断罪する者、される者
都での決戦に敗北した頼長は、救援を求めて父忠実がいる南都(奈良方面)まで落ち延びた。しかし忠実がいる屋敷の門は固く閉ざされている。
やがて頼長の代理人が屋敷から戻ってきた。
「お父上は、この乱に何の関わりもないと仰っております・・・・・・」
「・・・・・・左様か」
ふふっと、頼長は凄惨な笑みを浮かべた。
(父上を恨んではいない。仕方の無いことなのだ・・・・・・)
ただでさえ我々親子は朝廷から罪人だと決めつけられている。ここで父親が罪を重ねれば、藤原家そのものが余計に傾く恐れがある。
「――うぅッ」
頼長はふと輿から落ちそうになった。全身が熱に侵され、意識が混濁している。逃げる際に飛んできた矢で負傷しているのが原因だった。
医療技術が未発達な当時、このような傷はまさに致命傷になりうる。傷が化膿して菌が入り、感染症やその他の病を併発して死に至るのだ。
頼長は忠実との面会を諦めて親戚の屋敷へと逃げ込んだ。それから程なくして頼長は矢の傷が元で落命した。36歳だった。
頼長が南都を逃げ回っていた頃、同じく戦線離脱した崇徳上皇は都の郊外に潜伏していた。その頭はまるく剃られて、権力の放棄と出家の意向を示している。剃髪して仁和寺に出頭した上皇はすぐに身柄を拘束された。
崇徳上皇をはじめとする反乱軍に対して、朝廷の処罰は迅速かつ徹底的だった。上皇は讃岐(今の香川県)への配流を申し渡された。また源為義ら上皇に与した武士達の多くも断罪された。
「敵に与した武士達は、処刑するべきです」
信西の伸びやかな声が、朝廷の会議の間に響いた。
「しょけい・・・・・・?」
まるで初めて聞いた単語のように貴族達は顔を見合わせて囁きあい、やがて事態の異常に気がついて顔をしかめた。処刑(斬刑)など、この国において何百年も公式に行われていないではないか。
「信西殿、上皇陛下の配流ですら異例中の異例であるのに、武士達も処刑するのですか。あまりにも慣例を、いや、この国の歴史を無視していると言わざるをえません!」
「歴史? まさか貴殿らは、この平安の世が永遠に続くと思っているのですか?」
「な、何が言いたいのでおじゃる!」
「・・・・・・武士の時代が始まる、ということですよ」
信西の顔は緊張しているようでもあり、楽しんでいるようにも見える。
誰もが「そのこと」を自覚していた。しかし言葉にするにはあまりに恐ろしかった。
会議に居並んだ貴族たちが騒然とする。中には念仏を唱え出す者さえいる。
「お静かに」
信西の一声で貴族達の喧噪が止んだ。信西は満足げに首肯する。
「都での騒乱にあって、源氏と平氏の活躍はすさまじいものでした。彼らに対する論功行賞は盛んに行われるでしょうし、当然彼らの朝廷における発言力も更に増すでしょう。今までの慣例、常識、価値観では通用しない時代が始まる・・・・・・いや、始まっているのです」
そんな時代にどう生き延びるかは、我々の知恵次第。と言ったところで信西は笑顔を広げたまま黙り込んだ。「私についてくれば安心です」とまでは言わない。
座を囲む貴族達は、呪縛を解かれたような安堵の表情を浮かべた。
信西の意向通り、上皇に味方した武士の多くが処刑された。
源為義は息子の義朝の手によって斬首された。親子にどのような感情が渦巻いていたかを想像するのは困難を極めるだろう。
後白河帝の参謀として活躍した信西は、その後勢力を拡大して中央集権化を押しすすめることになる。
ところが政局はやがて反信西派との軍事衝突に発展(平治の乱)した。信西は破れて敗走、その後自殺した。世間では崇徳上皇の恨みだとか、義朝をはじめとする抑圧された武士たちの恨みのせいだとかと噂された。
信西の死は、保元の乱からわずか3年後のことだった。