6. 玄鳥去
「いらっしゃ……」
ドアの音に振り向いたマスターは、続く言葉を飲み込んだ。スキニ―ジーンズに空色のTシャツ姿の雀が、全身から雨水を滴らせて立ち尽くしていた。
窓際の席に案内して机にメニューを置くと、マスターは白いタオルをわたして、言った。
「とにかく、拭いて。急な雨だったよね。きょうは、彼はあとから?」
向かいのビルでは休日だというのに改修工事をしていた。その振動と騒音が、一定の間隔を置いて店内に鳴り響いている。
「たぶん来ない」
雀はそのままぼんやりと窓の外を見た。マスターは雀の向かいに座ると、優しく声をかけた。
「ケンカしたのかな」
「……」
「メールした? 家は知ってる?」
「家は知らない」そう呟くと、雀は俯いて、渡されたタオルで顔をぬぐった。
「住所知らないの? 付き合ってるのに?」
「この夏に出会って、9月18日……きょうまでは淡々と付き合う、そういう約束で」
「へえ、淡々とね」マスターは不思議そうに首を傾げた。「じゃあ、明日からは?」
「明日からは……」
雀は声を震わせた。
「彼が、全力で、わたしを守る。そういう存在になる、って……」
「素敵だねえ」マスターはにっこり笑いながら言った。「でも何でこの日が境なんだろう」
おーい、この天気じゃ無理だ。もう中止中止! 工事現場の叫び声が聞こえ、遠雷がそれに続いた。
少女は顔を上げると、じっとマスターの目を見て言った。
「お誕生日……」
「え」
「おめでとうございます」
「ああ、ありがとう。誰かにそう言われたのって久しぶりだな、嬉しいものだね」
「あの、わたし、ここにいてもいいですか。夜まで」
「夜って、何時」
「午前零時、です。そのころ会おうと、彼と約束してたんです」
マスターは眉を寄せて壁の時計を振り仰いだ。
「あと7時間もあるよ」
「かまいません」
「暇な店だから長居はいいとして、18歳未満の青少年を午後11時以降まで外出させておくというのは青少年保護条例に抵触しますからね。なんでまたそんな時間に」
「年齢なら大丈夫、18歳です。学生証だってあるし」
「じゃあちょっと見せてくれる? あと親御さんにもちゃんと言わないと」
「両親はわたしに関心なんてありませんから」雀は学生証を濡れたパッチワークのバッグから取り出すと、マスターに渡した。
「どうぞ」
マスターは渡された学生証を一瞥すると、「はい、確かに」と言った後、「え?」と驚いたようにもう一度覗き込んだ。と同時に雀はさっと手を伸ばしてあわてて学生証を奪い去った。
「きみ……」
長く尾を引いて雷が鳴った。今度はかなり近かった。ゆっくり首を振る雀の瞳には、断固とした光が宿っていた。
「ここで、待ちます。たとえ来なくても、わたしは、ここにいなくちゃならないんです」
マスターは腕組みをすると、背もたれに背を預けた。
「どういうことでこうなってるのか説明してくれるなら、9月18日記念特製のディナーに、デザートもご馳走しようかな」
雷雨は最高潮に達していた。あたりが真昼のように光ると同時に雷鳴が鳴り響き、ビルの間を稲光が走る。
帰宅ラッシュでごった返すS駅の混雑に、やがて酔客が混じり始めた。
絶えず押し寄せる人の群れは川の流れのようだった。この中から、いるかいないかわからない人間一人掬い出すのはほぼ不可能に近い。無力感がずっしりとした重みで瑞希の全身を支配する。地下道の丸い柱に背を預けたそのとき、ふいに尻ポケットの携帯が鳴った。取り出してみると、病院からだ。瑞希は急き込むように耳に当てた。
「はい、もしもし」
『桐野君だね。今、千葉の警察から電話がこちらにあった。お母さんが見つかったそうだよ』
「生きて?」思わず瑞希はたたみかけた。電話の向こうで医師が笑った。『もちろんだ』
「千葉って、千葉のどこに。どんな様子で」
『なんでも、畑で倒れているのを通行人に発見されて、大部前に地元の病院に収容されていたとか』
「畑?」
『身元確認に手間取ったらしくてね。何しろ財布の他は何も持たなかったから。意識がもうろうとしているという話だけど、熱射病と薬の副作用だろうし、命に別状はないでしょう。今こちらの病院に搬送してもらっているところです』
「ありがとうございます。あとどれぐらいでそちらに着きますか」
『1時間ぐらいかな』
「とにかく、行きます」
閉じた携帯を、瑞希は胸に抱きしめて長いため息をついた。
そして、なんとなく避けていたメールの着信確認を始めた。
……何も来ていない。
そのときになって、自分が投げかけた言葉と雀の無言が、胸に刺さった。
いくら気持ちに余裕がないからと言って、あの言い方はなかった。これまで一心に支えてくれたのに、どれだけ彼女を傷つけたことだろう。身勝手を承知で、瑞希はその場でメールを打った。
母親が見つかった。今千葉からK病院に搬送されてる。とりあえず会いに行って様子見る。いろいろテンパってて、酷いこと言ってごめんね。間に合うようなら、玄鳥去、行くから。多少遅れても行くから。勝手ばかりで、頼ってばかりで、ほんとにごめん。
移動しながら何度か画面を見たが、返信はなかった。
「安定剤追加したんでうとうとしているけど、話はできると思います。瑞葉さん、息子さんですよ」
看護師が開けてくれたスライドドアの向こうで、母はベッドに横たわっていた。
病室の白いあかりの元で見る母親はなんだか荒れ野に打ち捨てられた枯れ木のようで、その腕に刺さる点滴の管がひときわ痛々しかった。
落ちくぼんだ眼窩の中で真一文字に閉じられていた瞼が、すっと開いた。そして流れるように、黒い瞳が瑞希を捕え、ふ、と和らいだ。
「……みずき」
「うん。大丈夫?」
「みずき、いきてる……」
瑞希は泣き笑いのような顔になった。
「それはこっちのセリフだよ」
母は痩せた手で目元をこすると、恥ずかしそうに横を向いて言った。
「ごめんね。……馬鹿なことしちゃった」
二人は向き合ったまましばらく沈黙した。
「……行くなら今だって思って。でもあんな遠くまで行かなくても、考えてみたら、……近くだってよかったのに……」
「……なにが?」
母親の顔がサイドテーブルの方を向いた。ハンカチをかけた、小さな花瓶サイズの何かが、そこにあった。
「それ、とってみて」
瑞希がハンカチをとると、金色のふたのガラス瓶の中で、モンシロチョウが二羽、はたはたとはためいていた。
瑞希は目を見開き、久しぶりに見るモンシロチョウをじっと見つめた。白い鱗粉がガラス瓶の中に幽かに舞っていた。母親が背後から続けて言った。
「あの子に、あなたの彼女に、……見せてあげて。おにぎりの、お礼」
「……これを、採りに?」
「うん」
瓶の中で、はたはたはた、とささやかな羽音が続いた。
「本当にほんとうに、おいしかったの。あのおにぎり」
「……」
「もう少し涼しくなったら、ピクニック、ふたりで、いくといいわ。そのときはわたしが、おにぎり、握ったげる」
瑞希は母親に向き直り、背をかがめると唇をかみしめ、震える声で ありがとう、と言った。母親は指先で息子の頬に触れ、かすれ声で尋ねた。
「みずき。今、何時」
病室に時計はなかった。瑞希は囁くように言った。
「夜中の零時を過ぎたよ。母さん、9月19日だよ。もう大丈夫だ」
「ああ……」
瑞葉は細い腕を伸ばすと、瑞希の背を抱え、しがみついた。悲しくなるほど、弱々しい力だった。
「あの子、言ってくれた。わたしがいれば、瑞希くんは大丈夫だって、言ってくれたわ」母の涙声が胸の中から響いた。
「うん、……うん。その通りだ」
「もう、大丈夫なのね。みずき、どこにもいかないのよね」母の指先に、力がこもった。
なにか粉くさいような香りのする、骨ばったからだと、弱々しい心臓。一回り小さな人形のようになったその体を、背を、瑞希はうずくまるようにしてさすり続けた。
怒鳴っても罵っても、ここまで病んでやせ細っても、薬を飲んでも寝ても起きても、自分という存在から逃れられない、母という存在……
「ちょっと、眠いわ。寝てもいい? わたしが眠っても、あなた、大丈夫?」舌をもつれさせながら、母親は言った。
「うん、もちろん。今夜は何も考えず、ゆっくり眠って」
瑞希の手を握る母親の手から次第に力が抜けていった。静かにその手がシーツの上に落ちたのを見届けると、瑞希はサイドテーブルの蝶の瓶を手に取り、看護師に頭を下げて、病室を出た。
腕時計は、午後11時35分を指していた。
自転車にまたがり、空を見上げる。
雨上がりの夜空を滑るように流れゆく雲の合間から、まんまるな月が見え隠れしている。ときおり漏れる青白い灯りが、あたりの静寂を一層深める。風は、まだ強い。
腰を上げ、ペダルを踏み込む。深夜の国道は車もまばらで、ひと漕ぎごとに風を切る自転車は、濡れた深夜の道を疾走した。
母は生還したんだ。自分も、生きるだけだ。
向かうのは雀の居る場所。
帰る先は、彼女の視線の正面。
20分余り全力でペダルを踏むと、胸が切なさに高鳴り始めた。あと少し、あとちょっとだ。そら、駅が見えた。あの高架をくぐって向こう側に出れば、最初に声をかけられた交差点だ。その先のビルの横で光るのが、玄鳥去の看板だ。小さく灯りがついているのが見える。
窓辺の席に彼女はいるだろうか。
交差点についた。直前で信号が赤になる。瑞希は自転車から片足を地面に降ろした。
と、道の向かい側に女性の人影が近づいてくるのが見えた。
それが雀だというのは瞬時にわかった。
手足の長いほっそりしたシルエット、ジーンズに水色のTシャツが、街頭の光の輪の下に入る。
待ちきれなくて出て来たんだ。
ああ、笑ってる。よかった、笑ってる。手を振ってくれている。
瑞希も伸びあがるようにして大きく手を振り返した。そして横目で駅の時計を見た。
11時58分。
……正面に視線を戻した瞬間、瑞希は全身をこわばらせた。
雀から右に2メートルほど離れた場所で、よれた背広を着た中年の男がこちらを見つめている。
夜の闇に妙に白々と浮かぶ、その白い顔に見覚えがあった。
……伯父さん。
白い顔を光らせたまま、伯父は目を逸らさない。あたりから音が消えた。
瑞希の全身は石のように固まったまま、その場に縛り付けられた。
信号が青に変わる。動けない。伯父がこちらに向かって、ゆっくり横断歩道を渡りはじめる。動けない。雀は怪訝そうにこちらを見ている。脇の下を、冷たい汗が滑り落ちる。
……誰か。誰か……
そのとき突然、激しい突風が頭上から吹き下ろし、ビルの谷間で渦を巻いた。がしゃん、ばーん。立て看板が倒れゴミ箱が転がる音があちこちから響く。外壁工事中のビルの保護シートがぶわっと大きく膨らむ。そして一部がほどけ、内側の足場に絡み、もつれたヨットの帆のようになった。
危ない! と誰かが叫んだ
雀の真上で工事現場の足場が大きく揺れ、つなぎ目が外れ、パイプがばらけるのが見えた。
「雀走れえええ!」
自分の絶叫を聞くと同時に瑞希は自転車を放り出して駆け出した。
それからの光景はスローモーションのようだった。
雀は走らない。上を見上げ、こちらに視線を戻し、かすかに首を振る。彼女の前後に、崩れた足場のパイプが次々と落下していく。
がらんがらんがらんがらんがらん、がらんがらんがらーん。
辺りは埃と轟音に包まれ、周囲から悲鳴が上がった。
目の前の、積み重なったパイプの山に瑞希は全身を突っ込んだ。体の上に金属の部品と外壁の残骸がなおがらがらばらばらと落ちて来て、腰から下が埋まった。
身をよじって雀の服を掴んでも、積み重なった足場は絶望的に重い。指先に柔らかいものが触れる。手だ、雀の手だ。どんなに力を入れて掴んでも体が出て来ない。がれきの下に、横を向いて目を閉じた雀の顔がちらりと見える。鼻から流れる赤い血が、頬の下に血だまりを作っている。うおおおおおおおお。瑞希は獣のような声で絶叫した。視界の端で、マスターが何か叫びながら必死にパイプをかきどけている。握りしめる雀の細い手首は、細くやさしく、暖かかった。喉をひりつかせながら、瑞希は叫んだ。
すずめ、すずめ! 誰か、誰か、誰か助けてください、誰かだれか!
かーんかーん、かーんかーん。叫び声に被せるようにして、鐘の音があたりに鳴り響いた。
午前零時を告げる駅の時計だった。
倒れた自転車からいつの間にか逃げ出した白い蝶が、頭上をふわふわと横切っていった。
風はやみ雲が切れ、いま、煌煌と青く輝く丸い月が天空に君臨した。