5. 迷子
瑞季は銀行の前に立ち、改めて鞄の中を探ってカードを確かめた。
入院費は二週間ごとに払いこむことになっている。カードでもいいが、とつぜんカード所有者に万一のことあったら引き落としができない。自分に何かあっても常に家の中に一定の現金があるようにしておきなさいというのが、父親を失ってからの母親の口癖だった。
受付番号の自動発券機のボタンを押すとき、体を内側から揺り動かす確かな怖れがあった。そしてそれは形になって出てきた。
「No.918」
そのとき、いつもの怖れは激痛となり、確信に姿を変えた。
……自分は近く、あの雀と、そして母を置き去りにするのだ。そうして、この世を去る……
そのとき、ポケットの中で携帯が鳴った。呆然と取り出したその画面は、相手が雀であることを告げていた。
「……はい」
『わたし。あのね、お母さんとお話できたよ。それで、おにぎり全部食べたよ! おっきいの、二つとも。お医者さんがそっとあとで教えてくれたの、形のあるものを噛んで食べたのって久々に見たって』
「……そう。よかった。助かった。ありがとう」抑揚のない声で、瑞希は言った。
『どうしたの。……大丈夫?』
「なにが」
『声が震えてるみたい。喋り方もヘン。もしかしてまた何かあった?』
「……なんでもない」
『今どこにいるの』
「K駅前の銀行」
『ああ、そうか』雀はわが意を得たり、というように答えた。
『また数字に苛められたのね』
「そう簡単に言うなよ」
『いい? 瑞希くん。深呼吸よ、深呼吸。未来の事なんて考えても考えなくてもなるようにしかならないじゃない。今はただわたしのこと、この雀ちゃんのことだけ考えてて』
瑞希はひとつ大きく深呼吸すると、目を閉じ、雀の真っ黒な深い瞳を脳裏に思い描いた。
震えていた膝が、段々におさまってきた。
「ありがとう、落ち着いた。今から会えるかな。できれば玄鳥去とかで」
『うん』
そのころの二人のデートは、天候があれた日は大抵、最初に入ったその店になっていた。
店内にはG 線上のアリアが流れていた。
二人の姿を見ると、口元に笑みを浮かべ、マスターはいつもの窓際の席に笑顔で案内してくれた。
「ちゃんとおふくろ、会ってくれたんだ。きみを認めて、おにぎり食べてくれたんだ。それだけでも、本当にすごい。ありがとう」銀行で言ったのと同じことを、今度は心を込めて瑞希は言った。
「ぼくがたまに行っても、あんまり顔も見ないし会話にならないんだ。いつも、鬱なんて弱虫の言い訳、みたいに言ってた人だから、自分の今を見られたくないんだと思う」
「そうかもしれないね……」雀は声を落として言った。
「とにかく、9月18日を過ぎたら、母親を迎えに行こうと思う。それまではあんまり意識せず、日常を普通に過ごそうと思うんだ」
「うん、そうだね。それが一番大事だね」
「大事とかいうとまた意識しちゃうんだよな」
「じゃあ意識しないように全力でがんばろ」雀は冷たい水を飲みながら笑った。
「いつも思うんだ。ぼくにはきみがいる。でも、きみの前にいるのは、ぼくだ」瑞希はため息をついた。「きみのために、なにもできない」
「いいのよ。瑞希くんはメガネをかけて、ただ可哀想な人でいればいいの」
何か言い返したくて口を開いたとき、マスターが二人の前にアイスコーヒーを置いて声をかけた。
「きょうも暑いですね。ここで夏休みの勉強ですか」
「まさか、勉強なんてどうして」雀が答えると
「ときどきノートを広げているから」
「ああ、あれはお絵かきしりとりです」
「しりとり?」マスターは意外そうに微笑んだ。
「ここ、大人の店だし、ぼくたちいつも場違いですよね」瑞希は顔色の悪さを悟られまいと、努めて明るい口調で言った。「夜は何時までやっているんですか」
「夜はお酒が主になって、1時までやってますよ」マスターは腰をかがめて声を潜めた。「いや実はね、一部のお客の話題になってるんですよ」
「なにが?」ふたり同時に答えた。
「こういう店には不似合いなあの高校生カップルはどういうわけでここでデートを重ねてるのか、なんだか昼間見るときの雰囲気が変わっていくけど、かなりいい線までいってるんじゃないか。ほんとのところはどうなの、マスターってね」
雀と瑞希は顔を見合わせた。雀は頬を赤くして抗議するようにたずねた。
「ほんとですか?」
「冗談です」
あっさり言うと、くるりと背を向けてマスターは去っていった。
「いい年してくだらない嘘つくよね」
「きみと同じじゃないか」雀の不満顔に瑞希が微笑しながら切り返すと
「じゃあこれからも来ようよ、意地でも来つづけようよ。あ、そうだ」雀は思いついたように身を乗り出した。
「あなたの記念日のお祝い、ここでいいんじゃない? 9月19日の午前0時、日付が変わったその瞬間を、最初のデートをしたここでお祝いするの。ナポリタンとか生姜焼き定食で。どう?」
瑞希は顔を上げた。最初あった時と同じ、黒目がちの、明るい月のような雀の顔がそこにあった。そうだ。彼女は、太陽とは少し違う。明るい月なんだ。眠りについた小鳥や小動物を抱える森を照らす、煌煌たる満月……
「いいね。すごく、地味で普通でいいね」瑞希は微笑みながら答えた。
「わたし田舎カレーがいいな。あれだけまだ食べてないから」
「じゃあ、日付が変わったころ、ここで会おう」
「……あと5日ね」
そのあと、二人はすっと沈黙した。壁にかかるアナログ時計の秒針の音が、やけに大きく響いた。
「無事にその日を祝えたら」瑞希は静かに口を開いた。
「その日からぼくは、なにがあっても、きみを守る。命懸けで、そういう存在になる」
雀の笑顔が揺れて、いっそう煌煌と瑞希の顔を照らした。
その電話があったのは9月18日の午前だった。
『突然のお電話ですみません。そちらにお母様はお帰りになってらっしゃいますか』
担当医の声だった。瑞希はしゃっきりとベッドの上におきあがった。
「いえ。あの、なにかあったんですか」
『病院内のどこにも、お姿が見えないんです。朝食のあと、食後のお薬……安定剤を飲んで、病室でお休みになっているのを看護師が確認しているんですが』
冷たい衝撃が背筋を駆け抜けた。瑞希は壁の時計を見た。雀との長電話のあと未明までゲームをし続けて床についたときは空が明るかったのを覚えている。今は午前11時を回ったところだ。
「安定剤がきいている状態で、いなくなったんですか」
『日が日なので、多少多目に処方してありました。通常ならば、かなりふらつくか眠っているのが自然な状態です。携帯も病室に置いたままです』
日が日……
彼にとっても母親にとっても運命のその日だった。
『お母様の行先にお心当たりはありませんか』
「いえ……。 そちらでは、変わった様子はなかったんですか」
『お話できるような変化は特になかったですね』
「……」
『とにかく、何かあったらご連絡ください。こちらもまたあちこち探してみます』
「よろしくお願いします!」
電話を切ると、携帯を手に取り、瑞希はすぐに雀に電話をかけた。雀とは、特別にきょうという日を意識せず、それぞれ好きにすごし、日が変わるころ会おう、と約束してあった。
『はい』雀はすぐに出た。『運命の日ね。どう、がんばって淡々としてる?』
「してない。母親が病院からいなくなった」
『えっ……』
「どこに行ったかまるで見当がつかないんだ。強めの安定剤処方されてラリった状態のままで、いなくなった」
電話の向こうで息をのむ気配があった。
『それ、……かなり、かなり危険よね』
「うん。それで、きみ、おにぎりもっていっておふくろと話したよね。全部食べたと言ってたね」
『うん』
「ほかに何か特別な話をした? どうしていなくなったか、心当たりはある?」
しばし沈黙が続いた。
『……具体的には、思いつかない。ただ……』
「ただ?」
『息子の運命は、あなたには変えられないって。で、おにぎり食べながら、少し泣いてたわ』
口元を覆い、しばらく絶句してから、瑞希は続けた。
「とにかくこれから病院に行って、母の様子をいろいろ聞いてみる。それからあちこち探してみる。きょうは真夏日だし、ただでさえ弱ってる身体が暑さでやられちまう」
『……ね、瑞希くん。警察に捜索願を早めに出して、家でおとなしく待ってるほうがいいんじゃないかな』言葉を選ぶようにして、雀は言った。
「なんで?」
『あのね、……きょうは18日でしょ。それに、今は晴れてるけど、天気予報では、爆弾低気圧の影響で、午後から天候が荒れ始めるっていってたわ。だから……』
「……だから?」
『あの、あまり動き回らずに待ってた方が』
雀の言いたいことも、その心配も瑞希にはわかった。そう、きょうは18日だ。そして自分の運命を散々悲観し披露して見せたのは自分だ。それでも、母を一番に思う自分に寄り添わない彼女の態度に、瑞希の胸には言いようのない靄が広がっていった。
「きみに何かしてくれとは言わないよ。ぼくの母親のことだから、ぼくが探す」
『あのね、お母さん大人だし、そう大ごとにはならないと思うの。なんなら、わたしが』
「きみはいいよ、ぼくの親の問題なんだから。夜までに見つからなかったら、例の待ち合わせの約束もなしだから。たぶんメールやり取りしてる余裕ないんで、悪いけどしばらく連絡してこないで」
一方的に電話を切ると、駄々っ子のような自分の怒りに無理やり蓋をして、瑞希は財布と携帯を握り、玄関のドアを開けた。
「なくなっているのは財布と帽子ぐらいですね」
到着するとすぐ、初老の主治医が母親の個室に案内してくれた。
白い壁に囲まれた狭い部屋の窓にはブラインドが降りている。サイドテーブルにはコップと歯ブラシ、タオル、そして置いていったままの携帯があるきりだった。ロックをかけられているので中身は見ることができない。
「母は……最近はどんな様子でしたか」瑞希は室内を見渡しながら尋ねた。
「波がありましてね、ひどく気が立っているときもありましたね。デイルームのカレンダーを破り捨てたり、売店で求めた品が偶然918円で、店員につかみかかったことなんかも」医師はブラインドを上げながら続けた。「それでも、あのお嬢さん、米好さんという方が来てからはなんだか雰囲気が変わって、あまり荒れた様子を見せなくなっていたんです。それからは何か、遠くを見る感じになって、よく中庭を散歩していましたね。考え込むようにして」
ときおり眺めていた本は主に花や自然物、虫や動物の写真集や画集だという。微妙に最近の自分と似ている、と瑞希は感じた。数字が出てくるような書物はおそらく、すべて怖かったのだ。
医師は瑞希を中庭に案内した。
「お母さんはよくこの道を散歩なさってました。中庭にはいちおう看護師を置くことにしていましたが、急患で手を取られて、……その隙に出られたとしたら、申し訳ない」
「いえ……」瑞希は雀の言葉を思い出し、二人で語らったというその風景を頭の中で再現してみた。だが風景はかたちをなさず脳内で陽炎のように霞むばかりだった。医師は声を潜めて続けた。
「後で聞いたところでは、帽子をかぶったご婦人が通用門から出て病院前のバス停に向かっていったのを、植木職人さんが見たというんですよ」
「えっ……」
「お母さんだとはっきりしているわけではないですが」
瑞希は中庭から外に通じる小さな門を見やった。
「……バス停はどこ行きでしたっけ」
「ここを通るのはS駅行きですね」
「S駅……」
JRや私鉄の各線が乗り入れる都心の駅。何一つ行先に思い当たらない。瑞希は額を抑え、無意識に首を振った。
日暮れまで音沙汰がなければ捜索願を出す、と決めて病院を出たときは、明るかった空の半分はどんよりとした雲に覆われ、冷たい風が吹き下ろしていた。
考えまいとしても、雀と初めて出会った時の異様な空が脳裏に展開する。
……夕焼け空を覆い尽くそうとしていた、真っ黒な雲の進軍。
遠雷が鳴った。最初より最後のほうが野太く、なかなか吠え終わらぬ獅子のような、長い長い雷鳴だった。病院を囲む柳の木がしゃらしゃらと頭を振り、冷たい風が通りを吹き抜けてゆく。
瑞希は大股で病院の敷地を出ると、いつしか大通りを走り出した。
……瑞希、やっとみつけたわ。
商店街で、迷子になった自分を抱きとめた母の声と姿がふいに蘇る。
どうして走るの。おかあさんがみつからないからって、闇雲に走っちゃだめよ。おちついて、周りの人に聞くのよ。ここはどこですか、ぼくはまいごです、って。
……自分がこの世を突然去り、雀が、母が置いて行かれる。
そんな想像しかしていなかった。
母が姿を消し、自分が置いて行かれる。こんな事態をまったく予想していなかった自分はなんておめでたいのだろう。
一人きりの息子がいつか運命に運び去られる。自分はこの世にひとり、取り残される。
母はずっとそんな未来を思い描き、恐れ続けていたのだ。
その恐怖の前に立ちすくんでいることに耐えられなくなって、暗雲のもとへ飛び出したのだとしたら……