忠通の失墜
栄光ある藤原摂関家。その内部抗争は、やがて骨肉の争いへと発展してしまう。
古今東西、戦争の原因は一つとは限らない。
貧困、権力、民族、宗教などなど、複数の対立条件が絡み合って臨界点に達したときに戦争という化物が生まれてしまう。戦争の種類は様々だけれど、そのなかで【保元の乱】という化け物は、平安時代を半ば終わらせるほどのエネルギーを有していた。
「乱」という言葉からイメージしがちなのは、軍団同士があちこちで野戦を繰り広げるようなビジュアルだろうか? けれども保元の乱の戦場は都の市街地とその周辺に限られている。都に住む権力者たちの、言ってしまえば個人的な対立が原因の争乱だからだ。
対立軸の一つは鳥羽法皇と崇徳院の間に発生した親子対立だ。前に記した「皇太弟事件」が具体的な出来事として既に表面化している。
もう一つの対立軸は貴族の最大勢力、藤原氏の内部抗争だ。
多岐にわたる藤原一族をまとめる首領は現在、藤原忠通が担っている。しかしこの忠通には跡継ぎがなかなか生まれない。そこで父の忠実は妥協案を考え、忠通に伝えた。
「忠通よ、弟の頼長を養子として迎えよ」
「えっ」
「お前に子ができぬなら、仕方あるまい」
「・・・・・・承知しました(それだけじゃない。父上は私の政治能力が劣っていることを見抜いているのだ・・・・・・)」
実の弟を養子にする? なんだか違和感を感じるかもしれないが、忠通と頼長は二十以上も歳が離れている兄弟だった。
聡明な頼長は成長するにつれて才覚を現した。その頭脳も行動力も、そして若さも兄の忠通を上回っている。
1150年、忠通は父の忠実に呼び出された。なんだか嫌な予感がする。
「お前、頼長をどう思う」
「え、えぇ、よく出来た弟だと思いますが」
この頃になると忠通にも子供がいたので、頼長との縁組みを破棄していた。
「わしも頼長はできた息子だと思う。だからお前、そろそろ引退して家督を頼長に譲れ」
「はい。・・・・・・はぁ!?」
更には家督だけでなく関白(貴族の最高位)の地位と内覧(行政官の役職)も譲れと、忠通は命じられてしまった。要するに政界を引退しろということだ。
父忠実としては愚鈍な長男(忠通)より、有望な三男坊の頼長に藤原氏の将来を賭けたい気持ちがあったのだろう。しかし忠通は父の命令を拒絶した。自分は健在だし、家督は自分の息子に継がせたい。
ライバルの弟に今のキャリアを継がせるのは耐えがたいことだった。
「ならば仕方ないな。今日からお前などわしの息子でもなんでもないっ!」
「そ、そんなっ」
忠通は忠実から絶縁されてしまい、藤原家の家督は結局、頼長に引き継がれてしまった・・・・・・
こうして見ると忠実、忠通、頼長という三人の親兄弟は、いわゆる「家族の絆」なんてものからはほど遠い倫理の中で生きているように見える。良く言えば個々人の理想を追い求めた男達とも言えるだろう。悪く言えば権力欲の塊だ。
もっとも当時は「やられる前にやる。やらなければやられる」という権力闘争が一般的だったから、今の感覚で彼らを責めるのは少し難があるかもしれない。
さて頼長は父忠実と鳥羽法皇の意向によって藤原家の首領になり、更には行政権を執行することができる「内覧」の地位をも獲得した。一方、兄である忠通は権力の座から引きずり落とされることになってしまった。
しかし近衛帝が若くして崩御すると、兄弟の地位は再び変動することになる。




