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そして、保元の乱が始まる。  作者: 仲島けい
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4歳の帝

 1119年、崇徳帝は鳥羽天皇の第一皇子として生まれた。

 母親は藤原璋子(待賢門院)である。ちなみにこの母親に仕える女性で待賢門院堀河という人が居るが、彼女も崇徳天皇と同様、百人一首に選ばれている。

 鳥羽天皇の譲位により天皇に即位したのが1123年。(細かく言うと即位の前に践祚せんそという「天皇内定」のような段階がある)このとき崇徳帝はまだ4歳の子供だった。

 物心ついた頃にはもう天皇になっていたということだから恐れ入る。


 この頃は時代区分で言うところの平安末期にあたる。そして平安末期といえば「院政」だ。


 院政とは、天皇を退位してグレードアップ(?)した上皇や法皇が、次の天皇より強い権力を持つ政治システムだ。国の最高指導者である天皇(息子や孫)を上皇や法皇(親父や祖父)が後見人として補佐する、という建前の仕組みになっている。

 もしもあなたがこの時代の上皇や法皇の立場だったら、天皇は物心ついていない子供のほうが都合がいいだろう。院政を敷くあなたは、天皇の後見人として権力をふるいやすくなるからだ。

 崇徳帝が4歳で皇位に即いたのもそういった理由からだった。この頃院政を敷いていたのは、崇徳帝の曾祖父にあたる白河法皇だ。

 1129年、その白河法皇が崩御した。

 白河法皇の院政を継承するのは息子の堀河天皇のはずだったが、この天皇は父親に先立って何年も前に崩御している。そこで孫の鳥羽上皇が次の「治天の君」として院政を敷くことになった。

 これより先、崇徳帝は父である鳥羽上皇の院政に屈して過ごすことになる。


「今は雌伏の時だ。いずれ私が院政を敷く時代が来るさ・・・・・・」

 そんな淡い野望はやがて砕け散ることになるのだが、少年の崇徳帝には知る由もない。

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