここの学生、文化祭に命かけすぎだろ!どこもかしこも張り切りやがって!

頭の中でそうぼやくけど、いっこうに出口が訪れない。ああ、あの時陽子さんをこのフロアに連れて来なければ.....!


遡ること十五分前、ベンチで軽めに昼食を食べ終えた俺たちは、今度は屋内展示を回ろうということで、エアコンのガンガンにきいた学生棟に入館した。

「涼しいー!まるで砂漠の中でオアシスにたどり着いたみたい」

「ふふふ、面白い例えですね。とてもそのとおりだと思います」

実際のところ、外よりも館内の方が人口密度は濃いが、天井に設置されている大型のエアコンのおかげではるかに快適を保っていた。

「さて、この階にはなにが....」

俺は壁に貼られたフロア案内を見つめる。

男装メイド喫茶に学内バンドライブ、室内サバイバルゲーム....などなど、この階には正直言って陽子さんと楽しめそうなものはあんまりない気がした。

ならば、と次の階の案内板を見てみるが、そちらは、茶道体験、書道体験、俳句体験等、どれもお年寄りを狙ったようなものばかりだった。

「あ、これ行ってみましょうよ!」

俺が、三階の展示案内を眺めていた時、真横に立つ陽子さんが、一階の案内を指差して俺の肩を叩く。

「...お化け屋敷」

「面白そうです。私こういうの行ったことないので」

はしゃぐ陽子さんの目は、まるで十代の、ただの無垢な女の子に見えた。

考えてみれば、陽子さんは十代の半ばで驗を産んで、そこからずっと働き続けてきたのだ。二十七歳の彼女は学生だった時よりも母としての年数が上回っていたのだ。

俺は思う。この人は十代に忘れ物をしてきてしまったのだと。

「じゃあ行きましょうか。今日は陽子さんの好きなところを回りましょう」

満面の笑みで頷いた陽子さんは俺の手を取って歩き出す。

俺は彼女の柔らかな手を握り返した。暖かくて優しくて強い“母の手”。そしてどこまでも幼くて儚い“少女の手”を。


「きゃっ!いま何かに触られました」

俺の手の繋がれた先で、陽子さんは小さく悲鳴をあげた。彼女の俺の手を握る力が強まった。

大教室をまるまる改造して制作されたこのお化け屋敷は、おおよそ大学生が文化祭で催すようなクオリティじゃない。段ボールを使ってくねくねとした通路を作ることによって歩行距離を伸ばし恐怖の時間を増長させる仕組み、大量の血糊や病室を模した小道具の数々など、素人が作ったものとは考えにくいレベルの内容だ。さすが、出展が『オカルト研究会』なだけある。

ちなみに出展名は『おとなも子どもも楽しめる!〜エセ戦慄迷宮〜 火照った体を冷やしていってね♡』....完全にそのキャッチーな名前に騙された。

俺は、陽子さんのいない手で、壁を伝いながらゆっくりと前に進む。入って何分くらいたっただろうか?どれくらい進んだのだろうか?あとどれだけ進まなければならないのだろうか!?

おどろおどろしいBGMが俺の恐怖心を煽る。怖すぎて膝がガクガクと震えている。物音がするたびに、びくんと飛び上がりそうになる。こんなことを言っては本末転倒だが、この無様で情けない姿を、暗闇で陽子さんに見られずに済んでよかった。

「そこ、曲がり角ですね」

いつのまにか俺の腕に身体密着させていた陽子さんが耳元で囁く。身体中に熱が走る。

この心臓の張り裂けそうな感覚が怖さからなのか、陽子さんのせいなのかなんて、今は考えている余地もない。

「....絶対いますよね」

暗闇の先には微弱すぎる照明が設置されていて、矢印の書かれた紙を照らしていた。

俺は、その先で待っているのであろうなにかに警戒する。今まで散々真っ暗闇の中で壁に激突させられてきたのだ。

ここに来てご丁寧に進行方向を教えてくれるなんて、角を曲がったところになにかが潜んでいるに決まっていると言っているようなものだ。

だから大丈夫。わかっているなら怖いことはない。

密着する陽子さんと離れないように、そっと角を曲がる。

...........。

そこには四畳半ほどの小さな空間が広がり、手術台や医療器具、包帯が散乱していた。そして全体的に赤い。血糊を撒き散らしすぎだ。

手術台の奥には通路があり、その手前に『出口だよ♡』と書かれた案内板が、濃いピンク色のライトで照らし出されていた。

「....何もいませんね」

肩に力を入れて強張っていた俺は、安堵ともいえる言葉を呟く。

見たところこの手術室を模した空間には、人の姿はない。どうやら曲がり角はただのハッタリだったらしい。

血糊を踏まないように、俺たちは出口と書かれた通路へ足を運ぶ。意外とあっさりだったなあ、うん。気がつけばもうこんな終盤まで来ていたのかあ。さあ、とっととこんなところからは出よう。やっぱり人間は太陽の下にいるのが一番だ!

「空くん....」

「はい?」

不意に陽子さんに名前を呼ばれる。

「....うしろ」

「へ?」

俺はカクカクと首を動かす。

.............。

「ぎゃああ!!」

その瞬間俺は陽子さんの手を引っ張って通路を走り出した。それを合図とするかのように、いつの間にか背後にいた血まみれのナースが追いかけてくる。白目むき出しで!

お前はいったいどこから出たんだよ!!

さっきまでいなかっただろおお!!


❇︎❇︎❇︎


「それじゃあ私たちの番だね」

薄暗い旅館の玄関先に集められたぼくらは、男女二人ずつで旅館の周りを走る林道を一周するという、地獄のようなイベントをやらされていた。

ひと組、またひと組とみんなが順々に繰り出していく中、ぼくは足の震えを抑えることに精一杯だった。誰だよ、こんな悪趣味な余興を考えたやつは。

頑なに前に踏み出せずにいると、好子ちゃんに手を引かれ無理矢理暗い道へ引きずられる。

「大丈夫だよ!どうせ先生が驚かして....」

「ぎゃああ!!」

好子ちゃんが何か言っている途中、その手を振りほどいてぼくは叫び声とともに森の中を走り出した。

よ、好子ちゃんの横に白い着物の幽霊がああ!

「待って!まだ早すぎだよ驗くん!」

好子ちゃんが必死に追いかけてくるけど、待てるわけないじゃないか!だってきみの後ろにいたんだから!来ないで!ぼくに近づかないで!

ぼくは渾身の勢いで駆け抜けた。たぶんボルトよりも速かったと思う。

「うおっ!って日野!?」「日野くんっ!?」

前を歩いていた旅人くんと和泉ちゃんペアが疾走するぼくに振り、揃って驚きの声を上げた。それでもぼくは止まらないし、決して振り返らない。

「にゃああ!」

そこの祠の裏にもなにかいるよ!

「うぎゃあ!」

そっちの木陰からも白いやつが!

もう嫌だ!早く部屋に帰って布団に潜りたい!

叫び声を響かせながも、全力を振り絞ったぼくは、やっとの事で林道を一周し、旅館の玄関先に戻ることができた。

エントランスの灯りがぼくの心を救ってくれる。

「あれ、日野くん?今行ったばっかりじゃなかった?」

手を膝について激しく肩を揺らしていると、不意に天海先生から声をかけられた。

肝試しを終えた生徒は、順に各部屋に戻って消灯時間まで自由に過ごすことになっているのだけど、天海先生はその部屋に戻る生徒をエントランスでチェックする係だったらしい。手には名簿の挟まれたバインダーを持っている。

「えっと、日野くんのペアは...小野さんね?」

「.....はい」

「もしかして、置いてきちゃったの?」

ぼくは小さく頷く。それを見て、心なしか天海先生が笑った気がした。普段はあまり見せない表情だった。

「男の子なのに女の子を置いてっちゃダメじゃない。小野さんが来るまでここで待っていてあげなさい」

天海先生は、手元の名簿にペンでなにかを書き入れた。おそらくぼくの名前の欄に終了のチェックを入れたのだろう。

それからまもなく、ぼくの息遣いが落ち着いてきた頃に旅人くんと和泉ちゃんペアが一周を終えて帰ってきた。そこには好子ちゃんもいる。

「大家大江ペア終了と...それから小野さんもね」

「じゃあ部屋に戻っていいわよ」チェックを終えた天海先生に促されて、ぼくたちは旅館の中に戻った。

「驗くんったら、わたしを置いてっちゃって」

「おれもびっくりしたぜ。後ろから大声で出しながら走ってくるんだもん」

「おばけ役の先生より怖かったね」

三人がそれぞれぼくのことを話す。ぼくはずっとうつむいていた。恥ずかしいからではない。

僅かにだけど、いまだにさっきの薄暗闇での恐怖が残っていたからだ。

「まあ、そういうところもかわいいのよね」

ほっぺに手を当てた好子ちゃんはなぜか嬉しそうに目を細める。ぼくがかわいいってどういうこと?

「じゃあ、女子はこっちだから」

やがて女子の部屋の前に来て、好子ちゃんと和泉ちゃんにそれぞれ小さく手を振り合って別れた。ぼくと旅人くんの部屋は通路の一番奥にある。

「お前ってさ、モテるよな」

二人が消えた途端、旅人くんはにやけ顔になった。

「別に」

「おれにも分けてくれよ。そのモテパワーをよおー」

肩を肩でどついてくる旅人くん。ぼくより背が大きく力も強いので、その反動でぼくは横に大きく揺れる。果たして今のでぼくのモテパワーというには伝染したのかな。

そんなこんなでようやく着いた部屋に、ぼくたちは灯りをつけて揃って畳の上に座り込んだ。まだぼくたち以外は戻ってきていないみたいだった。

窓から見える月が真っ白な満月で、思わずその完璧な円に見とれてしまう。

「お前好きな人いないの?」

自分のリュックからお菓子を取り出していた旅人くんが訊いてくる。ぼくは月から目を離して、旅人くんの方に向き直る。

「なにが」

「いいよなあ、お前は選び放題でさー」

旅人くんはなにかを見上げるように言う。袋から棒状のスナック菓子を取り出し、「ほらよ」と、ぼくの方に一本投げて渡し、自分も同じものを頬張った。ぼくも「ありがと」と言って封を開けた。

部屋での食事は禁止されているけど、ぼくと旅人くんだけなので誰かに告げ口されることはないはずだ。だけど、後でもう一度歯を磨こう。

「クラスの女子、みんなお前のこと好きなんだぞ」

「ぼくもみんな好きだよ」

「いや、お前の言う好きとは違う好きって意味でな」

「どういうこと?」

「だーかーら」

呆れたように顔をしかめた旅人くんは、珍しく口の食べ物をのみ込んでから、「レンアイ感情の好きだよ」と教えてくれた。

旅人くんから貰ったお菓子を食べ終えたぼくは、自分にリュックから水筒を取り出し麦茶を飲んだ。口の中に残るスナック菓子を洗い流すためだ。

「ぼくはそういうのはわからないよ」

ほっと一息吐いて、ぼくは答える。正直な気持ちだ。

「ぼくたちには早いんじゃないかな」

『小学五年で恋愛をすること』ではなく、“男と女”として付き合うが早いという意味だ。

去年の三学期、学校に来た助産師さんの特別授業で“男と女”の違いについて教わった。

思春期を迎えると、男は角張ってガッチリとした体型に、女は丸みを帯びた体型になり、それぞれの性別としての役割が与えられる。

ぼくはまだ性毛も生えていなければ精通も知らない。ぼくはまだ“男”ではないのだ。

クラスの女子たちがどうかはわからない。女子は男子よりも身体的に成熟するのが早いらしいから、ぼくと違って性毛が生えている子もいるかもしれないし、もしかしたら初経を迎えている子だっているかもしれない。

だけど、たとえ肉体がその機能を持ち得ていても、それで“女”という存在にはならないと思う。

精神的にも身体的にも成熟した『大人』を初めて“男と女”と呼べるのだとぼくは考えている。

だからこそ、まだ『子供』であるぼくたちが男女としての付き合いをすることには違和感があるんだ。だって、普通は付き合うっていうのは大人の関係でしょ?友達として一緒にいることじゃダメなのかな。

「まあ下の毛も生えてないお前にはたしかに早いかもな」

なんだかよくわからないけどバカにされいるみたいだ。少しだけイラっときたのでぼくも言い返す。

「旅人くんはひとりだけ隠してたね。恥ずかしかったの?」

「な、お前!バカ言うなよ!恥ずかしいわけないだろ」

「じゃあなんで隠していたのさ」

ぼくは旅人くんを茶化す。普段はあんまりこんなふうに人をからかったりはしないけど、夜を迎えても友達と時を過ごすという非日常的な雰囲気が、ぼくの高揚感を刺激してそうさせたのかもしれない。

「たっだいまー!」「大して怖くなかったな」

言い合いながらぼくたちが笑っていると、ひとり、またひとりと部屋に人が戻ってきた。

そしてまたぼくたちは再びお菓子をかけたトランプを消灯時間まで白熱させた。


❇︎❇︎❇︎


「いやあー、だいぶ遊びましたね」

俺は最寄駅から日野邸へ向かう道中でそう呟いた。

西の空が真っ赤に燃えていて、秋の気配を感じさせる。心なしか風が冷たくなった気もした。

「そういえば、今日はどうするんですか?」

隣を歩く陽子さんが俺の顔を覗き込んでくる。浴衣のうなじが西日に照らせれて、俺はどきりとしてしまう。今日一日彼女の隣にいてその姿はずっと見てきたというのに、夜が迫るにつれてなぜかその白い肌を意識してしまう。

「どうするって、何をですか...?」

質問の意味はもちろんわかっていた。それなのになぜそう返してしまったのか、自分でもよくわからない。

「帰っちゃうんですか?」

「いやまあ、驗もいないのでせっかくのひとりを邪魔するわけにもいきませんし、俺は自分の家に...」

帰ります、そう言い終える前に、陽子さんは俺の前に立って手を握ってきた。顎を引いて俺を見つめるその瞳は、俺を後ずさりさせるほどの力強さを帯びていた。けれど、俺が一歩後ろへ足を下げても、彼女が一歩距離を詰める。何より俺の手は固く陽子さんに握られていたので、振りほどかない限り逃げる事は出来ない。

「空くん」

落ち着いた声音で俺の声を呼ぶ陽子さん。この人は俺よりも七つも歳上だったんだと実感させるような強く大人びた面持ちだった。

俺はただその瞳を見つ返すことしかできなかった。

「私たちってどういう関係なんですか?」

唐突に浴びせられる質問に俺は窮する。

俺たちの関係....?それは———

「間違いなくまだ夫婦ではありません。でも付き合っているのかと訊かれるとそれも違うと思います」

どこからか豆腐屋の笛の音が聴こえる。車道では車の往来が一瞬途切れた。

「一目惚れで結婚してほしいなんて言われて、しかも十一歳になる子供もいて、正直警戒だってしてます。なにか罠なんじゃないかなって」

俺はそう伝える。それが俺の思っている、俺たちの関係だし、俺の本音だった。

俺は彼女の手を振りほどく。そっとうつむいた彼女の目が悲しそうに揺れた気がした。

歩道に並んだ影が、俺と彼女の隙間を証明する。

「だけど」

俺は固唾を呑む。そして彼女の手を握る。今度は俺から。ふたつの影がまたひとつに繋がる。

「俺はあなたの手を握ることができる。あなたのそばにいる。それだけで俺にとっては特別な関係です。

なんとなく成り行きでプロポーズを受けた俺だけど、あなたのことをもっと知りたいし、あなたの声を聴きたい。たくさん笑ってほしい。これからもずっとそばにいたい、今はすごくそう思っています。

俺は、恋をしたことがないけど、たぶんこの感情を恋と呼ぶんだと思うんです。

曖昧な関係の俺たちだけど、間違いなく俺はあなたに恋してます」

東の空からやってきた夜は、西に空へ光を追い払う。そしてやがて群青色の一色に染まる空には小さな星が瞬いていた。

そっと顔を上げた陽子さんは泣いていた。きらめく涙の雫が頰を流れ、線を描く。

「私も好きですよ。空くん」

彼女は俺の胸に顔を埋めてきた。そのあまりの勢いに思わず息を飲んだが、ここで倒れては格好がつかない。よろけながらも俺は片足を一歩引いて踏ん張った。

「知ってますよ。だって俺、プロポーズされてますから」

俺はそっと彼女の身体に手を回す。小さなその背中は、俺の大事な人だ。

「帰りましょうか」

俺は彼女の手を大事に握りながら、“俺たちの家”に向かって歩き始めた。


その夜、俺と陽子さんは契りを交わした。

夢のような時間の中で俺は愛を知った。

「....空くん?」

隣で白い肩を晒していた陽子さんは俺の腕を抱いている。暖かくて柔らかな胸の膨らみの感触が、事を終えた後でも俺の胸をどぎまぎさせ、彼女の甘い髪の香りがさらに俺を昂ぶらせた。

「どうしました?」

俺の名前を呼ぶ陽子さんを、俺は覗き込むように見る。

「好きです」

そう言った陽子さんは、照れて俺の腕に顔を埋めて隠す。可愛い。

「それ、さっきも聞きましたよ」

俺は寝たままで彼女に向き直り、その細い身体を抱きしめる。

障子から透ける月明かりが、俺と陽子さんだけの世界を青白く照らしていた。

「陽子さん」

今度は俺がその名を口にする。

「愛してます」

そのまま俺たちは口づけを交わし、再び微睡みの中へ消えた。


朝、目が覚めると隣に陽子さんはいなかった。寝ぼけ眼で壁の時計を見ると、短針はもう十一時を回っていた。幸い今日も文化祭なので講義はないが、さすがに起きるには遅い時間だ。まあ昨夜はちょっと頑張り過ぎたので仕方ないか。いやでも陽子さんはもう起きているわけだし、それは言い訳だよな。今後は早起きを心がけようと俺は誓う。

枕元には丁寧に畳まれた浴衣が置いてあった。俺が寝てる間に陽子さんが用意してくれたらしい。俺は立ち上がってそれを着た(帯は相変わらずぐちゃぐちゃ)。

とりあえず居間へ向かおうと廊下へ出たが、先程から腰に微かな痛みが走る。いやはや、なんともお恥ずかしい限りである。痛みの原因がわかっているだけあって、人には絶対に言えない。

「おはようございます」

香ばしい匂いのする居間へ行くと、そこから続く台所から少し照れた様子で陽子さんが挨拶してくれた。俺もぎこちなく頭を下げた。

「ご飯、今用意しますね」

振り返っていう彼女に俺は近く。ガスコンロの上には味噌汁の入った鍋が見える。

「俺も手伝います」

「いえ、すぐ出来ますから座っていてくださいな」

「じゃあせめて運ぶくらいは」

俺は台に置かれていた小皿やらなんやらを居間のテーブルへ持っていく。

「ありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそありがとうございます」

俺は食事を作ってくれた陽子さんへ感謝の言葉を送る。

やがて、全ての皿を運び終えた俺たちは、それぞれの位置に座り「いただきます」と手を合わせた。

綺麗に焼かれた紅鮭にだし巻き卵、ほうれん草のおひたしとひじきの和え物、そしてわかめとゴマの混ぜご飯に味噌汁。一日のはじめの食事がこんなに豪勢でいいのか、と俺は若干申し訳なくなる。ちなみに、俺は陽子さんの手料理を食べるのが何気に初めてである。

俺はまず味噌汁に口をつけた。汁物から先にいただくのが俺の食事のルーティーンなのだ。

「美味しいですか?」

俺の様子をじっと伺っていた陽子さん。どことなく不安が入り混じった表情だ。

「二十年間で一番美味しい味噌汁です」

俺の感想を聞いて、陽子さんの顔は、太陽のようにぱあっと明るくなった。

俺は、それが嬉しくて焼き鮭もおひたしもだし巻き卵も和え物も、並べられた料理全部を美味しいと言って食べた。事実、陽子さんの料理は本当にどれも美味い。塩加減や味噌汁の温度に至るまで、全て俺の好みをついていた。

「惚れてくれました?」

微笑みながら陽子さんは訊いてくる。

「とっくに惚れてます」

ああ、何を言っているんだ俺は。朝からこんなイチャイチャとのろけやがって。頰が完全に緩みきっているぞ。

だけど、それでいい。その感覚がすごく心地よかった。大事な人がいて、その人と時間を共にする。この上なく幸せだった。

「私も幸せですよ」

「へ?」

「自分が好きになった人が、自分を好きになってくれて」

無音というBGMを背景に陽子さんは続ける。

「一方的に恋に落ちて、急ぎ過ぎてプロポーズして、疑われて警戒されて、それでも自分のことを見てくれた」

「陽子さん...」

俺は箸を置いて彼女の名前を呼ぶ。

「勝手な一目惚れなんてありふれた話かもしれない。だけど、それはただのきっかけに過ぎない。今私の前に空くんがいて、帰ってくれば驗もいてくれる。私にとってはそれでけで奇跡。かけがえのない幸せ....」

「陽子さん!」

俺は再び、そして今度は無意識的に強くその名を呼ぶ。

言わなきゃいけないことがある。どうしても今じゃなきゃいけないわけじゃない。だけど、どうしても今伝えたい言葉があった。

「結婚しましょう。いや、俺と結婚してください」

朝でも昼でもない時間に起きて、気がつけば時計は十二時を指し、曖昧だったなにかが透き通るような感覚。沈黙は、一瞬を永遠のように長くさせる。

陽子さんは、また泣いていた。

今度は笑いながら、頷きながら————

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