藤原家の憂鬱
平安貴族の最大勢力である藤原家は、皇族とまだまだ密接な親戚関係にある。
しかし上皇や法皇が政治の主役になる院政のせいで、親戚関係を利用した藤原家の権勢は以前と比べると引き潮のようにしぼんでいた。
藤原家サイドとしては面白くない時代だ。けれども皇族との絆も大事にしたい――。
「道長公の時代とまでは行かなくとも、なんとかして藤原家の存在感を出したい・・・・・・」
藤原家の統領である忠通は、そんな野望を持って娘の聖子を若い崇徳帝に嫁がせている。いずれ天皇が院政を敷く時代になったら、義理の父である自分が権力をふるいたいと腹の中では考えていた。
1140年、崇徳院の第一皇子として重仁親王が生まれた。この皇子こそ未来の天皇になるはずの子だ。しかし忠通は不機嫌だった。なぜならこの皇子は、娘の聖子が産んだ子供ではなかったのだ。
「なぜ私の孫でないのだっ!」
と嘆いても仕方が無い。当時の皇族は一夫多妻制だから、聖子だけが子供を身ごもるとは限らないのだ。
忠通と崇徳帝は、やがて敵同士になって保元の乱で争うことになる。その原因はこのころ既に醸成されていたと言っていいだろう。




