長いプロローグ
- 1 長すぎるプロローグ -
寒い。寒すぎる。
庭先に咲いた梅の花が、春という季節の訪れを教えてくれたはずなのに、二月の夕暮れ時は普通に冷える。どうやら春はもうちょっと先みたいだ。
俺は震える手で鍵穴に鍵を差し込もうとするが、いかんせんかじかんでうまく入らない。焦ったくて少しイラついていると、すぐ傍に立っていた驗が「かして」と言って、俺の手からそいつを奪い取って代わりにあっけなく解錠した。なんてことはない。驗の手には水色の毛糸の手袋が装着されているからだ。
「さんきゅー」
俺は礼を言って引き戸の玄関を開ける。
半日以上も外出していたわけだから外と大して温度は変わらない。それなのに何故だろうか。人間という生き物は“我が家”という場所を自然と暖かな空間と錯覚してしまうらしい。
「先に洗濯物取り込んできちゃって。俺は速攻でご飯作るから」
そのまま驗は庭先にへ、俺は食材の詰まったビニール袋を両手に持って台所に向かった。
微塵も埃を残さないほど掃除の行き届いた廊下の床は、靴下を履いたままでは滑って歩きにくい。誰だよ、こんなツルッツルになるまでワックスかけて磨いたやつは。掃除の天才か?あ、俺だったわ。
自画自賛に思わず笑みをこぼしながら俺は居間を抜けて台所へ入る。
とりあえず作るメニューは決まっていたので、スムーズな挙動でことを進めていく。
今までは料理なんて大してしなかったけど、下手くそながら頑張って自炊をしている。なるべく食材や栄養バランスなんかも考えて、出来るだけ偏りがない献立を作るのは実に苦労が絶えないものだ。
それもこれも、ぜんぶあいつの―――驗のためだ。
❇︎❇︎❇︎
四ヶ月前、俺は結婚した。相手はキャバ嬢。
大学のサークルの先輩に無理やり連れてこられたキャバクラで働いていたのがその人だ。そういう場所に行くのも、女性とそんな密着するのも初めてな俺は、居心地の悪さと慣れない酒のせいで緊張して、さっさと退散したかった。
そして周りの先輩たちが調子に乗ってお姉さん方にセクハラまがいのことをしはじめるくらいに酔いがまわった頃、俺は財布から自分の飲み食いした分の料金を伝票のバインダーに挟み、ひっそりとその場を立ち去ろうとした。ここにいては身がもたない。
胸元が大胆に開いたドレスを着たお姉さんに夢中だった先輩は俺なんかに気づくこともなく、俺は余裕で店の外まで逃げ切ることができた。
ふうー、と一息ついて空を仰ぐ。 思ったよりも大きめなため息になってしまって、慌てて周りを確認するが、何故か店の前には人っ子ひとり、キャッチすらいなかった。
まあいいや。とにかく人間ってめんどくせぇな。いちいち他人の目を気にし過ぎて疲れる。
そんなこと思いながら、歩き出そうとする俺に、後ろから「あの」と女性の声が。
「はい?」
振り返ればさっきまでお店にいた人がいた。名刺をもらったはずだけど、あいにくテーブルに置き忘れてしまった。名前は覚えていない。
「日輪です.... あの、これ」
そう言って彼女が差し出してきたのは、なにやら英数字が書かれたメモの切れ端だった。
「それ、私の電話番号とLINEのIDです......。こういうところ苦手なように見えたので....」
「はあ?」
頭にたくさんの疑問符が浮かんだ。なに、何が起きているのこれは?これあれだよね、キャバ嬢っていうのはみんなにこうやって連絡先教えているんだよね?俺だけじゃないんだよね?
その俺の疑問符を見透かすように、彼女は回答をくれた。
「うちの店、連絡先の交換はダメなんです。前に別の子がお客さんと相当揉めちゃって」
「えっと、でもじゃあこれはいけないんじゃあ...」
「はい。でもどうしても...」
そして彼女は目を伏せた。心の奥の、まるで底なし沼から引き上げるように言葉を探しているように見えた。俺の動揺もいまだ治らない。いかんせん、女性から連絡先をもらうなんて初めてだったから。
だいたい二十秒くらいだろうか。俺は黙って彼女の言葉を待った。やがて顔を上げた彼女が言った。
「私と結婚してください」
俺は一瞬日本語を忘れた。
❇︎❇︎❇︎
翌日の朝のことだ。キャバクラの店先でもらった電話番号に、俺はダイレクトメッセージ送った。電話ではなんとなく気まずいし、LINEだとなんだか馴れ馴れしいような気がして、悩んだ末にダイレクトメッセージにした。
『こんにちは 昨日はお世話になりました。梅宮です』
ここまで打ったところで、他に伝えることがなにもなさ過ぎて、それだけ送った。
送信を押した瞬間、胸の鼓動が速くなっていく。
やべー!朝なのにこんにちはって....。てか女性にメールするなんて何年振りだ!?最後は...高2くらいか?思い返すと悲しいな...。
ひとりベッドで狼狽えていると、ほんの数分で返信が来た。手に握られたままの携帯が震えた瞬間に俺をビクつかせた。あんまり慣れていないのだ。あいにく友達は少ないもんで。
恐る恐るメッセージを開く。
『こんにちは。
連絡ありがとうございます。昨日は急に変なことを言って驚かせてしまってすみません。改めまして、日輪です。
もしよかったらまたお会いできると幸いです。』
キャバ嬢というものは———いや、キャバ嬢に限らず女子という生き物はみんなきゃぴきゃぴとした文章に、ハイカラな絵文字なんかを使っているものだと思っていたが、予想に反して彼女のメッセージは、まるで色のない白黒な文章のように見えた。でもその白黒が彼女の雰囲気に合っている気もする。不思議と好感が持てた。
『返信ありがとうございます。
僕もまたお会いしたいです』
すかさず俺は返信を送る。今度はそこまでドギマギしなかったが、送った自分の文章を見返すと、どうにも不慣れな感じが滲み出ていた。
別に、また会いたい訳ではないけれど、社交辞令という意味でそう送った。そしてまた、携帯が震える。
『返信の返信ありがとうございます。
よかったら空いているお時間を教えてください。ゆっくりした場所でお話がしたいです。』
ばかにされているのだろうか。それとも和まそうとしているのだろうか。でもまあ、悪い気はしなかった。顔の見えないコミュニケーションは、相手を深く傷つけることができる。それは些細で何気ない言葉から、明らかな悪意の色を持った言葉まで、様々だ。俺はそれを知っている。だからこそ彼女の文章には他意が含まれていないことを直感したのかもしれない。あるいは、俺がそう思いたいだけなのかもしれないが。
忌まわしい過去の記憶が蘇りそうになってきたので、俺はベッドから起き上がって大きく息を吸った。頭の空気を全部入れ替えて強制シャットダウン。この数年で身につけた護身術ならぬ“護心術”だ。
それにしてもこの人、キャバクラ以外の場所で俺に会いたいらしい。正直、人付き合い自体が苦手な俺にとっては、女性と予定を立てるなんてハードルが高過ぎて気が乗らない。
だいたいこの人の考えていることがなにひとつ理解できない。初対面の人間に結婚してくれって、いったいなにを企んでいるんだ。
警戒感を募らせながらも、ここまでぐいぐい来られるとどうにも無下に断るわけにもいかず、俺はとりあえずバイトの入っていない日の昼間を数日分送った。その中から彼女は一番直近の日を指定して、後日会うことに決まった。
それから何往復か世間話的なやり取りをして、待ち合わせ場所は、俺の家から十分ほどで行けるファミレスになった。どうやら彼女も俺も、生活圏がほとんど一緒だったらしい。
❇︎❇︎❇︎
約束の時間よりもだいぶ家を早く出てしまった俺は、先に店に入って待っていることにした。
入り口で店員さんに喫煙席かどうかを訊かれ、思わず口ごもってしまう。
えっと、俺は吸わないけど、彼女はどうだっただろうか。実際お店で俺の席についていたのも僅かな間だったし....。
よく覚えていないけど、ああいうお店で働いているんだ、吸う可能性の方が大きいかもしれない。
俺は喫煙席の窓側の席に案内してもらった。
席について早々、お冷を運んで来た若いウェイトレスさんにドリンクバーを二つ頼む。少し不思議そうな顔をされたが、「後から待ち合わせで一人来るんです」と説明すると、納得した顔で奥に戻って行った。
彼女が来る前に喉を潤しておこう。すでに緊張で口がカラカラだ。俺は荷物を置いてドリンクバーのコーナーへ向かった。歩きながらなにを飲もうか考える。コーヒーだとにおいがして不快に思わせてしまうかもしれない、かと言ってジュースだと子供っぽと思われそう。
仕方ないので普段は全く飲まない烏龍茶に決めたところで、俺は目を疑った。
「あ」
二人同時にそんな声を出して反応をした。
ドリンクバーへ向かうために、通路の角を曲がったところに彼女は禁煙席の方から歩いて来たのだ。
「あ、あの、もう来ていたんですね」
訊けば、彼女は二十分も前から来ていたらしい。しかもお店で俺がタバコを吸ったところを見ていないので禁煙席にしたと。キャバ嬢の観察眼すげー。ちなみに彼女も喫煙はしていないらしい。
お互いに揃って烏龍茶を注いだ俺たちは、彼女が先に座っていたテーブルへ向かった。店員さんに頼んで伝票は重ねてもらった。
「俺、向こうから自分の荷物持って来ますね」
そして最初に座った喫煙席から荷物を取って戻って来ると、彼女のグラスに注がれた烏龍茶はすでに空になっていた。どんだけ喉乾いていたんだ。
俺は彼女の向かいに座る。やばい、目を合わせられない。あれ、なに話していいんだっけ。ていうかなんで今日俺たち会っているんだっけ。目的は?
「あー、その、いい天気ですね」
沈黙に耐えきれず言ってしまった。ばかだろ俺。天気の話は会話の墓場だよ。一言目から会話が死んじゃったよ。
「本当ですね。九月なのに全然セミが鳴り止まないですね」
あんたも乗ってくるんかい!それにどう返したってつまらない会話しか続けられないよ!こんな面白くない男と結婚したいだなんて、少し変わってる...うん?....ああ!
「そ、そういえば!この前俺に言ったあれって...」
そうだ。あの話の真相が訊きたかったのだ。ついつい女性と面と向かうことへの緊張のせいで忘れていた。
「あ、はい。あれのことですよね。あれはつまりその...私と結婚して欲しくて...」
なにそれ、なんの説明にもなってないって。
「なにか事情があるんでしょう?お店の客に、しかも初対面の俺なんかに言うくらいなんだから」
俺は地雷を踏まないように慎重に言葉を選びながら訳を訊こうと探りをいれていく。
「実は...」
外から聞こえるセミの声が大きくなった気がした。
「一目惚れです」
は?
何気なく彼女は言った。まるで、昨日見たテレビの話をするくらい極めて自然な口ぶりだった。店内の有線からジャズ調にアレンジされた広瀬香美の『ロマンスの神様』が流れ始める。店員、俺たちを見ているのか?
「あの、それってマジなやつですか?」
「はい、マジです」
彼女の方も緊張しているのか落ち着かなか様子で助けを求めるようにグラスに手を伸ばす。しかし、そこには氷から溶けた水がほんの僅かに残っているだけだった。
「あ、入れてきましょうか?」
居たたまれなくなって、俺は彼女の置いたグラスを掴もうと手を伸ばす。
しかしびっくりハプニング、彼女がまたも伸ばした手に重なってしまったのだ。
「あ」
うわっ!言葉には出さないが俺はたじろぐ。
「す、すみません!」
俺は急いで手を引っ込めて、頭を垂れる。
「あ、いや、大丈夫ですよ。あの私、自分で取ってくるので」
そして少々足早気味にドリンクバーへと席を立った。
うわー、なに今の。故意じゃないにしても、ちょっと気まずいな。てか、まだ会って二回目の男に自分の飲み物取りに行かせたくなんてないよな。
俺は後悔の念で押し潰されながら、気持ちを落ち着かせようと窓の外に目をやった。
八月も半ばにさしかかってきた夏の外。飽きることなくひたすら鳴き続けるセミの声が今は俺の心を紛らわしてくれた。普段は煩わしい限りなのに。
太陽に激しく焼かれたアスファルトも、自動車の熱い排気ガスも、時折吹いて樹々を揺らすオアシスのような風も、全てが無性に愛おしく感じる。ああ、今すぐ外に出て走り出したい。というか、この場から逃げ出したい。
やがてグラスに二杯目の烏龍茶を注いで戻ってきた彼女は、話を再開した。彼女の方も、少しばかり気持ちを落ち着かせたようだ。
「私、実は不良少女なんです」
「ふ、不良少女!?」
突拍子も無いその言葉に驚いて、思わず目を見開いて彼女の顔を見つめてしまった。考えてみれば、ちゃんと見るのは初めてかもしれない。
少女...まさか高校生なのだろうか?たしかに、今目の前にいる彼女はすっぴんで(女性って外に出る時は基本、化粧とかするものなのでは?)、お店で見た大人なん雰囲気を漂わすメイクをしていた時と違い、明らかな童顔である。そんな子がキャバクラで働くなんてそれは確かに不良行為だ。
てことは俺よりも年下なのか?ならば、俺がやらなければならぬことは一つ.....。
「あ、あのさ!どういう事情があるのかはわからないけど、きみみたいな女の子がああいうお店で働くにはまだ早いよ....!」
俺はつい興奮して声を荒げてしまった。
その瞬間、周囲の席にちらほらと座っていた他のお客さんの冷たい視線を、肌で感じた。
『平日の昼間といえど、お店でこんな大きな声を出しては他のお客様のご迷惑になってしまいます。どうかマナー節度を持って——』
前に見たモラル啓発番組の再現映像に出ていた迷惑なお客さんの様子が頭に浮かんだ。今の俺はまさしくそれと同じように思われているのだろうか。
いやしかし!目の前で女の子が道を踏みはずそうとしてしまっているのに放っておけるわけないだろう。俺は声を抑えて続けた。
「何か事情があるのかもしれないけどさ、もっと別の方法があると思う」
俺は真剣に彼女の将来を考えてそう口にしたつもりだった。
けれど、彼女は笑った。小さく。それはまるでどこかのお嬢様のように品を感じさせる笑いだった。
「あの、すみません、ちょっと語弊がありました」
彼女はなおも笑いながら言った。
「私、“元”不良少女なんです」
「....元?」
ぽかんと間抜けな顔をしてしまった。
「はい。“元”です。私、今年で二十七歳ですよ」
..........。
ええええ!
「改めまして、日輪こと本名、日野陽子です」
居住まいを正した彼女、日野陽子さんは、先ほどまでの様子とは打って変わって落ち着いた、気品を感じさせる雰囲気を醸し出していた。
よく見れば、着ている洋服もなんだか清楚なお嬢様のような、そういう印象を与えられるワンピースだった。なんだ。なにが起こっているんだ。
「...すいません、先ほどは失礼なことを言ってしまって....」
「いえ、気にしていませんので」
「それで...どういう話でしたっけ...」
先ほどの二十七歳ショックの余韻が未だに残っているせいで、すっかりなにを話しているのか忘れてしまった。
「えっと、私は元不良少女だったんです。でもまあでもどんな人でもいけないことのひとつやふたつやってるものですよね?そう考えれば世の中みんな不良少女ばっかりですね!」
「いえ、そういう話じゃなくて」
俺は冷静に突っ込む。どうした?なんでこの人はここにきてこんな饒舌になっているんだ?
「すみません。それで、十一年くらい前の私はすごい荒れてて、大人への反抗を夢見ていたんです」
大人への反抗....安っぽくて瑣末な言葉なはずなのに、目の前にいるこの人が言うと、どうしてだか、興味をそそられてしまう。これはギャップ効果というやつか。こんなお淑やかで可憐な彼女は今年で二十七歳で、しかも夜はキャバ嬢で...。一体なにがあったのだろうか。
「ところで、荒れてる青少年ってどんなことしてると思いますか?」
急にそう尋ねられても...。なんだ、俺が中高生だった頃の不良グループはなにしてたっけ。ああ、そういえば隣街の学校で、集団ドラッグが云々みたいな事件があったな。
俺はそれをそのまま伝える。
「うーん、今時はそういうのなんですかね?私が住んでいたのは田舎だったのでクスリとかそう言うのはあんまり耳にしませんでした」
ということは、陽子さんはドラッグには手を出していなかったということだよな...?俺はついほっとして胸を撫で下ろした。いや、よかったよかった。
「それじゃあ元不良少女はなにをやったんですか?」
「それはですね...」
そして彼女はまたも口ごもった。
しかし、今度はグラスに助けを求めることなく、まるで闘う戦士のような顔つきでこちらを見据えてきた。俺はその眼差しに気圧されるかの如く顎を引いた。
「これ見てください」
そう言いながら隣の椅子においていたバッグからスマホを取り出すと、彼女は俺にその画面を見せてきた。
そこには明らかに小学生だとわかるレベルで幼い子供が映っていた。
画面越しでもわかるくらいにサラサラな髪は若干、茶色がかっているが、元々色素が薄いのと、写真が取られているのが屋外で日光を浴びているせいでそう見えるのだろう。性別は...たぶん男だろう。着ている洋服が女の子ものではないから。逆にいえば、それしか判断基準がないのだ。中性的な顔は、髪の短いの女の子と言っても全く違和感がない。
「この子は...?」
俺は画面から目を離して彼女に尋ねる。
彼女は、スマホの画面を自分に向けて、その子を愛おしそうに見つめた。
「この子は...私の子供です...」
私の子供....?え、子供?訳がわからない。頭の細胞がまるで活動を停止していくようだった。
「今年で十一歳です。小五です」
十一歳?陽子さんは今二十七歳だから...十七歳の時に産んだ....?
「そうです。十一年前の私は荒れていました。そしてこの子を授かりました」
荒れてたって...つまり...その...は?
だめだまだうまく頭が回らない。
「私の両親は過保護で、私のすることには常に干渉して見張ってきました。私はいつまでも子供扱いされるのが嫌で....。そんな時、テレビで中学生が妊娠する話のドラマを見て....決めたんです。子供が欲しいって。
相手は同級生の男子でした。別に好きじゃなかったけど、向こうは私に気があったらしく、まあ...はい...」
歯切れが悪い。話したくないこともあるのだろう。それに今重要なのは、十七歳の母となったという事実だ。
「最初はびっくりしました。たった一回で?ってすごく驚きました。だけど、生理が止まって検査薬で確認して産婦人科に行って、それで始めって実感したんです。私は母になったんだって」
「それで、産んだんですか」
声を失っていた俺は、やっとの事で反応することができた。
「はい。両親には大反対されました。それでも私は戦いました。もう子供じゃないんだって。
そのうち、母親の方は説得に応じてくれて、賛成とまでは言わなかったけど、『あなたの好きにしなさい』って。あとは父の方でしたけど、そっちの方は最後まで折れなくて」
そこで一旦区切った陽子さんはグラスに入った烏龍茶をゆっくりと自分の口元へ運んでいった。俺もつられて同じように飲む。
「そして中絶期間が迫ってきていたある日、その日も私たちは言い争っていて、散々お互いを罵倒したあと父は私を追い出したんです。それはもうすごい剣幕で『お前は一族の恥晒しだ。どうしてもその腹の子を産みたいんだったら、うちの敷居の外で産め。そして二度と戻ってくるな』って」
陽子さんがあまりに淡々と話すから、どうにも緊迫感というものが伝わってこない。けれど、たしかに自分の娘が十七歳で妊娠して、しかも産みたいなんて言ったら、世の大半のお父さんは受け入れがたいのだろう。俺は生まれた時から父がいなかったので、テレビや漫画のフィクションに存在する熱苦しいお父さん像を想像してしまうが、おそらく陽子さんの父親も、激昂してちゃぶ台をひっくり返すような人だったのかもしれない。
「それで、陽子さんは家を出たんですね」
俺は陽子さんの語ったことを整理するように言う。というか、なんだか今は質問を許されるような空気ではない。これは彼女自身が語り終えるのを待つしかない。
「はい。出ました。幸い、こっちに親戚がいたので、そこを頼りました。この子もこっちで産みました」
彼女の言う “こっち”というのはおそらくは日本の首都、大都会「東京」のことだろう。俺たちが今いるところだ。
「高校も中退しました。昼間は親戚に面倒見て貰い、その間私はアルバイトをして、夜は出来る限りこの子と一緒に過ごして...。それで一年くらい経って、そろそろひとり立ちしないと、と考えたんです.....。
私は近くにアパートを借りて親戚の家を出ました。運良く驗も保育園に入れることができたので今までどおり昼間は仕事ができました。そして驗が小学生に上がって一人部屋を与えた頃に、私はお金をもっと稼ぐためにこの仕事を始めたんです。
私、自分で言うのもなんですけど、顔は悪くないでしょう?それに、実家が厳しかったせいで、所作の数々もそれなりに身についていました。お話も苦手ではないので意外とあっさりお店で人気になれました」
「....だいぶ自分で言っちゃうんですね」
思わず突っ込んでしまった。彼女は嫌味のつもりで言ったわけではなく、たぶん天然気質なんだろう。それになんとなくもっと聞きたくなるような、嫌じゃない自慢話だった。
「で、ここまでは前置きで」
さて、ここから肝心の『結婚してください』にどう繋がるのだろうか。
ふと壁に掛けられた時計を見やると、俺が店に入って、もう一時間近く経とうとしていた。
俺の視線につられて彼女も時計を見ると、「あ、もうこんな時間なんですね」と言って、ブレイクタイムを提案してきた。
.....肝心なところで!
俺はたらこパスタを、彼女は日替わりランチを頼んで、それぞれが食べ始めてしばらく経った頃だった。
「私結婚していないんです。それであの子も父親ってものを知らなくて」
彼女はナプキンで口元を拭いながら、にこりとする。
「これから大きくなっていくあの子には“父親”というものが必要な気がして」
小さく「ごちそうさまでした」と手を合わせて言った彼女は、まっすぐな目で俺を見つめてくる。かなり食べるのが早かった。
なんだか食べにくい...俺はまだ半分くらい残っているのに。
「父親、ですか.....」
俺は口に含んだパスタを咀嚼し終えては、次の一口を巻いている間に、訊きたいことを述べる。
「はい、そうです。もうすぐ、と言ってもまだあと一年半くらいありますが、この子も中学生になります。そうしたら思春期の男子に必要なのは、女親よりも男親の言葉だと思って」
彼女は俺の咀嚼を待ってくれる。時折グラスに口をつけては口元をナプキンで拭う。なんだかその一連の動作に、育ちの良さを感じる。
「それがなんで俺なんですか?俺のことよく知らないのに、一目惚れってだけでそんなこと言われても....」
「そうですよね。失礼しました。ただ、梅宮さんは信用できそうだったので」
「信用?」
やっとパスタを食べ終えた俺は、陽子さんに倣ってそれはそれはエレガントな貴族のように口元をナプキンで拭いた。
「はい。梅宮さん、ああ言うお店始めてでしょう?たぶん女の子と付き合ったこともないんじゃないかなって」
「な、なぜそう思ったんですか?」
すかさず彼女は言う。
「だって、顔に『俺は童貞だ」って書いてありましたから」
俺は口の中に残っていたたらこパスタの余韻をかき消すために口に含んでいた烏龍茶を盛大に吹き出しそうになった。
ど、童貞?
お上品な笑みを浮かべ続ける彼女の口から出た、まさかの言葉に、俺は耳を疑った。
いや、この人は元不良少女だったのだから仕方ないのか?
「しかも、『はやく帰らせろ』『俺に近づくな』みたいな雰囲気まで出していて....。ああいうお店に来る方って、大抵は寂しくて誰かに話を聴いてもらい方だったり、女の子に飢えていたりする方なのに」
「....そう言う人って珍しいですか」
「いえ、梅宮さんのように無理矢理誰かに連れられて来る方って、早く帰らせろオーラを出している場合が大抵です。家庭があったりする方とか」
「じゃあなんで俺にしたんです?ただの貧乏大学生に過ぎないのに」
「たしかに、金銭面を優先すれば、梅宮さんなんて選択肢にも上りません」
うわあ...自分から自嘲気味に言ったくせに、彼女にまでそう言われるとすっげー傷つく。てかこの人、こんな可愛らしい見た目と綺麗な言葉遣いに反して、意外とはっきりいうタイプなんだな...。さすが元。
「だけど、私は別にお金には困っていません。私が求めたのは、為人です」
....ひととなり?
聞き慣れない言葉を耳にして、俺は戸惑う。「なんですかそれ」とも訊けないし....。
すると、俺のそんな情けない疑問符を見透かしたように彼女は説明してくれた。まあ早い話、人柄とかそういう意味らしい。
「ふふふ、梅宮さん、本当に顔に出やすいですね」
「ええ?またそんな出ていましたか?」
俺は慌てて顔を手で覆う。今まで二十一年生きてきて、そんなこと言われたことはなかった。俺が出やすいんじゃなくて、彼女が敏感なだけじゃないのだろうか。
「いいことだと思いますよ?梅宮さんは嘘がつけないタイプでしょうし、何より優しい。それでいて、しっかりと誰かを叱れるほどの度胸もある。信用できるとはっきりわかる為人です。」
なんだか顔が熱い。というか身体中の血液が沸騰してるみたいだ。
「叱れるって...さっきのはつい...」
未成年がキャバ嬢をやっているなんてわかったら止めるのが当たり前だ。まあ俺の早とちりになってしまった訳だけど。
「いいえそれだけじゃないです。メールでも書きましたが、私もこの近くに住んでいます。それで、実は梅宮さんのことを何度も見かけたことがあるんです」
「は、はい?」
まるで不意をつかれたようだった。ま、まさか、ストーカー?
「別にストーカーじゃないです」
なっ...またしても俺の心を見透かされた。今すぐ顔を隠したい。
「言ったでしょう?私もこの近所に住んでいるんです。よく行くスーパーマーケットもコンビニも、梅宮さんと一緒なんです。あの日もたしかスーパーで買い物をした帰り道でした」
俺はちびちびとグラスに口をつけて口内を潤す。俺が話しているわけでもないのに、なぜか喉が乾くのだ。
「私が息子と並んで路地を歩いていると、道の先に自転車が倒れていて、すぐそばに泣きながら謝る中学生くらいの男の子と、梅宮さんがいました」
そこまで言われただけでぴんときた。あれはたしか二ヶ月くらい前だった筈だ。
❇︎❇︎❇︎
あれはまだ夏休みが始まったばかりだった頃の夕方だ。コンビニへ食料を調達しに言った帰り道、俺は中学生の運転する自転車にぶつかった。
相手はイヤホンを耳に刺し、スマホを操作していた。俺は咄嗟にかわそうとしたが、俺もイヤホンをしていたので気がついた時にはもう遅かった。
少年は衝撃でバランスを崩して倒れ、俺は弾き飛ばされ右足に強烈な激痛を走らせた。
「痛ってっ!...大丈夫?きみ!?」
少年は無傷だった。ついでに、スマホも頑丈なケースのお陰で無事だったらしい。
彼はスマホを手に、道路に横たわる俺に駆け寄って来ると、みるみるうちに瞳に涙を浮かべてひたすら誤ってきた。情けないくらいにくしゃくしゃに歪んで涙と鼻水で汚れた顔は見るに耐えなかった。
「大丈夫だから、泣かないで。....きみ今いくつ?」
俺は彼の不安を取り除こうと、適当な質問をした。怖いよな。そりゃ自分が事故の加害者になっちゃたら。
「じ....じゅうよんですっ!」
洟をすすりながら彼は答える。うまく言えてないのになんだか一生懸命だなあと思わせる。
「じゃあ中二?もう夏休み?忙しくなるね」
ぶつかった右腿と弾き飛ばされた衝撃で地面に打ち付けられた部分に走り続ける痛みに耐えながらも、俺は努めて平静を装って、笑顔で話す。
「いえ...ちゅ、中三ですっ」
そりゃ失礼しました。
「今からどっか行くのかな?」
「夏祭りに...あのっ!ほんとすみませんでしたあ!」
ああ、なるほどね。どおりで今日は浴衣姿をちらほらと見かけたわけだ。
「泣くな泣くな、男だろう!俺は大丈夫だから、きみはもう行きな」
「で、でも....!
ああもうめんどくさい。こいつ、このままではいつまでも泣きじゃくって、しまいに警察を呼ぶ羽目になりそうだ。それだけはなんとしても避けたい。このあとお気に入りのバラエティ番組が始まるのだ。
「いいか!?はっきり言ってこれはほとんどきみの過失だ。イヤホンしてスマホ操作しながらチャリンコに乗るなんて普通ありえないからな!道路交通法違反、障害致傷、わかるか!?」
俺の緊迫した声音に怖気付いたのか、彼はさらに泣きべそをかきはじめた。けれど、その目をまっすぐに俺を捉えている。たぶん、素直で真面目な子なんだろうな。
「人をはねただけで、どれだけの損害賠償を請求されるか知ってるか?何百、下手すれば何千万だぞ?十四歳でそんな借金背負って生きていけるのか?無理だろう!?」
俺の怒号が路地に響いていた。彼にも伝わるように、あえて恐怖心が沸き立つような言葉を選ぶ。
「他のみんなが高校に行って青春している間にきみは朝から晩まで仕事して、それでも稼いだ金のほとんどを借金に当てる。そんなの嫌だろう?」
「ううっ...」
彼が声にならない声を出して頷くと、俺は最初の時のような、優しい声音に戻す。
「じゃあ、今度からは二度とこんな危ない乗り方しなようにな?」
ぽん、と少年の肩に手を置くと、俺は幸いにも無傷だったコンビニ袋を拾ってその場から退散した。去り際に、「夏祭り遅れんぞ」と声をかけると、彼はまたも頭を下げて謝った。俺は手を振って、足を引きずって帰った。
❇︎❇︎❇︎
「何を話しているのか少し気になったので、そばにあった建物の影に隠れてこっそりと聞いていたんです」
まさか、陽子さんがあの場にいたなんて。
「そ、それで?」
「今思えばそれが一目惚れの瞬間でした」
目の前でそんなことを言われるとむず痒くて仕方がない。
「それからも何度か近所で梅宮さんを見かけました。ある時はお年寄りに荷物を持ってあげていたり、ある時は転んで泣いている小学生をあやしていたり、またある時は夜中の公園でギターを弾いていたり」
そんなところまでっ!?恥ずかしい過ぎて今すぐセミになりたい。泣き出した気分だ。そして誰にも気づかれることなくあっさり死にたい。
「その時はまだ名前も知らなかったけど、すごく印象に残っていました。驗の父親には相応しいと思いました」
「....しるし?もしかしてさっきの...?」
「そうです。息子の名前です。字は...」
彼女はバッグを漁り、可愛らしい桜のイラストがあしらわれたペンを取り出した。それを使って紙ナプキンに書いた字は『驗』。綺麗なんて陳腐な言葉では言い表せないくらい美しい字だった。まるで書道の教科書なんかに載っているような、そういう次元の字だった。
「そうやって何度も街であなたを見かけているうちに、あの日が来たんです」
あの日———そう、たった四日前のことだ。俺が陽子さんのいるお店に行った日。
「最初は驚きました。まさか、あの人もこういうお店に来るんだなあって。少し幻滅もしました」
「ええ!?」
「でも、あなたの様子を気にして見ていたら、やっぱり思っていた通りの人で、安心しましたよ」
さっきの顔に出やすいって話か。俺が帰りたいオーラ全開にしていたっていう。
「そして、しばらくして梅宮さんたちの席を見てみたら、梅宮さんひとりで帰ろうとしてて...私も慌てて追いかけて...」
「それで、あのシーンに繋がると...」
彼女は「はい」と頷いた。
なるほど....と危うく納得しかけたが、陽子さんの今までの話では俺は納得できなかった。
「あの、それだけで俺を信用できる人間だと...」
「はい」
陽子さんは悪びれる様子もなく、まるで言い慣れたかのように続けた。
「私は普段のあなたを知っています。あなたの為人を見て、結婚したいと思いました」
面と向かってそう言われると、反応に困る。グラスの氷が溶けて、からん、という音を鳴らした。いつのまにか禁煙席には俺たちだけしかいなかった。
「.....陽子さんが見た俺は、あくまでも一部分でしかありません。そこだけを切り取って相手のことを判断するのは、少し危険だと思います。その、驗くんに対しても。....それにメリットがないでしょう?」
「....メリット?」
さも不思議そうに彼女は小首を傾げた。
「そうです。俺は大学生でさっきも言ったけど金もないし、頭も良くないしカッコ良くもない。ただ、その為人ってやつだけで俺と結婚しても、ふとしたことであなたたちを傷つけて不幸にしてしまうかもしれない。それじゃあ元も子もないでしょう?」
陽子さんは面白がるような目で俺を見た。
「たしかにそうですね。だけど、梅宮さんは私たちを不幸にはしません。むしろ私たちの幸福のために必死で努力してくれる、そう人です」
「だから!そうやって一瞬垣間見ただけの俺に期待するのは...」
「私、未来が見えるんです!」
は?なんだって?
俺の言葉を遮って、彼女は力強くはっきりとした声で言った。なんの濁りもなく発音された彼女の言葉には迫力があって、思わず怯んでしまった。こ、これが元不良少女の本気......。
「梅宮さんは、いい父親になります」
「......」
まっすぐに見つめられて、視線が重なって、何も言えなくて.....それなのに目をそらすこともできなくて....。
「お願いします。驗の父親になってください」
頭を下げる彼女に、俺はどうにか言葉を紡ぎ出す。
「顔を上げてください」
心なしか、彼女の瞳が潤んでいるように見えた。マジなんだなあと思う。
「....ちょっとお手洗い行って来ますね」
俺は彼女の了承を得て、重たい足取りでレストルームへ向かう。本当は一刻も早くこの場から逃げ出した気分なのに、またあの場に戻らなければならないことが億劫だった。
トイレで用を足し、手を洗いながら考える。
———結婚。
俺はどうしたい?結婚したいのか?彼女は綺麗な人だし、この先俺にはあんな女性地巡り会う機会なんてないだろう。そもそも俺みたいなコミュ障は女性自体に近寄れない。
ならばこの棚からぼた餅的な展開に甘えるか?けれど、結婚ってそう簡単にしていい訳がない。
だいいち、向こうは俺に父親になってもらいたいと言っているけど、俺が父親になんて....無理だよ....。俺自体が父親のいない環境で育ってきたんだから。
だめだ。考えてもまとまらない。どうすればいいんだこれ。模範解答はなんだ?
眉間にしわを寄せたままレストルームから出た俺は、陽子さんの元へ戻る前に大きく息を吸った。強制シャットダウン。ちょっとキャパ容量がオーバーしている。落ち着け、俺。
相変わらず鉛のように重い足取りで、席に戻る。すると、
「すみません。ご迷惑ですよね。当たり前ですよね。まだ会って二回目のこぶ付きに結婚してくれなんて言い寄られて。ごめんなさい、今日のことは忘れてくだ...」
そう言いながら、陽子さんは、諦めたように荷物をまとめて椅子から立ち上がった。
俺はとっさにその手を掴んで引き止める。
「待って!」
驚きを隠せない表情の陽子さんに、俺は目で座るように促す。そう簡単に終わらせていいのか?
「俺、よく考えたけどわからなくって、自分がどうしたいのかって、だけど答えはまだ出なくて...」
緊張が加速する。おもむろにグラスに手を伸ばすが、今度は俺のものが空で、それでも小さくのこった氷を口に入れて、噛み砕いた。
「さっき言ってましたよね。俺はいい父親になれるって」
こくりと陽子さんは頷く。
「....俺にはそのいい父親がどういうものなのかわからないんです」
「....それは、私にもわかりません」
俺は彼女を見据える。ちょっとだけ回りくどい言い方をしてみよう。
「一目惚れって言ってましたけど、俺のなにがいいんですか」
「え?」と意外そうな顔をした陽子さんは考えるそぶりもなく、言葉を返してくれた。その目はなにか強い意志みたいなものを感じさせた。
「先ほども言いましたが、最初に惹かれたのはその為人の部分です。事故を起こした中学生相手に本気で叱ることのできるその実直な部分、そして相手の行為を許すことのできる度量。困っている弱者に手を差し伸べる勇気や誰かのために一生懸命に.....」
「ああーもういいです」
陽子さんの話を手を振って遮る。もうお腹いっぱい。十分すぎてなんだか涙が出そうだ。
「....それって、好きってことなんですか?」
落ち着かず頭に手を当てて言葉を続ける。
「たしかに陽子さんは俺のことをいいふうにみてくれてるみたいですけど、好きって気持ちがないと結婚っていうのはできないと思います....。
それに、夫婦の関係が良好ではじめて驗くんにとっていい父親になれると思うんです。」
なんだか自惚れたことを言ってしまった気分だ。ああ、室内にいるのに汗が出てくる顔が熱い。
「梅宮さん」
そっと陽子さんは俺の名前を呟く。暖かくて柔らかい声だ。
「私は好きだから梅宮さんに話しかけたんです。街で見かけるうち、だんだん好きになって、それであなたのことを覚えていたし、好きだからお店を出て帰るあなたに声をかけた。
好きだから、あの子の父親になってもらいたいんです.....」
「けど、俺はあなたのことを好きじゃない....」
そう、それが一番の問題なのだ。彼女がいくら俺を好きでいてくれても、俺が彼女を好きでなければ、後に残るのは虚しさだけだろう。
「....でも」
俺は少しだけ勇気を振り絞る。今から言うのは自惚れの集大成だ。月九でたとえ主演俳優が言っても流行ることのないだろう俺の渾身の決め台詞。
「あなたが俺を好きでいてくれるのなら、これから一緒に過ごすうち、いつか俺もあなたを好きになるかもしれない」
それは、いままで女子と手を繋いだこともない、二十一歳で童貞の、俺流のプロポーズへの返事だった。




