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長いプロローグ  作者: やきりいせ
2/8

長すぎる自己紹介

 - 2 長すぎる自己紹介 -

  学校はつまらない。なんとくいつもそう思う。

  ここにぼくの居場所はないんだって。

  みんなはぼくと違うんだって。

  ぼくはみんなと違うんだって————。


  早く帰って寝たい。

  いつも仕事で遅い母さんを待たずに寝るのだけど、寂しくはない。“気がついた時”からそうだったから。けど、寝るときはひとりでも、朝起きると帰ってきていてご飯を作ってくれてるから、母さんは好きだ。

  休み時間、前の授業で出された漢字の書取りの宿題をさっさと終わらせながら、ぼくはそんなことを考えていた。

  ぼくはかわいそうな家庭の子らしい。前に近所のおばさんたちがぼくと母さんのことを話しているのを耳にしたことがある。

  『あそこの日野さんっておうち、お母さんがミズショウバイでいっつも深夜に帰ってくるのよ』

  『あらあそうなの?それはかわいそうねえ。親の愛が一番必要な時期なのに』

  その時はミズショウバイの意味を詳しく知らなかったけど、手を振りながら楽しそうに話していたおばさんたちの姿は今でもなぜだかよく覚えている。ぼくは全然かわいそうじゃないのにね。

  黙々と書き取りを進めると、今日の最後の字まで到達してしまった。それは『験』という字だった。それはぼくの字だった。

  ぼくの名前は日野驗。『験』という漢字の旧字だ。

  まあ、自分の字が出てきたからなにがあるわけでもなく、まるで写経をするかのごとく、ただひたすらにノートの空白を埋めていく。

  やっと終わらせた頃に顔を上げると、なにやら教室に誰も人がいない。

  .......?

  ぼくはあわてて椅子から立ち上がる。反動で後ろの席にがん、とぶつかる音がしたが、そんなことはどうでもいい。みんなはどこへ?

  まさかぼくが漢字練習に集中している間に誘拐でもされたの?それとも実は気づかない間に下校時間になっていたとか?.....いやいやあり得ないって。

  「...日野くん?」

  二十秒くらい焦りながらもその場で立ち尽くすことしかできなかったぼくに、教室の後方の扉から声が投げかけられた。ぼくの席は窓側の一番前なので、逆位置のそこを振り返る形で見る。

  「ちょっと日野くん!なにしてるの!」

  「先生」

  入り口のそばに、担任の天海(あまみ)先生が腕を組んで立っていた。今年で二十八歳、独身、メガネ、性格はすぐキレる。おまけに今はジャージ姿。

  なんだか前に見たドキュメンタリー番組に映っていた『ニート』と呼ばれる大人に似た格好だった。

  「時計見て、もう授業始まって十分経ってる!まだ着替えてすらいないし....」

  ぼくは言われたとおり時計を見た。たしかに三時間目の授業が始まってもう十分も過ぎている。

  「早く着替えて!みんな待ってるんだから」

  ...うん...?着替える...?ああ!

  頭の中で何かの回路が繋がって、まるで電球がぴかっと光ったかのように、先生の言葉の意味を理解した。

  そう、この時間は体育の授業だったのだ。だからみんな外に出ていて、先生もジャージを着ているんだ。漢字練習夢中になり過ぎて予鈴が全く耳に入ってきていなかった。

  ぼくは先生の突き刺さるような視線を肩越しに受け止めながら、体育着に着替えようとする。

  が、しかし。それはできなかった。もう一度振り返る。今度は恐る恐る....。

  「あの、先生...」

  言うのがはばかられる。ただでさえこの人怒ってるのに。ただでさえ今週三回目なのに。

  「なに?まさかとは、言わないよね...」

  「.....ごめんなさい」

  ぼくの謝罪を聞いた先生は、わざとらしく大きなため息を吐いて、両手を顔のそばに運び『お手上げ』ポーズをとった。

  「...もういいわ。とにかく校庭に来なさい。今日も見学ね」

  先生はそのまま廊下を歩いて行ってしまった。ぼくもそのあとを追った。


  ❇︎❇︎❇︎


  「お前今日も体育着忘れてんのな」

  給食の時間、隣の席に座る大家旅人(おおやたびと)くんが話しかけてきた。

  「まあね」

  たぶんバカにされているのだろう。ぼくは素っ気なく答える。

  旅人くんは普段からこんな具合に絡んでくるのだけど、その都度声が大きいので、ぼくはちょっとだけ萎縮してしまう。大きな音はあまり得意じゃないのだ。

  「お前って頭いいのかバカなのかわかんねえよな」

  ご飯を口に含みながら旅人くんは言う。くちゃくちゃとそしゃく音が不快だった。まあこれもいつものことなので気にしないふり。

  「ちょっと大家くん、あんまり驗くんのことをからかわないでよ」

  ぼくの向かいに座っていた小野好子(おのよしこ)ちゃんが鋭い眼差しを旅人くんに向けた。

  好子ちゃんは自分からクラス委員に立候補するほど積極的な性格だ。そして旅人くんと同じくらい声が大きい。

  給食の時間は机を向けあって四人一組の班で食べるのが、この五年二組のルールだ。班は男子と女子それぞれ二人ずつで、ぼくと旅人くん、好子ちゃんとその隣に座る大江和泉ちゃんで構成されているのが、三班。

  「なんでお前に言われなきゃいけねえんだよっ!だいたいなんでおれは呼び捨てで、日野のことだけ名前呼びなんだよ」

  食事中に声を荒げる旅人くん。ああ、口からご飯粒が飛び出ているよ。

  「別にいいじゃん!女子はほとんどそう呼んでいるんだし!」

  「なんか日野だけチヤホヤされすぎだろ。ずりーよ」

  旅人くんはぼくの肩に自分の肩をぶつけてくる。手に持っていた味噌汁のお椀が揺れて、危うくこぼれそうになった。

  「大家くんと驗くんとでは天と地ほどの差があるでしょう」

  好子ちゃんはぼくと旅人くんの交互に箸を向ける。ああ、箸から味噌汁の飛沫がぼくの机に。しかも、好子ちゃんはそのことに気がついていない。

  ぼくは何も言わずに、手にしていたお碗と箸を置いて、ポケットからティッシュを出そうとする。が、なかった。今日は入れてきたつもりなんだけど。

  仕方なく諦めて食事を再開しようとすると、斜め向かい、好子ちゃんの隣に座っていた大江和泉(おおえいずみ)ちゃんがそっと何かを差し出してくれた。

  受け取ってみると、それはまだ封のあいていない新品のポケットティッシュだった。しかも一枚一枚がふわふわしてるお高いやつだ。前に母さんが仕事先の人から貰ってきたことがある。

  「いいの?」

  ぼくが尋ねると、和泉ちゃんはこくんと頷く。その口元は微かだけど笑っているように見えた。

  「ありがと」と言って、ぼくは一枚だけを取り出して和泉ちゃんに返す。

  「ううん、全部あげるよ」

  「でも」

  「わたし、今日はもう一個持ってきてるから」

  すると和泉ちゃんはもうひとつ同じく封のあいていないポケットティッシュを見せてくれた。

  和泉ちゃんは優しい性格だ。お花のお水も毎日やっているし、忘れ物をして困っている人になにかを貸してあげる姿をよく見る。

  ぼくはどうしようか迷ったけど、せっかくなので受け取っておくことにした。他人からのご厚意は無駄にしてはならない、と母さんがよく言っていた。。それになんだかこのあとたくさんティッシュを必要としそうな気がするし。

  ぼくと和泉ちゃんのやり取りを他所に、旅人くんと好子ちゃんの言い合いは苛烈を増していた。

  「おれは馬鹿かもしれねえけど、日野よりは面白いし」

  「別に女子は面白さなんて求めてないんですけど?むしろ驗くんみたいなクールなドジの方がカッコいいし、一周回って面白いから!」

  「な...!お前、日野本人の目の前でよくそんなこと言えるな!」

  うん、悪く言われているわけではないんだろうけど、ぼくもなんだかむず痒い。それに一周ってなんのことだろう。なにが回るんだろう?そして、ぼくはドジだったのか...。

  「別に女子はいつも言ってるし!別に私だけが思っていることじゃないし!」

  「別に別にって、それだって日野の口癖の真似だ...」

  「ふたりとも!少し静かに食べなさい!」

  ぼくたち三班の目の前に位置する教卓に座っていた天海先生が怒号を飛ばす。ぴしゃりと鋭い声が教室に響いて、他のクラスメイトまで黙ってしまった。

  亀のように首をすぼめたふたりは、小声で「お前のせいだ」「そっちのせいでしょ」なんてまだ言い合っていた。

  しゅんとしたふたりを見ていると、なんだかいたたまれなくなって、ぼくまで怒られたような気分になる。

  やがて、『ごちそうさま』の時間が来た。前に立った給食係の号令でごちそうさまをして、食べ終えている人は食器を片して、各々が順に昼休みに突入する。ぞろぞろと下膳に向かう人を横目に、ぼくはまだ食事を続ける。ぼくは食べるのが遅いわけではないけど、特別早いわけでもない。他のみんなは昼休みを長く楽しむために急いで食べているのだ。

  ぼくは外で遊ぶつもりはないし、誰かと何かをする予定もない。さっき宿題も終わらせてしまったので急ぐ理由がなにひとつないのだ。

  だから、今日のメインであるアジフライをゆっくり味わいながらもぐもぐもぐと......っにゃあ!

  突然視界が歪んだ。顔面に走った衝撃とその反動で大きくバランスを崩したぼくは、盛大に椅子から転げ落ちた。それと同時に、手に持っていた箸と食器が床に落ちて、ぱりんと尖った音が耳に刺さった。

  「わ、わりい!」

  一瞬なにが起きているのかわからなかったが、すぐ目の前をなんの悪気もなくころがるサッカーボールを見て、理解した。

  よかった。咄嗟に口の中のものを飲み込んだおかげで、醜いものをお見せせず済んだ。

  「だ、大丈夫か日野!?」

  「うん」

  ぼくはとりあえず起き上がる。ああ、まだ途中だったのに。床に落とされた食器の残骸と一緒に散らかる食べかけだった給食。悲しい。

  どうすることもできないので、掃除ロッカーに箒とちりとりを取りに行こうと顔を上げると、教室にいたクラスメイトの無数の目がぼくに向けられている。そしてそのうちのひとりの女子が叫んだ。

  「きゃあ!」

  「ひ、日野!鼻血!」

  顔に指をさされたぼくは、そう言われて何気なく自分の鼻の下を触ると、べっとりと赤い液体が指を濡らした。

  「わあ」

  思わずそんな声が漏れてしまう。ああどうしよう。ぽたぽたと垂れる血が、床に赤い水玉模様を描いていく。草間彌生に弟子入りできるかな...ってそんなこと考えている場合ではなくて...。

  「おれトイレから紙持ってくる!」

  ひとりの男子が叫びながら走りだした。

  そういえば....。

  その男子の一言で思い出した。ぼくにはさっき和泉ちゃんから貰ったポケットティッシュがあるのだ。

  惜しみなく、大量に袋から摘んで顔を拭く。高級なそれは、たしかに普段使うものとは明らかに違うとわかる肌触りをしていた。ふわふわで柔らかくてすべすべしてて、とにかく気持ちがいい。

  「ちょっ....どうしたの!」

  『ごちそうさま』をしたあと、早々にひとり職員室へと戻っていた天海先生が声を上げた。その時に気がついたけど、廊下からもこちらに注目している生徒がたくさんいて、ぼくはなんだか動物園のパンダになっているようだった。

  先生はそんな騒ぎを聞きつけて引き返してきたらしい。走ってきたのかな、軽く息が乱れている。

  「蘇我くんたちが教室でボール遊びしてて.....」

  女子の誰かが言った。

  「...本当なの?」

  ぼくのそばで酷くバツの悪そうな顔をしていた蘇我(そが)くん(下の名前は覚えていない)は、先生に詰め寄られても何も言えずにいた。そのうち泣き出してしまって、呆れた様子の先生はこの場の掃除を命じ、騒ぎは徐々に沈静化していった。

  掃除をしている間、なぜかぼくも含めて、教室でボール遊びをしていた男子が怒られた。


  「日野...ほんとにごめんな...」

  先生に言われて、食器を割ってしまったことをふたりで給食室に報告しに行く途中、蘇我くんは申し訳なさそうに言った。目が真っ赤だ。

  「いいよ。鼻血だけで済んだし」

  「怒ってないの?」

  「うん」

  「本当に?」

  「うん」

  ぼくはいつもの調子で言う。本当に怒ってないし、別にたいして気にもしていない。事故だから。

  「痛かったし、鼻血出たし、給食全部食べられなかったけど、怒ってないよ」

  「いや、それ本当はめっちゃ怒ってね...?」

  ...しつこいなあ。ぼくは彼の方に首をひねる。目を見てちゃんといえば、自分思っていることは伝わるって、母さんがよく言ってるから。

  「怒ってな....」

  「あはは!」

  ぼくの顔を見た瞬間に、蘇我くんは吹き出した。なんでだろう。ぼく、面白いことでも言ったのかな。というか、まだ言い終えてすらいなかったよ。

  「ははは!...日野って、なんかズレてるよなあ!」

  「え、ズレてたかな」

  ぼくは鼻に詰めたティッシュの位置を調整する。結構しっくりフィットしていたんだけど。

  「いや、そういうことじゃなくて。お前って、頭もいいし顔だってピカイチでカッコいいのに、なんでそうやってちょくちょく天然を発揮するんだろうな」

  ちょっと言われている意味がわからない。たしかにぼくは成績はいい。でもそれは習ったことをただテストに書いてるだけに過ぎない。逆にいえば、習っていないことや、興味のないことはあまり知らない。

  顔も昔からいいと言われてきた。母さんが美人だからかもしれない。でも生まれて十一年、顔に救われたことも得したことも一度たりともない。

  そして、ぼくは断じて天然ではない。生まれた時から母さんに育ててもらっている。これはつまり社会の授業でやった『養殖』に当てはまるのではないだろうか。面倒なので口には出さないけど、心の中で抗議しておく。

  「まあ、そのギャップってやつが、女子のハートをさらに惹きつけるんだろうな」

  蘇我くんは少し悔しそうに言う。蘇我くんがぼくではなく前を向いていたので、ぼくも彼ではなく前に視線を戻した。ぼくは女子のハートを惹きつけているつもりもなかった。

  「ただ、教室に帰る前に鏡見たほうがいいぜ」

  なぜかわからないけど忠告されたので心に留めておくことにしよう。

  そんなこんなで話をしている間にたどり着いた給食室。栄養士の先生に怒られると思って少し怖かったけど、奥から出てきた先生も、ぼくの顔を見た途端、腹を抱えて笑った。目にうっすら涙まで浮かべて。

  事情を話して、袋に入れた割れた食器の残骸を差し出して、ぼくたちは頭を下げた。

  「今度から気をつけてね。それじゃあもう昼休み終わるから行きなさい」

  ぼくたちはいそいそとそろって給食室を出た。

  怒られなかったことが嬉しかった。ここ最近、いろいろな先生に怒られてばっかりだったのだ。昨日は寝坊して遅刻ギリギリに校門をくぐった時に、そばに立っていた教頭先生に「遅い!急げ!夜更かしするな!」と叱られ、一昨日は健康観察カードを保健室に届け忘れ(ぼくは保健係なので、毎朝健康観察を終えた後にそれを保健室に持っていくのだ)、養護の先生に怒られ、天海先生にはほとんど毎日叱られ....。

  「じゃあおれ先に教室行ってるから」

  トイレの前を通りかかった時、蘇我くんはひとりで走って行ってしまった。『廊下は走ってはいけません!』と書かれた張り紙が壁に掲示されていたが、あんまり効果はないみたい。

  ぼくは用を足してから行こうと思い、そのまま曲われ右をして男子トイレに入る。

  手を洗う時、何気なく蘇我くんの『教室に帰る前に鏡見たほうがいいぜ』という言葉を思い出したので、鏡を見ると、鼻の下から顎のあたりまでを赤く汚し、ティッシュをぱんぱんに鼻に詰めた変な顔の人がいた。

  ......ぼくだった。

  うわあ、これのせいで蘇我くんも栄養士の先生も笑っていたのか。自分で見た限りでは別に面白い顔ではないけど。

  ぼくは鼻のティッシュを取ってそばに設置されていたごみ箱に放り投げると、水道で顔を洗った。流しに落ちる水に、若干赤く色がつく。

  ごしごしと、これでもかというくらいに顔をこすった。おかげでぴかぴかつるつるの顔になった。そういえば今朝顔を洗っていなかったのでちょうどいいや。

  たしかに蘇我くんの言葉に従って正解だった。

  忠告ありがとう蘇我くん。


  教室に戻ると、いろんな人に駆け寄られた。主に女子だった。

  「大丈夫!?驗くん」

  「まだ痛い?保健室から氷嚢借りてこようか!?」

  「私のハンカチ濡らして使って?」

  ぼくはそのお気遣いのどれもに手のひらを見せて断る。さすがにこんなにたくさんのご厚意はちょっといらないかな。

  「もう痛くないし鼻血も止まったから大丈夫だよ」

  そう言いながら無理やり押しのけて自分の席に向かう。わざわざそんな気にかけてくれなくてもいいのに。ぼくは次の授業の準備をして、顔を伏せた。

  あと授業まで十分くらいあるから、すこし寝よう。

  「トイレットペーパー持ってきたぜ!そこのトイレなかったから六年の階から持ってきた!まじびびったわー....って、あれ?もう終わってる...?」

  とっくに終わっているよ。

  そのうち天海先生がやってきて、授業が始まった。


  帰りの会で天海先生にまた怒られた。今度はクラス全体に対してだ。

  「もうすぐ林間学校あるからってはしゃぎたい気持ちになるのはわかるよ。だけど、きちんとけじめをつけられないといろんな人に迷惑かけるだけだから」

  心なしかぼくの方を見て言っている気がする。

  「遅刻に忘れ物、現地での問題行動....そんなこと絶対しないでよ?楽しい林間学校にしたいなら先生に怒られないように気をつけて」

  気のせいじゃない、ぼくに向けて言っている。それに気がついた時、なんだか胸がズキっとなってしまう。

  「はい、じゃあ今日の話はおしまい。号令」

  「起立、礼」号令係の掛け声で、ぼくらは揃って頭を下げた。

  「さようなら」

  クラス全員の声が先生に向けられて、そして散会となる。

  帰りの会が終わると、天海先生は足早に職員室に戻っていく。ぼくたちにはあんまり関心がないのかな。

  放課後の教室にはいろんな声が飛び交う。

  「今日遊ぼうぜ」「お前んちでゲームしよ」「ごめん今日塾だー」「うちのお姉ちゃんが新しく買ったマニキュアが———」

  みんな忙しいみたい。ぼくはのんびり帰ってひとりでのんびりと過ごそう。

  「おい日野」

  ランドセルを背負ったぼくが教室を出ようとしたとき、旅人くんが声をかけてきた。

  「お前もたまには遊ぼうぜ。今日みんなでサッカーやるんだけど...」

  ぼくは旅人くんの言葉に被せるように、

  「ごめん、ぼく今日早く帰らなきゃ。また誘って」

  と早口気味に言った。そのまま、旅人くんの答えは待たずに、一方的に会話を終わらせて昇降口へ向かった。

  「あいつ前もそう言って———」去り際にそう聞こえたけど、振り返ることはなかった。


  ああ、長かった。今日もやっと学校が終わった。

  ぼくは、人と同じ空間にいるのがあんまり得意じゃない。どうしてだか疲れてしまうんだ。別にひとりが好きってわけじゃないし、みんなのことが嫌いってわけでもない。だけど、つい、誘われても適当な理由をつけて断ってしまう。何度目だろう。

  帰ってからとくにすることはないけど、それでも家にいると落ち着く。誰かに怒られることもないし、好きな時に寝れるし....。

  だけど、なんだか胸騒ぎがする。なにかが迫っているような....。

  これは虫の知らせってやつかもしれない。でもまあ、気にしないことにした。

  桜並木の道をぼくはひとりで歩く。一緒に帰る人がいないからというわけじゃなくて、ここを通学路に使う人は少ないからだ。おまけに今日は五年二組が一番に帰りの会を終えたらしく、まだ他のクラスが下校する前だったという理由もある。

  九月も半ばだというのに、まだまだ暑い日が続いている。

  お日様が高い位置にいるのに、セミの鳴き声以外聴こえないせいで、どこか不気味な雰囲気を感じる。

  ぼくは別におばけとかそういう類いのものは信じていない。だから断じて怖くもない....。

  ちらりと後ろを振り返る。なんだか見られている気が....。

  いやいやいや、気のせいだよ。

  足取りが早くなる。大丈夫、おばけなんてないさ、おばけなんて嘘さ....!

  ぼくの足音に重なるように、背後からの足音をぼくは聴き逃さなかった。

  お、おばけは足があるの...!?

  感情の高ぶりが限界に達したぼくは、思い切って走った。こう見えて足には自信がある。クラスで一番早いと自慢できるレベルで。

  腕を激しく振って走る。助走もなしに全速力を出せた気がする。

  そしてぼくが走り出すと、後方の足音も大きくなって、明らかにその存在を証明した。

  振り返らない。振り返ったらおしまいだ。

  「...にゃあ!」

  痛っ!ぼくは転んだ。咄嗟に手を突いて顔を庇ったけど、そのせいで手のひらに小石が刺さって血が滲んでいた。今日二回目の出血だ。

  思わず、血が浮き出てくる瞬間を眺めていると、後ろから迫る足音が止まった。どうやらぼくは追いつかれてしまったらしい。

  白い着物の髪の長い女の人にめちゃくちゃにされて死ぬのかな。さようなら母さ————

  「あ、あの、大丈夫?」

  か細くて小さな声。だけど聞き覚えがある。

  「...へ?」

  予想外の声に振り向くと、そこには給食の時にティッシュをくれた和泉ちゃんがいた。

  「ご、ごめんね。わたし、話しかけようと思ったんだけど...」

  ぼくは立ち上がって、和泉ちゃんに向き直る。手のひらを見せてみた。

  「大丈夫だよ。出血は慣れてるから」

  「ほ、ほんとごめんなさい!」

  冗談で言ってみたつもりなんだけど...。和泉ちゃんは申し訳なさそうに手を胸の前で合わせた。

  「そこの公園で洗っていくよ」

  並木道の脇には公園に続く路地がある。ぼくはそこに顔を向けて言う。

  「じゃあね」

  そう言って歩き出したぼくの隣に、和泉ちゃんは並んで付いてきた。

  「わたしのせいだから、一緒に行くよ」

  「別に大丈夫だよ。手はひとりで洗えるから」

  なぜ付いてくるんだろう?和泉ちゃんの家はこっちなのだろうか。今まで見かけたことはないけど。ああ、そういえばなにか用事があったからぼくに話しかけようとしたのかな。

  「どうしてぼくのことを追いかけて来たの?」

  「それは......」

  和泉ちゃんは言葉を詰まらせた。どうしたんだろう。

  「あのさ、日野くんって、鈍いよね」

  やっと喋った和泉ちゃんは、うつむいていた。髪が顔にかかって表情は見えない。

  「結構敏感だよ。かなり痛いし」

  「いや、手のことじゃなくて....」

  そこで和泉ちゃんはまた口ごもる。ぼくは何も言わずに和泉ちゃんが喋り出すのを待った。なんだか変な気分だ。ぼくはなにかダメなことを言ってしまったのかな。

  「わたし、日野くんと帰りたいんだよ」

  「そうなの?」

  驚いた。ほんとに通学路が同じだったみたいだ。なんで今まで気がつかなかったんだろう。

  「言ってくれればよかったのに」

  「言ったらOKしてくれるの?」

  「同じ通学路なのに一緒に帰るのを断ったらなんだか複雑だよ。どっちかが遅れるか急いで帰らなきゃいけなくなっちゃう」

  「そういうことじゃなくて....」

  はあ、と大きなため息を吐いた和泉ちゃんは、顔を上げ、キリッとした眼差しでぼくを見据える。普段教室で見かける姿よりも大人っぽく見えた。

  「やっぱり鈍いよ」

  「だからそんなことないって」

  ぼくはもう一度手のひらをを掲げてみせる。ぼくにだって痛覚は通っているし、血管に傷がつけば出血をする。反射的に涙が出ることも....。それは誰だって当たり前だよね。

  「...もういいよ。また明日ね」

  和泉ちゃんは呆れたような声でそう言うと、早足で去ってしまった。。だけど理由はわからない。まあ、考えてもどうしようもないので、ぼくはさっさと公園で手を洗って家に帰った。

  ちなみに、めちゃくちゃ痛かった。



  「ただいま」

  玄関の扉を開けると三和土に母さんの靴があった。今日は仕事はお休みらしい。

  なんだかそんな気はしていた。確信なんてものはない。ただそんな予感がしていただけだ。

  そして、母さんの靴の隣に知らない靴があった。母さんのものよりも大きなサイズのスニーカー。男の人のものかな。

  「あら、おかえりなさい」

  ぼくに帰宅に気がついて奥の居間から母さんが顔をだす。いつもとおんなじの和やかな表情をしていた。

  「うん、ただいま。彼氏?」

  「え?」

  素っ頓狂な顔をした母さん。これはなかなかレアだ。

  「...わかるの?」

  なにかを怪しむかのような目つきを差し向けてくる。

  「なんとなく適当に言っただけだよ」

  ぼくは自分の部屋に向かい荷物を置いて部屋着に着替える。これでやっといつでも寝れる。

  でも、帰ってきたらまずは手洗いうがいだ。

  「驗 、ちょっとこっち来て」

  洗面所に行こうと自分に部屋を出ると、居間の方から母さんが再び声をかけてきた。

  手洗いうがい、ついでにトイレも済ませて、ぼくは言われたとおり、母さんの元へ向かう。さっき転んだ時に怪我した手がまだ痛い。

  居間の扉を開けると、卓を挟んで母さんと知らない男の人が向かい合って座っていた。

  「こっち...ここ座って」

  手招きに促され、ぼくは母さんの隣に座る。

  目の前の男の人はぼくと向き合うと、緊張した様子で、だけど優しそうな笑顔で頭を下げてきた。反射的にぼくも同じことをする。

  なんだろう。この人....。

  詳しくは思い出せないけど、どこかで見たことある気がする。

  「初めまして、驗...くんだよね。俺は梅宮空(うめみやそら)と言います」

  梅宮さん....その名前に覚えはない。それなのに、記憶の何かが引っかかる。

  「驗、よく聞いてね。お母さん、梅宮さんと結婚したいって思ってるの」

  母さんはぼくの肩に手を置く。彼氏を通り越して旦那さんになるらしい。

  「うん」

  「驗、嫌じゃない?急なことで驚いたりしてるでしょう?」

  心配そうに顔を覗き込んでくる母さん。梅宮さんも、少し呆気にとられたような表情をしている。ぼく、なにか変なこと言ったかな。

  「梅宮さん、いい人な気がする。だから別に嫌じゃないよ」

  梅宮さんが優しいというのは、顔を見れば自然とわかる。

  ぼくがそう言うと、母さんは笑った。ふふふ、と小さな声で。

  「だそうです、梅宮さん。やっぱり私の子供だね」

  ぼくと梅宮さんを交互に見て、母さんは言う。梅宮さんも、なぜか気まずそうな様子だったけど、どことなく優しさが滲み出た笑顔だった。

  ぼくは嬉しかった。母さんが笑ってくれて。


  夕飯は外へ食べに行くことになった。また着替えるのがめんどくさかったぼくは、家でいいと言ったんだけど、せっかくなのでと母さんが。

  普段から一定して機嫌が良い母さんだけど、今日は小躍りでもするんじゃないかな?というくらいテンションが高かった。

  ぼくたちは母さんの車に乗ってちょっと遠くのお寿司屋さんに行くことになった。

  後部座席に座った梅宮さんは、頭を抱えていた。

  「あ、あの陽子さん、俺、そんなに手持ちが....」

  震えたその声は、弱々しい、まるで産まれたての羊の鳴き声みたいだった。ぼくは前に見た酪農のドキュメンタリーを思い出す。

  「あ、気にしないでくださいね。払いは私が持つので」

  運転しながら、母さんはちらっとバックミラーで梅宮さんに目を合わせる。ウインクまでして、ここまで気分が最高潮の母さんはたぶん初めて見た。

  「いえ、そう言うわけには!こ、こういうのは男が出すものですので...」

  「なら財布の紐は妻が握るものでしょう?そして財産は夫婦共有です」

  母さんの勝ち。

  言い負かされた梅宮さんは、しばらく黙った後「...じゃあお言葉に甘えさせて頂きます」と、運転中で前を見ている母さんに深々と頭を下げた。それっきり車中で会話はなかった。

  お店に入ると、「いらっしゃいませ!」と勢いのある声が飛んできて、ぼくは思わずびくっとしてしまった。静かな店内に似つかわしくない声量だった。

  まだ夕飯には早い時間なので、店内に他のお客さんの姿はない。

  案内された席には、さっきの居間と同じような図で座る。ぼくと母さん、卓を挟んで梅宮さんだ。

  梅宮さんは、きょろきょろとお店を見渡したり、足をもじもじしていて、見るからに落ち着かない様子だった。こういうところは慣れていないらしい。

  ぼくはこのお店に来るのは初めてではない。前にも母さんと来たことがある。ぼくは別にお寿司に“特別感”というものを感じないけど、クラスのみんなは違うらしい。

  前に旅人くんに高らかと報告されたことがある。

  『いいだろ日野、おれ昨日回転寿司行ったんだぜ!』

  別の人に話していたのを聞いていたので、とくになんとも思わない。みんなは「すげー」とか「まじか」と言って大きく反応していた。

  『そうなんだ』

  ぼくは平然と答える。

  『羨ましいだろー!』

  『回転寿司って美味しいの?』

  あいにくぼくは回転寿司には行ったことがないので、旅人くんがなにをそんなに嬉しそうに話しているのかわからない。お寿司が回って流れてくることがいいのか、それとも美味しかったから言いふらしたいのか。はたまた外食をしたことが自慢になるのか。いずれにしてもあんまり羨ましくは思わない。

  『そりゃあお前、寿司は美味いに決まってんだろ!』

  『そうだよね。ぼくは回転寿司には行ったことないけど、前に母さんといった銀座のお寿司は回ってなかったけど美味しかったよ』

  ぼくがそう言うと、旅人くんはなんだか元気をなくしてそれっきりその話をしている姿は見かけなかった。ぼくはなにか言ってはいけないことを言ってしまったのかな。

  そんなエピソードを思い出しつつ、ぼくはおもむろにおしぼりで手を拭く。

  「寿司なんて何年振りだろ....」

  ぼそっと梅宮さんが呟いた。どうやら梅宮さんにとっても寿司は特別なものみたいだ。まあ、ぼくは美味しいものならなんでも好きだけど。

  「ああすいません、“特”を三人前お願いします」

  脇の通路を通りかかった店員さんに、母さんは注文をする。「トクサンですね。かしこまりました」愛想よく頭を下げた店員さんは通路をすたすたと歩いて行く。その後ろ姿を目で追いながら、

  「と、“特”って...本当にいいんですか?高くついちゃうんじゃ...」

  と、小声で言う梅宮さん。まるで怯えた犬のような眼だった。

  ぼくは少しだけ首を傾げる。“特”はなにかダメなのかな?

  「なに言っているんですか。せっかくこういう風情あるお店に来たんです、妥協してはいけませんよ」

  「いや、でもお会計が....」

  「心配しないでください。私、稼いでいるので」

  すると母さんは、いつも使っているハンドバッグから、真っ白のお財布を取り出し、なんの躊躇いもなくその中身を梅宮さんに見せる。

  「うっわ....」

  口元に手を当てて声を失った梅宮さんは、固まった。まるでツチノコを見つけたおじさんのような反応だ。ぼくはツチノコを見つけたおじさんを見たことがないけど。

  まあ要するにありえないものを見た人の顔だった。

  「ぼくにも見せて」

  興味本位で言ってみた。だけど母さんは「だーめ」と首を振った。なんでぼくだけ...ひどい。

  少しだけ嫌な気分になったのでしばらく口を聞いてあげないことにしようと決めた。

  「あら、驗が臍を曲げるなんて珍しい」

  「別に曲げてないし」

  あ、喋っちゃった。ぼくはもう一度おしぼりで手を拭いた。

  「そういえば、驗くんはいくつ?」

  梅宮さんは空気を読まず尋ねてくる。ぼくは今ふてくされているんだけど....。

  無視するわけにもいかず、仕方がないので答える。

  「十一歳」

  「ああ、十一歳かあ、じゃあ小四かな?」

  ほんとは知ってるくせに。なぜかぼくはそう確信する。

  「小五」

  「それは失礼しました」

  「梅宮さんは?」

  ぼくだけ質問され続けるのはフェアじゃない気がしたので、今度はぼくが訊き返す。

  「俺は...もう二十一歳だよ。驗くんからしたらおじさんだね」

  「じゃあ七つ年上の母さんはおばあちゃんだね」

  ぼくは意趣返しのごとく母さんを引き合いに出す。.....自分で言っておいて母さんに目を向けられない。

  「あ!いや!決してそういう意味ではありませんからね!?」

  母さんに対して手を振って必死に否定する梅宮さん。

  「ふふふ、わかっていますよ。それより、ふたりともなんだか堅苦しいですね」

  どういうこと?

  意味のわかっていないぼくに、母さんは意地の悪い笑顔を向けてくる。

  「せっかく家族になるんだしもっと馴れ馴れしく呼び合いましょう?」

  「....と言いますと...?」

  梅宮さんが訊き返す。

  「私は梅宮さんを“空くん”と呼びます。七歳も年下ですからね。それで、驗は梅み...空くんのことを“お父さん”て呼ぶの」

  ...なにそれ。なんでぼくがそんなこと。まだ会って間もないのに。

  「まだ会って間もないけど、私たちが結婚したらお親子になるのよ?」

  心を読まれた。別にいつものことなので驚くことはないけど、あまりいい気分ではない。

  母さんはよくぼくの考えていることがわかる。そればかりかときどきその日の出来事を言い当てたりする。大人ってすごい。

  「あはは...出会って間もないし、無理に言わせたらかわいそうですよ。驗くんの好きに呼ばせてあげてください」

  梅宮さんは頭に手を当てながら笑う。本当はお父さんって呼んでもらいたいくせに。

  「じゃあ空くん」

  ぼくは母さんと同じ呼び方を提案する。

  「こら。お父さんに失礼でしょう」

  「あ、いいんですよ!歳もそこまで離れていませんし、俺もお父さんって感じじゃないし」

  「でも...」

  母さん申し訳なさそうな顔をする。別にいいじゃん。あっちがそれでいいって言うんだし。

  「その代わり、俺も“驗”って呼んでいいかな?」

  会ったばかりの人に名前を呼び捨てにされるのはなんだか慣れない。だけどまあいいか。どうせぼくのお父さんになるんだし。

  「うん」

  「じゃあ、よろしくな驗」

  梅宮さん、じゃなくて空くんは手を差し出して握手を求めてきた。ぼくも応じる。

  暖かくて大きくて、少し硬い手だった。

  それを見ていた母さんは、穏やかな笑顔だった。


  「じゃあ俺はここで。今日はご馳走さまでした」

  お寿司を食べたあと、ぼくの家の近くのコンビニで空くんは車を降りた。一緒に住み始めるのはもう少し先になるらしい。

  なんとなく『ばいばい』と手を振ってあげたら、空くんは目を輝かせて嬉しそうに激しく手を振った。まるで犬の尻尾みたいだ。

  それからの帰りの車で「驗は早く一緒に住みたい?」なんて母さんに訊かれたけど、ぼくはどっちでもいい。だけど、本当に三人で暮らせるのかな。

  「お家、狭くなるよ?」

  ぼくは率直な疑問をぶつける。今のアパートで三人暮らしは、物理的に少し難しいと思う。

  「じゃあ引っ越そうか」

  ...え?そんなに軽く?

  「引っ越しって、ぼく転校とかするの?」

  「ううん。実はね近くにいいお家があるの」

  「今からちょっと見に行こっか」とお言いながらハンドルを切る母さんは、友達に宝物を見せっこしてはしゃぐクラスの女子みたいに、目を輝かせていた。

  数分間、車を走らせた母さんは狭い路地にある駐車場に停車した。

  車から降りたぼくは母さんに連れられて後ろを歩く。

  片側は社会の教科書で見たことあるような土塀が、もう片側は一般的なブロック塀が続くこの路地は、まるで迷路みたいな道だった。ぼくの背が低いせいか、土塀の向こうは見えない。ブロック塀の方には普通に民家があって、明かりが灯っている。人が生活していることの証明だ。

  「ここだよ。この塀の中」

  なにげなく気になって土塀の方を見ていると、母さんは何事もなく言う。え、ここなの?もう駐車場から歩き始めて、三十メートルくらい経つよ?大きすぎじゃない?

  「広い方が楽しいからいいじゃん。みんなでかくれんぼができるね」

  「そういう問題なのかな」

  やがて土塀が途切れたところに、木で出来た門があった。

  「普段はこっちの小さい方から入るの。大きい門は車用」

  母さんは門の傍の小さい扉に近づいて、ポケットからキーケースを取り出した。そしてそこから一本を慣れた手つきで選び、鍵を開けた。

  「勝手に入っていいの?」

  「まあね」

  ポケットにキーケースをしまった母さんは、ぼくに「おいで」と手招きした。

  先に扉をくぐった母さんの後を追うと、足元には石畳が敷かれ、屋根には瓦が葺かれた大きな建物に続いていた。暗くてよくは見えないけど、立派なお屋敷だ

  旅番組で見る旅館みたいだな。ぼくは直感でそう思った。というか、ぼくの頭の中でたとえられるものがそれしかなかった。

  「実は、驗は昔ここに住んでたんだよ」

  「そうなの?」

  それは驚きだ。物心ついた時にはすでに今のアパートに住んでいたので、それ以前の記憶はない。気にしたこともなかったけど。

  ぼくは辺りを見回す。夜だからというのもあるのだろうが、門より内側のここは、塀に囲まれているせいで隔離された世界なような独特な静けさが漂っている。少し寂しい場所だと感じた。

  だけどどうしてだろう?母さんに言われたせいか、なんだか懐かしさも込み上げてくる。

  ぼくは立ったまま、しばらくその家を眺め続けた。

  「さあ、そろそろ帰ろっか。明日も学校だし」

  「うん」

  母さんに促されてぼくたちはその場を後にした。

  「いつ引っ越すの?」

  帰り道、ぼくは母さんに訊いてみる。あの家のことが頭から離れれないのだ。

  「荷物を運べばいつでも住めるよ。電気とか水道なんかのインフラも整ってるし、家財道具もそのまま使えるから」

  「じゃあ明日は?」

  「私は大丈夫だけど、驗は学校でしょう?」

  「帰ってきてから」

  少し考えた後、母さんは、

  「じゃあいっぺんにやるのは大変だから、少しずつ準備しよっか」

  と言い、その直後にウインクをしてきた。ヘタクソだった。だけどそのヘタクソ具合が面白かった。たぶん空くんもおんなじふうに思っていたに違いない。



  お風呂に入って歯を磨いて自分の部屋に入る。

  ベッドと勉強机とタンスしかない部屋。ぼくはゲームやおもちゃには興味ないし、趣味といえるもの自体なかった。まあ強いて言えば寝ることか。

  もうやることがなくなったぼくは、ベッドに横になった。髪がまだ生乾きだったけど、寝て起きれば乾いている。前にテレビで見た“時短”ってやつだ。

  枕に頭を預け、タオルケット首元まで引っ張ってくる。

  あの家に引っ越したら、梅宮さん...じゃなくて空くんも一緒に住むことになるのか。

  なんでだろう。嫌じゃないんだけど、嬉しいとも思えない。別にいきなり父親ができたからって、ぼくは今まで母さんとふたりっきりで生活してきたんだ、何も変わらない気がする。

  ぼくは寝返りを打った。

  アパートの前の通りをバイクが走る。寝る時間になるといつもたくさんのバイクが音を立てて通過していくのだ。うるさくてなかなか寝つけない。

  新しい家に引っ越せば、それも聴かずに済むのかな。それだったらいいな。朝寝坊して先生に怒られずにも済むし。

  あ!

  「そういえば」と思い出してぼくは勉強机に近づく。そして机の脇にかかっていた習字道具を、その机の上に置いた。明日は書道の授業がある。忘れないように今のうちに目につくところに置いておこうと思ったのだ。もう忘れ物はこりごりだからね。

  これで本当に眠れる。思い残すことはない。


  朝、目が覚めると七時四十分だった。顔から血がひいていくのがわかる。心臓の鼓動が加速する。

  ぼくは慌ててベッドから飛び降り、部屋を出た。

  「おはよう驗。ご飯できてるよ」

  居間でテレビを観ていた母さんは、ぼくの立たされている状況に気がつかないらしい。

  「起こしてくれなかったの!?」

  ぼくはご飯と卵焼きを口にかき込み、味噌汁で胃に流す。呑気に味わっている暇はない。

  テレビから「午後はゲリラ豪雨に注意してください」とお天気お姉さんの声がした。ゲリラ豪雨どころかか、このままでは先生の雷に遭遇しかねない。

  「起こしたよ?しるしー時間よーって」

  最後の一口を胃に収めたぼくは、横目で母さんを睨みつける。悪びれるそぶりもない言い方に腹が立つ。

  「ぼくが起きていなかったらそれは声をかけただけででしょっ」

  食器を重ねて流しに持っていく。次は歯磨きだ。

  「少し落ち着きなよ。どうせ怒られるんだし」

  「怒られないために急ぐんでしょ。まだ間に合うもん」

  しゅこしゅこと小気味のいい音が、ぼくの焦る心を少しだけ落ち着かせてくれる。

  八時十五分までに教室に入れば先生の雷が落ちることはない。大丈夫、あとは着替えて家を出て走れば間に合う。

  自分の部屋に戻ったぼくは、あらかじめプログラムされた機械のように、迷いなく着替える。

  母さんが選んで買ってくる洋服は、どんな組み合わせでもそれなりに見栄えよくなる。別にオシャレなんて興味ないけど、ダサいのよりはましだと思う。

  よし。あとは全力で走れば....。

  ぼくは椅子の背もたれに引っ掛けてあるランドセルを背負って家を飛び出した。

  学校までの道のりを全速力で駆け抜けて行く。こう見えて五十メートルを七秒走るぼくは、クラスで一番の俊足の持ち主だ。

  いくつかの路地を曲がり、『佐藤』の表札がかかった家を三件も通り過ぎ、塀の上であくびをする野良猫に出会っても、ぼくの走るスピードは変わらない。むしろ加速してくような感覚さえある。

  それなのにどうしてだろう。このままでいけば遅刻することはないはずなのに、なぜか胸騒ぎがする。走っているせいで動悸が激しくなっているからかな。

  きっとそうだ。そう言い聞かせてぼくは疾走した。


  教室にたどり着いた時、先生はまだ来ていなかった。よし、ぼくは勝ったのだ。これで今日は安静に過ごせる。

  「驗くん今日は間に合ったんだねー」

  自分の席に近づくと好子ちゃんが声をかけてくる。給食の時間以外の、平常時はぼくと隣の席になる。

  班のみんな「おはよ」と言うと、好子ちゃんと旅人くんと和泉ちゃんの三人は、順に返してくれた。ついでに班員以外の周辺のクラスメイトも、手を挙げてそれに応えてくれた。

  ぼくは息を切らしながらランドセルを机に横のフックに引っかけ、席に着く。ランドセルは本当は後ろのロッカーに入れるのがルールだけど、ぼくの机は窓側の一番前、教壇に立つ先生からはぎりぎり死角になってぼくのズルは見えないのだ。まだ『朝の会』まで少し時間があるから、急げば後ろのロッカーに片しにいけるけど、今はとにかく休みたかった。

  「めっちゃ息切れてんな、日野。また寝坊か?」

  給食の時とは別に、普段はぼくの後ろに座る旅人くんが言う。

  ぼくは、息を整えながら旅人くんに顔を向ける。

  「まあね」

  「でもよ日野、遅刻は免れてもお前、習字道具どうした?」

  え?

  ぼくは言葉を失う。一瞬思考が停止する。シュウジドウグ......習字道具....。

  頭の中で漢字変換された瞬間に、無意識に「あ」と言う声が漏れてしまった。

  「忘れた」

  「またかよ!お前ほんとドジだよな」

  「ちょっと大家くん!あんまり言わないであげてよ!大家くんだってこの前理科の教科書忘れてたでしょ!」

  なぜか好子ちゃんがぼくことを庇ってくれたけど、ぼくはそのどちらも無視して机に突っ伏す。

  昨日、机の上に置いておいたはずなのに。ああ、また怒られる。

  がらがらがらと扉が開く音がしてそこに目を向けると、重たそうな教材を抱えた天海先生が入ってきた。どことなく不機嫌な顔をしているように見えた。


  「どうして君はいつもいつも忘れるの?」

  授業開始の予鈴がなる直前に先生の元へ行ったぼくは、案の定お叱りを受けた。

  「今週は体操着を三回も忘れて、習字道具にいたっては先週も忘れたよね?」

  腰に手を当てて怒る先生は、声はお大きくないけどなんだか迫力があった。

  「昨日だってあれほど言ったのに、なんにも反省していないの?それで本当に林間に行くつもりなの?」

  「...ごめんなさい」

  「わざとやってるの?」

  そんなわけないよ。

  「.....ごめんなさい」

 目を合わせられず、下を向いたままのぼくは、ただ謝った。

  「もういいわ、今日お家の方に連絡させてもらうからね」

  それでぼくは自分の席に返された。前にも母さんに連絡されたけど、別にうちの母さんはそんなことじゃ怒らない。というかまず怒ったところを見たことがない。

  椅子に座る時に旅人くんと目が合った。

  「今日はいつもよりねちっこかったな」

  くすくすと笑いながら、声を潜めてぼくに言ってくる。たしかに今日は、勢いよく落ちる雷というよりは、ごろごろと音を立てる

 て焦りと不安を掻き立てる積乱雲みたいだった。

  ぼくはその時間をひたすら漢字の書き取り練習に使った。同じ字を何度も書き続けた。復習は大事だから、うん...。


  ああ、長かった。今日は特に長かった。

  その後の授業をどんよりとした気分で過ごしたぼくは、すごく疲れていた。なんだか元気が湧かない。早く帰って寝よう。

  とぼとぼと桜並木の道を歩いていると、アスファルトの色が少しずつ、黒く変わっていった。雨が降りだしたのだ。

  傘を持っていないぼくはただ無抵抗に濡れるしかなかった。.....散々だなあ。

  もうどうでもよくなって、濡れることも構わず歩いていると、突然ぼくの頭上をなにかが覆った。それは赤い傘だった。

  振り返ると、和泉ちゃんがいた。

  「あ、和泉ちゃん」

  和泉ちゃんは心配そうな顔でぼくを見つめてくる。

  「濡れちゃうよ?」

  「いいよ。今日はもうどしゃ降りの気分だったし」

  ぼくは歩きだした。その隣を昨日みたいに和泉ちゃんが並んだ。違うのは、ぼくもを傘に入れるために距離が近いことだった。時々肩と肩がぶつかってしまう。

  「恥ずかしくないの?」

  和泉ちゃんが訊いてくる。まもなく雨足が強まって、ざーざーという音が激しさを増す。いつのまにかセミの声も聴こえなくなっていた。

  「なにが」

  「だから....女子とあいあい傘して帰るの」

  和泉ちゃんが伏し目がちに言う。

  和泉ちゃんの方を見ると、ぼくを傘に収めようとするせいで、傘の持ち主である和泉ちゃんの肩が濡れてしまっていた。

  「かして」

  ぼくは和泉ちゃんの手を傘から解いて代わりに持つと、それを和泉ちゃんの方に寄せた。

  「ちょっ...そしたら日野くんが...」

  「ぼくは和泉ちゃんに濡れて欲しくないから」

  みるみる顔を赤く染めた和泉ちゃんは黙ってしまった。大丈夫かな?ぼくは和泉ちゃんのほっぺたに触れる。熱い。

  「きゃっ!」

  小さく悲鳴をあげた和泉ちゃんは、仰け反って傘の外に出てしまった。ぼくはすかさず和泉ちゃんに近づく。

  「風邪かなって、顔赤いし、熱いし、」

  「だからって...!」

  なんでだろう。怒っているみたいだ。ぼくはまたダメなことをしちゃったのかな。

  ふと後ろから声が聞こえて振り返ると、ぼくたち以外にも、数人の小学生が下校していた。みんな傘をさしている。

  「ぼくは恥ずかしくないよ」

  さっきの和泉ちゃんの質問の答えだ。

  「濡れている人に傘を差し出すって、勇気が必要なすごいことだと思う。それに甘えることは恥ずかしくないし、断っちゃったらその人の勇気を踏みにじるようで悪いから」

  道路にはこのたった数分の雨で水たまりができていた。なおも降り続ける雫が、その水面に波紋を描いて揺らしている。

  ぼくは傘を持っている手とは逆の手で、和泉ちゃんの腕を掴んで、ぼくの方に寄せる。そうしないと、このままでは和泉ちゃんに水たまりの上を歩かせてしまうことになってしまうからだ。

  ぼくがその腕に触れた時、またも小さな悲鳴をあげた和泉ちゃんは非力な小動物に見えた。

  なんでだろうか、ぼくも顔が熱くなってきた気がする。もしかしたら風邪がうつったのかな。

  「逆に和泉ちゃんはいいの?ぼくなんかとあいあい傘して」

  あいかわらず頰を染めている和泉ちゃんはゆっくり頷いた。ぎこちない動きだった。錆びついた機械のような.....油が足りていないのかな。

  「......日野くんはさ...す、好きな人いないの?」

  うつむきながら、和泉ちゃんは尋ねてくる。

  急にそんなこと言われても...。

  「わかんない」

  「いないってこと?」

  「嫌いな人はいないよ」

  ぼくに関わったことある人を好きか嫌いか分けたら、みんな好きだ。別に嫌いになるほど嫌なことをされたことがない。

  ぼくたちの横を黄色い帽子を被った子が、傘を振り回して走って行く。

  「クラスの女子は、みんな日野くんのことす....」

  「雨止んだね」

  ぼくは傘を持ち上げて空を仰ぐ。雑巾みたいな灰色の雲が通り過ぎた後の空は、小さな雲がまだいくつか残っているけど、それでも清々しい青空だった。心なしか、お日様もその輝きを増した気がする。水で濡れたアスファルトに反射した光が眩しい。

  「傘、ありがと」

  ぼくは和泉ちゃんの赤い傘を畳んで返す。

  「それで、クラスのみんながどうしたの?」

  話を遮ってしまっていたので、ぼくは訊き返す。

  「ううん。なんでもない」

  和泉ちゃんも顔を上げて、空を見上げた。

  雨が止んで、空が晴れて、はぐれて取り残された雲を見つめる和泉ちゃんは、小さく笑った。

  僕も笑った。

  「ぼく、和泉ちゃんのこと好きだよ」

  「え?」

  「ぼくは笑ってる人が好き。人間は笑ってる顔が一番きれいで素敵だと思う」

  母さんも、昨日会った空くんも、クラスのみんなも、通りすがる見知らぬ人も。笑っている人はみんな好きだ。

  .それなのにどうしたんだろう。やっと元どおりの顔色に戻っていたのに和泉ちゃんはまたしても顔を赤くしている。

  やっぱり風邪かな。ぼくは再びその真っ赤なほっぺたに手を伸ばす。けれど。

  「ご、ごめんなさい!わたし今日ピアノだから!」

  和泉ちゃんは、そう言い終える前に走って行ってしまった。

  習い事があったのなら、最初からぼくと話さずに帰っていればよかったのに。

  ぼくも歩き出す。

  そういえば、今日は新しい家に荷物を運ぶんだった。

  空に浮かぶあのちぎれ雲のように、ひとり残されたぼくだけど、いつのまにかこの心は、空を泳ぐトビウオみたいに軽やかだった。


  ❇︎❇︎❇︎


  「大丈夫?本当に忘れ物ない?」

  まだ日が登り始めてまもない時間、母さんの心配そうね瞳がぼくを捉えている。

  「大丈夫」

  だんだんと輝きを増しはじめるお日様の光が、部屋の中を明るく照らしていく。まるで急かすように鳥が鳴く。

  「もう一回確認した方がいいんじゃない?」

  しつこいなあ。さっき母さんも一緒にチェックしたのに。

  「時間ないから、行く」

  ぼくはぱんぱんに膨れたリュックサックを背負って、広くて慣れない玄関で、三日前に買ったスニーカーを履く。母さんはまだ何か言いたげだったけど、「気をつけてね」と言って手を振ってくれた。なんだか胸がどきどきするがなんてことはない、目指すはいつも通り学校だ。

  「いってらっしゃい」

  引戸を開けたところで、廊下の奥から声がかかる。空くんだ。

  「いってきます」

  ぼくは素直にそう返して、家から出た。

  空くんと始めて会ったあの日から、もう一週間が経っていた。ぼくと母さんは徐々に荷物を運んで、この広いお屋敷には一昨日から寝れるようになったけど、まだ前のアパートには物が残されているので、完璧に引っ越せたわけではない。

  空くんも、今自分が住んでいるお家からちょこちょこと物を移動させてはいるが、大学で使うものなんかもたくさん残っているらしく、なかなか引っ越しに手こずっていた。。まあ空くんにこのことを伝えたのは一昨日だから仕方ない。それに、空くんは車も自転車も持っていないから、なかなか手間がかかるのだろう。

  だけど、なるべく顔を合わせたいからと、忙しい中毎日のように来てくれるし、昨日は「しばらく会えないから」なんて言って、泊まっていった。

  ぼくは石畳の上をコツコツと音を立てて歩く。通用門を開けて外に出れば、まだまだ見慣れることのない狭い路地が広がる。

  最初は不安だった。今まで住んでたアパートとは違う通学路を使うことが、不思議な寂しさを感じさせた。

  だけど、学校から見て二つの家は方向は同じなので、しばらく歩けばいつもの通り見知った道に繋がる。そうすれば、入学から今までの五年間、ほとんど毎日使い続けた通学路に戻るのだ。

  日が出たばかりのこの時間は夜の気配を残している。空の深い青は西の方に追いやられ、代わりに東の空からオレンジの朝日と、水色の空が侵食してきていた。

  街も明るくなってきているけど、それでも街灯はまだ仕事をしている。

  土塀の傍に白い猫がいたので立ち止まって「おはよ」と挨拶をした。猫は何も言わずにじっとぼくを見つめてくる。ぼくも真っ直ぐに視線を重ねる。やがて猫がてくてくと歩いて行ってしまったので、ぼくも登校を再開する。

  学校に続く桜の並木道に入る頃には、街灯も明かりを消し、世界はすっかり朝一色に染まっていた。

  「おはよう、日野くん」

  急な後ろからの声に一瞬心臓が飛び跳ねたように身体が震えたけど、振り返れば和泉ちゃんがいて、ほっと一息。

  「おはよ、和泉ちゃん」

  ぼくは冷静に、何事もなかったかのように挨拶を交わす。

  「...この前は急に帰っちゃってごめんね」

  「べつにいいよ」

  あのゲリラ豪雨の日以来、ぼくたちは会話という会話をしていなかった。わざと距離を取っていたわけじゃない。話すタイミングがなかっただけだ。

  「今日、よろしくね」

  「ぼくもよろしく」

  ぼくたちは揃って歩き出す。朝のひんやりした風がぼくたちの髪を揺らす。ジョギングをしていたおじさんに「早いねえ」と声をかけてもらった。

  今日は、二泊三日の林間学校だ。場所は栃木県の那須高原。バーベキューをしたりいろんな動物と戯れたりハイキングをしたり....なぜだろう、想像しただけで足取りが軽くなっていく。

  「ところで、日野くん目の下にくまできてるよ?」

  「へ?」ぼくは自分の指で顔に触れる。目の下を触ってみても、別に異常はなさそうだった。

  「昨日何時に寝たの?」

  「....寝てない」

  ぼくは学校行事の前の日は眠れないタイプなのだ。頭では“寝たい”と思って布団に入るのだけど、夜が更けるにつれて心臓の活動が活発になり、思考が鮮明になって、気がつけば朝、なんて状況が多々ある。ぼくはそれを和泉ちゃんに説明すると、心底おかしそうに笑われた。

  「日野くんって、意外と子供っぽいよね」

  「ぼくはまだ子どもだ....」

  「驗」

  どこからか遠くの方でぼくの名前が呼ばれた。

  ぼくは耳がいいので小さいその声を聞き逃さなかった。

  立ち止まって周囲を確認する。

  「驗!」

  間違いない。声のする方へ顔を向けると、並木道の入り口の方から、腕を大きく振って走ってくる人がいた。

 

  ❇︎❇︎❇︎


  「いっちゃいましたね」

  驗を見送った陽子さんと俺は、居間でのんびりとお茶を啜っていた。陽子さんが淹れてくれたお茶は味はさることながら、香りに色、ついでにこのトンボが描かれた風情あふれる湯飲みに至るまで、すべてが最高だった。

  「あの子の寝顔を見ない日が来るなんて、私も歳をとりました」

  自分の湯飲みを見つめながらにこにこと笑顔を見せる陽子さん。その笑顔にはどこか憂を感じる。冗談のつもりで言っているのだろうが、「そんなことないですよ」と俺はフォローを入れる。

  朝のまだ温まる前の風がそっと俺の背中を撫でた。見れば、縁側の方の戸が開いていた。

  庭先にはスズメだろうか?小さな鳥が楽しそうに鳴きながら飛び交っている。

  何気なく、お茶をもうひと啜り。

  .....。

  気まずい。

  なんだこの沈黙は。

  陽子さんとファミレスで話をしたあの日以降、俺たちはほとんど毎日会っている。

  最初は俺と陽子さんの二人きりで、ファミレスなんかで話をしたりして、「本当に俺で大丈夫なのか」と再確認してもらいつつ、俺も陽子さんのことを知ろうといろんな質問をしたり、今後の事について訊いたりした。

  そして、意思が変わることのなかった陽子さんは、一週間ほど前、俺に驗の紹介を提案してきて、俺はそれを承諾した。

  驗には、俺はもうすぐ父親になると紹介したが、まだそれについての詳しい部分は決まっていない。

  婚姻届を書いて提出してしまえば、名実ともに俺は驗の父になる。けれど、俺の心は、いまだにその準備が整っていなかったのだ。

  親ってそう簡単になっていいものなのか、そもそも親ってなんなのか、陽子さんと話をしてから毎晩のように考えた。

  陽子さんにこの屋敷を案内された時も「この立派な家に相応しくあるように、驗を育てなければならないのか」と不安が募るばかりであった。

  「そ、それにしても本当に広いですね」

  俺は沈黙に耐えきれず、きょろきょろと部屋を見回しながら言う。この広さに対して三人家族ってどうなのか。

  「そうですね」

  顔を上げた陽子さんは、穏やかな声を返してくれる。

  「前に話した親戚の家だったんです」

  湯飲みに手をかけながら陽子さんは言う。

  実家を出た陽子さんと後に生まれた驗を世話してくれたというあれか。

  「その親戚が私の実家の方に越すことになったので、代わりにと私が譲ってもらったんです」

  「譲ってもらったって....陽子さんっていったい何者...」

  こんな歴史的な価値がありそうなほど立派な日本家屋を「譲ってもらった」の一言で片付けられるなんて、只者ではないはずだ。

  「私の家庭は代々続く神職の一族だったんです」

  息継ぎをするように湯飲みに口をつける陽子さん。

  「私は一族当主だった父の一人娘だったので、それはそれは手厚く、そして厳しく育てられました」

  俺はあの日、ファミレスで陽子さんが話していたことを思い出す。『常に干渉され、見張られてきた』と淡々と話す陽子さん。やっぱり箱入り娘のお嬢様だったのか。

  「それで、父は将来私に家督を継がせるつもりでいましたが、お話ししましたとおり、私がこっちに出てそれが叶わなくなり、代わりに分家でこの家の持ち主だった父の弟、つまり私の叔父に後を託したわけです」

  「な、なるほど...」

  家督だとか分家だとか、まるで教科書でしか登場しないような言葉が出てきて、俺には壮大な話に感じた。まさか俺の日常会話にそんな単語が飛び出してくるとは...。

  「私と驗が二人で生活を始めた後も、叔父は私たちを気にかけてくれて、自分たちが出た後のこの屋敷を自由に使うよう勧めてくれていたんです。

  でも、叔父が家督を継いだ頃にはもう驗も小学校に入っていて、今更勝手に引っ越すのはあの子に悪いと思って....ずっと黙ってました。えへっ」

  『えへっ』そう声を漏らした陽子さんの笑顔は今まで俺が見てきた女性の中で一番の破壊力を持っていた。

  最初に会った時の“結婚してください”から始まり陽子さんにはなかなかインパクトを感じる瞬間がある。この『えへっ』は別の意味の強烈さを放っていたが。

  「じゃあ、結婚したらぼくが陽子さんの籍に入る感じですかね?」

  そんな由緒ある生まれの陽子さんだ。名前を残さなければならないだろう。

  「いえ?別にどっちでもいいと思います」

  「でも驗も名前が変わったら可愛そうですし」

  「確かに...それはそうですね」

  日野空か。なんだかリズムが変な感じがするな。

  「ちょっと文字に書いてみましょうか。そうしたら印象が変わるかも」

  席を立った陽子さんは、まだ荷ほどきをし終えていない荷物の方へ行き、そこに置いてあったいつも使っているハンドバッグを漁った。まだ自分の部屋に運んでいないらしい。

  しかしいくら待ってもハンドバッグから何かを取り出す気配がなかった。

  「ちょっと見当たらないみたい。驗の部屋に筆記用具があると思うので取ってきますね」

  そう言って、部屋を出ようとする陽子さんを俺は制した。

  「ああ、俺行きますよ。トイレ行きたかったんでそのついでに」

  そういうわけで、代わりに部屋を出た俺は、用を足した後、驗の部屋に向かった。

  「入るな」と驗に言われているわけではないけど、男の部屋には勝手に入っていいものではないだろう。男の俺が思うのだから間違いない。

  襖の前に立った途端、どこからともなくに後ろめたい気持ちが込み上げてくる。まあ小学五年だし、そんな見られて困るようなものは....。

  そう願いながら襖を開けると、部屋の中央に置かれた座卓の上に目が止まった。

  そこにあったものは————。

  俺は急いで陽子さんの元へ戻る。静かな朝と広い屋敷には似つかわしくない足音が響き渡るが、気にしている場合ではない!

  「よ、陽子さんっ!」

  驚いた様子で俺に振り返った陽子さんは困惑の色を浮かべた顔で訊いてくる。

  「どうしました?エッチなものでもありましたか?」

  何言ってるんだこの人は。そんな呑気なこと言ってる場合じゃないんだよ!

  「こ、これ見て!」

  驗の部屋から掴んで持ってきていたそれを、俺は自分の顔の横に持ち上げて見せる。

  やっと事態を把握した陽子さんは、それでも「あらら」と取り乱すこともなく、いたって平然とそれを見つめていた。

  ちょ、少しは慌てたりしないの!?

  「俺、すぐ行ってきます!」

  「でも場所が...」

  玄関まで走って、靴を履く俺の背中に、陽子さんは声をかける。

  「大丈夫!ここ、俺の地元っすよ?」

  そう、俺と日野親子の生活圏内はほとんど一緒。俺はもう十一年近くこの街で生きてきた。なんだったら驗の小学校の先輩だ。ここら辺の小学生がどの道を通って行くかは大体わかる。

  靴紐を結び終えた俺は、パシャりっと引き戸の玄関を開け放ち、外へ飛び出した。


  ❇︎❇︎❇︎


  「驗!」

  激しく息を切らした空くんは、ぼくの元へたどり着くと、膝に手を置いてぜえぜえと肩で呼吸をしていた。

  「お前....これ....」

  かたずを飲みながら、空くんはなにかを差し出してくる。

  「あ」

  ぼくのお財布だった。あれ?リュックに入れておいたと思ったんだけど。

  ぼくはそれを受け取ってリュックに確実にしまう。

  「もう、忘れ物ないか...?」

  「たぶん」

  「たぶんって...バス乗っちゃたらもう引き返せないんだぞお?」

  「大丈夫。なんだか平気な気がする」

  「....なんだそれ」

  「ふぅー」と息を吐き出しながら姿勢をただした空くんは身体中に汗を浮かべていて、顎から雫が滴っていた。そして今気がついたかのように、ぼくの隣の和泉ちゃんに目を向けた。

  「....彼女?」

  「和泉ちゃん」

  「お前...小五のくせにやるなあ」

  「和泉ちゃんだよ」

  ぼくたちのやり取りを終始眺めていただけの和泉ちゃんは、目をぱちくりとして驚いているみたいだった。

  「どうぞ、驗をよろしくおねがいします」

  空くんは深々と行儀よく頭を下げた。なぜか無理矢理ぼくの頭まで下げる。

  「あ、いや、わたし...その...」

  和泉ちゃんが困っている。おろおろしているその姿は、なんだかお店の外で待たされているチワワみたいでかわいい。ぼくは自然と和かな表情になってしまう。

  「まあいいや。じゃあふたりとも気をつけてな」

  そのまま手を振って空くんはもと来た道を歩いて行った。

  わざわざお財布を届けるためだけに、空くんは家から追いかけてくれたのか。

  ほんのちょっとだけど、ぼくは空くんの“為人”というものを知ることができた気がする。

  為人————母さんがよく使う言葉だ。空くんは優しくて一生懸命で他人のために汗をかける為人の持ち主だ。

  離れていく空くんの背中に「ありがと」と、言い忘れた言葉をぼそっと呟いて、ぼくと和泉ちゃんも学校へと歩き出す。早くしないとまた怒られちゃうや。

  「さっきの人、だれ...?どういう関係なの?」

  「ぼくのお父さんだよ」

  「....えええ!」

  和泉ちゃんはチワワには似つかない声で大きく驚いた。

  「ぼくのお父さん。二十一歳、大学生」

  まあ、まだ結婚はしていないからお父さんではないけど。

  学校に近づくにつれて、校庭の方から先に到着して待っている人の声が聴こえた。

  ぼくはなんだか走りたくなったので、走った。

  「ちょっと、日野くん?」

  和泉ちゃんもワンテンポ遅れてついて来る。

  ぼくの足はクラスで一番だ。だけど、和泉ちゃんに合わせて、スピードは抑える。今はなんだか誰かと走りたい気分だった。


  ❇︎❇︎❇︎


  「おかえりなさい。はいこれ」

  玄関を開けると、陽子さんがタオルを差し出してくれた。タイミングが良すぎて、まるで俺の帰宅する瞬間がわかっていたみたいだ。

  「ギリギリ間に合いましたー」

  「疲れたー」と言って俺は上がり框にどっと腰掛ける。渡されたタオルで顔と首筋を拭くと、自分でも驚くくらい汗をかいていたことがわかる。

  「すみません、あの子おっちょこちょいで...いつも忘れ物してて」

  陽子さんは俺の隣に正座し、申し訳なさそうな顔を浮かべる。

  「あれが.....驗なんですね」

  驗が忘れっぽいドジな少年だとは知らなかった。おまけに女の子と登校だなんて.....。

  普段は口数の少ないクールガイだと思っていたが、なかなか隅に置けないやつだ。

  シャツの胸の部分を摘んで、ぱたぱたと扇ぐ。汗で張り付いて気持ち悪い。今すぐ脱ぎ捨ててやりたいけど、陽子さんの前では....。せめてお風呂に入れればいいのに。

  「お風呂、用意しますね」

  「え?」

  俺、口に出していたかな?

  「口じゃなくて、顔に出てましたよ」

  「こっちです」と言って陽子さんは廊下を歩いていく。驚きと戸惑いを隠せなかった俺も、急いで靴を脱いでその後を追った。



  「これ、洗濯しておきますね」

  「あ、はい...」

  「着替えはこの浴衣を着てください。叔父の物なので、サイズは会うかはわかりませんが」

  「すいません、なにからなにまで....」

  「いいんですよ。妻の役目です」

  風呂場の磨りガラスのドアに映る陽子さん。なんだか...変な気分が...。

  いやいやいや。馬鹿か俺は。ご厚意で風呂に入れてもらっているんだ、感謝せねば!この煩悩の塊め!

  頭からシャワーを浴びながら、俺は両手で頰をぱんと叩く。一度じゃダメだ!二回、三回....。

  気がつくと、俺の身体を這う水に、赤く色が付いていた。

  浴室内の鏡を覗くと、鼻の下からじとー、と血が滲んでた。

  こ、これは頰を叩きすぎて出たんだ!断じてやましい事を考えていたわけではなくて....。

  ダメだ、何だかすごくみっともないみっともないな。

  俺はため息を吐く。

  陽子さんは綺麗だ。素のままでも十分美しいし、メイクをすればガラッと雰囲気が変わって大人っぽくなる。

  そんな人を身近に置いていて、正気であり続けるのは難しい。今はかろうじて理性という箍が俺を抑えているが、それがいつ外れてしまうか...。

  その姿を想像して、俺は自己嫌悪に陥る。男というのはめんどくさい。

  普通の夫婦や恋人であれば問題はないのだろうが、俺と陽子さんはあいにくのそれではない。

  まだ結婚しているわけではないし、付き合っていると言っていいのかもわからない。非常に曖昧模糊で微妙な関係の俺たちには、その行為をするに至る理由がない。

  俺は思う。

  “愛し合う”というのは特別な関係の上で成立する行為なのだと。

  いっときの感情に身を任せてしまうのは愚かだ。その行為は“愛”という感情を伴って繰り広げられるべきで、そうでないと俺みたいな悲しい存在が生まれてしまう場合がある。

  俺は両親の顔を知らない。

  産んだばかりの俺を祖母に預けてそれっきりだ。九歳まで一緒に過ごした祖母からは「お前の母親は雌犬で、父親なんて誰だかわからない」と言われて育った。祖母は俺を家族と思っていなかったのだ。だから俺も祖母を家族と思わなかった。

  やがて祖母が死んで、身寄りもなかった俺は、施設に引き取られた。転校をして、住む場所も生活も大きく変わった。怖くて不安で仕方がなかった。

  祖母の言葉の意味がわかるようになったのは中学生の頃で、ちょうど男女のあり方というものを理解した時期でもあった。

  俺はひどく恥ずかしくて情けない気持ちになった。俺は、自分らの欲望に忠実に従った人間から生まれた、“望まれない”存在だったのだから。

  別に自分が不幸な人間だなんて思わない。施設には俺以外にもたくさんの子供がいて、境遇が同じやつもいれば、虐待だなんだで預けられてるやつもいた。俺はそっちの方がよっぽど不幸で可愛そうだと思う。

  今まで与えられていた愛情が急に手のひらを返すように暴力へと変わる。それだったら最初から愛なんて知らなければよかった、って俺だったらそう思う。その熱を知らなければ冷めていく恐怖も知らないで済むから。

  そして思春期を過ぎたあたりから考えるようになった。欲望に支配される人間は愚かで下等で醜い存在に過ぎず、“愛”という得体の知れない幻のようで、だけど確かに存在するその感情を追求し続けることこそが美しい人間の姿なのだと。

  “愛し合う”という崇高で高尚で神秘的な行為を体現できるのだと。

  故に、俺は愛のない接触が嫌いだ。キャバクラも、そこに行く人間も、そこで働くホステスも。

  今までは男女問わずそういう人間に対して軽蔑と嫌悪の入り混じった目を向けていた。近寄りたくないとさえ思っていた。

  だけどどうしてだろう。陽子さんのことをそう思うことはできなかった。

  むしろ、もっと話したいし、陽子さんに触れたいとさえ感じる。

  陽子さんのことを知りたい。この一ヶ月、彼女と過ごす中でその想いが日増しに強くなっていた。

  なぜだかはわからない。だけど醜くて汚らわしい欲望とは違う。俺はそう必死に自分に言い聞かせ続けた。

  なんなんだ、この感情は。二十一年生きてきて、こんな胸を締め付けられるような、息苦しくてだけど癖になりそうなくらい心地の良い感覚は初めてだった。

  まったく、人間はめんどくさい。

  俺はいつも自宅で使っているものとは別の、日野親子が使用するシャンプーで頭を洗った。

  意味もなく念入りに髪をこする。

  どうか消えてくれますように。

  そして熱い湯で泡を落とす。

  どうか流れてくれますように。

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