最終章:讃岐より愛と憎しみを込めて――
「あまり聞かないな。帝の配流とは」
潮の匂いが漂う鳥羽の港で、上皇は他人事のように近侍に聞いてみた。
「恐れながら、古の時代に起きた乱以来だそうで・・・・・・」
「いにしえって、どれくらい昔なんだ」
「およそ400年ぶりと聞いております」
年数を聞いた上皇は思わず笑ってしまった。
「400年ぶりとは、すごいことだな!」
近侍は顔をこわばらせたまま、何も言わなかった。
保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐(今の香川県)に流され、そこで生涯を終えた。乱が終わってから8年後の1164年。45歳だった。
上皇が讃岐でどのような生活を送っていたかについては諸説ある。有名な言い伝えは、仏教に傾倒してお経を書いた。そのお経を都に送ったら「呪詛が込められているのではないか」と後白河帝に疑われて送り返されてしまったという話だ。
それまで反省の日々を送っていた上皇は、怒ってお経をずたずたに切り裂いた。闇に堕ちた上皇は「皇族と日本を呪う大怨霊になってやる」と発憤し、やがて世を恨みながら崩御した・・・・・・。
振り返ってみると崇徳上皇は家族愛に恵まれたとは言い難い。父親の鳥羽法皇には「私の子供では無い、祖父の落子だ」と蔑まれ、弟には最期まで赦してもらえなかった。
怨霊になろうがなるまいが、皇族と朝廷に対して幾ばくかの無念があったのは事実だろう。悲愴にくれながらも上皇が静かな余生を送ったという話も、讃岐で詠んだ歌と共に伝えられているのだ。むしろこちらが実際の情景だったのではないか。
上皇が崩御してしばらくの間は、都の人たちも上皇が怨霊になってしまったとは思わなかった。上皇も頼長も戦乱を起こした罪人であるというのが、以後十年以上もの間朝廷での公式見解であり続けた。
ところが実際、数年のうちに信西が死に、後白河帝や藤原忠通の周りの人々も相次いで世を去った。さらに都では大火、クーデター未遂、流行病などの社会を揺るがす出来事が相次いだ。
事態を重く見た御白河帝とその周りの人々は、崇徳上皇と頼長の怨霊の祟りだと恐れた。次に祟られるのは自分かも知れない・・・・・・帝と周囲の人たちは精神的にかなり追い詰められただろう。
上皇に贈られた「讃岐院」という院号はやがて「崇徳院」に改められ、お宮も整備された。頼長についても官位が送られ、罪人として扱われることはなくなった。
崇徳院の怨霊がその後鎮まったのかについては、オカルティズムに踏み込んでしまうのでひとまず割愛したい。ただし事実として、京都には崇徳院を祀った白峯神宮がある。この神社は明治天皇が崇徳院の御霊を香川から移して、神として祀ったものだ。
さて、このような文章を書いている筆者だけれど崇徳院を祀った白峯神宮に参詣していない! ご本人に対して申し訳ない次第である。・・・・・・機会があれば参詣したいです。
保元の乱が終わって以降も、平安京は政治の中心だった。
やがて平家が繁栄し、壇ノ浦で滅亡し、源頼朝が鎌倉幕府を創設した。その過程で平安時代は幕を下ろして、鎌倉時代が始まった――。というのが一般的な「平安時代の終わり方」となっている。
けれども改めて考えてみると、なんとなく違和感を感じる。「平安」時代というけれど、保元の乱もその後起きた平治の乱も、さらには源平合戦も平安時代に含まれるのだ。・・・・・・平安どころか、確実に戦乱の時代じゃないの!?
ややこしいことに「中世」という時代区分になると、戦乱だらけの平安時代後期が含まれている。つまり保元の乱が起きた頃は平安時代後期であると同時に中世と被っているのだ。
時代区分とは、難しい。
武士の時代が始まると皇族は政治の表舞台から退くことになった。しかし欧米や中国大陸で起こったような革命を日本は経験することがないまま、現代に至った。
崇徳院の没後800年にあたる1964年の秋にも、天皇は日の本の元首として政務にあたっていた。けれども場所は京の都ではない。
「第18回近代オリンピアードを祝い・・・・・・」
やがて鳴り響くファンファーレ。かつて見渡す限りの野が広がっていた板東は、世界的な大都市群に変貌していた。
民たちの歓呼に沸くスタジアムを崇徳院が見たら、この時代こそがまさに平安時代ではないかと微笑んだことだろう。
了