頼長の正義と狂気
藤原頼長、登場。
「あの男は神仏を蔑ろにする悪党だ!」
都の神官や延暦寺の僧侶たちは口を揃えて言う。
「あの男は時代錯誤な理想論を我々に押しつけて、粋がっている!」
貴族達も口を揃えて言う。しかし当事者であるはずの藤原頼長は気にしていない。
「どいつもこいつも、魂が腐った愚鈍な奴らばかりだ」
頼長は自分の周りが敵だらけであっても、自分が信じる思想と正義を曲げずに内覧の職務に励んでいた。内覧とは天皇を補佐する実質的な行政官で、兄の忠通が勘当され後、頼長は藤原家の首領と共に内覧の地位を手に入れてた。
以来、彼は猛烈かつ容赦の無い政治改革を進めている。
儒学などの学術の復興。
権力介入が甚だしい(と彼が断じた)寺社勢力の弾圧。
遙か彼方の、東北地方への徹底した納税の要求。
800年後に彼が生まれていたなら、頼長は民衆のヒーローと讃えられていたかもしれない。しかし平安末期の人々にとって、頼長の政治はあまりにも熾烈でうんざりするものだった。
はじめは彼の政治手腕に期待していた鳥羽法皇や近衛天皇も、次第に頼長のあまりに清廉潔白な政治に眉をしかめるようになり、やがて毛嫌いするようになっていった。
「仕方ない。陛下(近衛帝)はまだお若いから、政治が分からないのだ」
なるほど近衛帝は十代の半ばで病弱体質だ。頼長とは対照的に、周囲からは優しいお人柄ともいわれている。
しかし齢17でこの世を去るとは、周りの誰も想定外だったのではないか。
頼長が権力を掌握した5年後の1155年、近衛帝は崩御した。
「近衛帝がお隠れあそばされたのは、頼長の呪詛によるものだという噂が都に流れております」
悲しみに暮れる鳥羽法皇のもとに、失脚している忠通からそんな噂が伝えられた。
「なんだと」
事実の是非に関係無く、この噂は鳥羽法皇にとって都合のいい情報だった。
「悪い噂が流れる時点で頼長に人望が無い証拠だ。これを期に頼長から内覧の地位を剥奪してしまえ!」
頼長は志半ばに失脚した。取って代るように、忠通が再び政治の表舞台に出てくる。
「くそッ! ずる賢い兄めが・・・・・・私の周りは敵だらけか」
とも思ったが、そうでもなさそうだ。
敵の敵は味方。その図式に当てはめれば、頼長と手を組む相手は鳥羽法皇に押さえつけられている人間しかいない。
「あのお方を・・・・・・上皇様を味方にできれば」
すがる思いで、頼長は崇徳上皇に文を書いた。
保元の乱の対立構造が、この時完成した。




