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つばめ さる  作者: pinkmint
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4. 夜の観覧車

 次に二人が会ったのは最初のデートから10日後だった。

 会おうと決めた日を、瑞希のほうから先延ばしして来たのだ。

 メールで知らせて来た理由は、「母親の急病」だった。

 

 待ち合わせのカフェは薔薇のガーデンに向けて大きくガラス窓がはめ込まれている。窓の向こうに揺れるブルー系の薔薇を、雀は一心に見つめていた。

 視界の端に瑞希が立っているのにはっと気づくと、雀ははにかんだような笑顔を浮かべた。

「ごめん、気づかなかった。この窓、開かないかなと思って」

「開けると暑いよ。きょうの最高気温は35度だって」藤椅子に腰かけながら瑞希は言い、注文を取りに来たウエイトレスにアイスティーを注文した。

「うん、暑いよね。でもいま、あの薔薇の匂いが嗅ぎたい。ブルーの薔薇って、しんと冷たいような香りがするの」

 雀はレース地の黒いワンピースを着ていた。見るからに高そうな素材でできた繊細なその服は、肌の白い雀によく似会っていた。

「で、お母さんの具合、どうなの」無言のままの瑞希に雀は聞いた。

「入院することになった。ていうか、もう、してる。体じゃなくて、頭のほうの」瑞希は淡々と答えた。

「え……」

「9時18分だったんだ」そう言って、瑞希は窓の外を眺めやった。

「9月で終わるからもう自由にしてくれってうっかり言っちゃったんだ、ぼくのすべてが終わるからって。おふくろはすぐに意味を察したと思う」

「わたしのことも言ったの?」雀は心配そうに口を挟んだ。

「言ってない」瑞希は即答した。「とにかく予備校にはもう行かないって宣言して、もちろんおふくろは受け入れなかった。で、頭に血が上ったんで伯父の夢のことまで話した。そのとき、なにかの拍子に一緒に窓の外に目を向けた。あのタワーのでかい時計が目に入ったんだ。9時18分。きっちりそこを指してた」

「……」

「おふくろはいきなり大声で叫んで、テーブルの上の花瓶を窓に投げつけた。そして座り込んで頭を抱えて大泣きし始めたんだ。手もガラス片で切ってるし、あんまり様子がひどいんでタクシー呼んでどっか病院へ連れて行こうとしたら、かかりつけがあるっていうからそこへ」

「かかりつけ?」

「おふくろは、長いことぼくの知らない間に通院していたんだ」

 瑞希はため息をついた。

「大きな総合病院の精神科。初めて聞いた。そこで担当医から始めておふくろの話を聞いた。数字にこだわり続けてだんだん追い詰められていたのは、母のほうだったんだ。もう何か月も、薬に頼らなければ眠ることも働くこともできないぐらい。それでもぼくのためを思って、懸命に押し隠してた。そこへぼくが、爆弾を落とした」

「……」

「もう、取り返しがつかない」

 窓がカタカタと鳴って、窓辺の薔薇が突然の風にてんでに頭を揺らした。水やり直後だったのか、水滴がパラパラと窓に散った。薔薇の花壇の向こうはカフェの駐車場になっていて、水色の車が静かにバックで寄ってくるのが見える。自然にナンバープレートが目に入った。

 

 **918 つ 2016


 二人は絶句した。先に口を開いたのは瑞希だった。

「9月18日だけじゃなく、2016までついてきた」

「瑞希くん……」

「これでも、気のせい? ただの偶然?」

「……」

 瑞希は窓の外に目をやったまま、かすれ声で続けた。

「世界はだいぶ前から暗号をぼくと母親に送ってる。意味のない出来事なんてない、それはみんな、お前は9月18日に死ぬ、という運命をぼくに忘れないようにさせるためなんだ。神様や天にとってそれがどんな意味を持つかなんて知らない、でも、ぼくにとってそれが現実なんだ。ぼくにとって」

「わかった、信じる。わけがわからないけど、あなたは何かの運命の真ん中にいる」

 雀は瑞希の手の上にそっと自分の手を置いた。

「そしてあなたもお母さんも頭がおかしいというわけじゃない」

「信じてもらっても、どうにもならない」固い声で瑞希は答えた。

「わたしがそばにいて、ずっと見てる」

 瑞希は青ざめた顔を上げて、雀を見た。

「おもしろがりで非情だって言ったよね。自分のこと」

「言ったわ」

「……今もおもしろい?」

 雀は手に力を込めて、瑞希の冷たい手を握った。手のひらには熱がこもっていた。

「ぞくぞくしてる」

 捕えがたい黒目がちの少女の瞳の奥には、瑞希の知らない炎がともっている気がした。

 瑞希はゆっくり唇を開き、そっと閉じた。

 いま、きみに、キスしたい。とっても。そう言ったら、彼女はどうこたえるだろうか。

 ほかに、言いたいことはないのだ。短い時間の中で、思うことだけをまっすぐにかなえながら、前に進みたい。これは、我儘だろうか。きみの体温を感じたいんだ、いま。

「……どこへ行こう、これから」少年はかすれ声で言った。

「夜景を見たいな。高いところから」少女はふわりと答えた。

 そうして日が暮れるまでの時間、二人は迷子のように夏の街をさまよい歩いた。

 フリースペースのある図書館に入り、植物図鑑を眺め、メモ帳を広げ、お絵かきしりとりをして時間をつぶした。

  

 ……たぬき。たぬきってこんなおなかでてるっけ、でもこれで、たぬき。


 じゃあ、ぼくはこれ。わかる?


 なんなの、これ。ばった?


 きりぎりす。くつわむしとの違いが難しいんだ。


 ちがいなんてわからないもん。でも、虫の絵、うまいなあ。じゃあ、わたしはへただからかきやすいやつ。


 スイカだね。じゃぼくはこいつ。細部に自信あるんだ、これは血を吸ったあと。


 モスキートだな。じゃあおなかを赤でぬっちゃえ、ぐりぐり。


 蚊の小さなお腹に赤い丸を描きながら、雀は言った。


 ……この色はこれから、おなかの中で、いのちになる。

 おかあさんの、だいじないのちに。


 午後7時。

 二人は直径115メートルの観覧車の中にいた。

 東京タワーにスカイツリー、さらに東京ゲートブリッジとレインボーブリッジが、暮れなずむ空のなかに光の衣装を点滅させ始めていた。行方も定めず夏の街をぶらついた二人は、エアコンのきいた夏の観覧車の中でも、まだ汗のにおいをまとっていた。

「街は光、海は真っ暗」外を見ながら、雀は歌うように言った。

「でも、海の中のほうが、命は多い。もし命のすべてに夜光虫みたいに光が宿っていたら、この街なんか比べ物にならない」瑞希が答えた。

「よくできました。ロマンチック」雀は無邪気に手を叩いた。

 そのあと、会話のない時間が続いた。語りたいこと、思うことは心にあふれているのに、二人の中で何一つ、思いは形を成さない。海の暗さと街の灯りが、くっきりとした境界を描きながら眼下に広がってゆく。

「負けちゃだめよ」

 瑞希の瞳を見つめながら、雀が囁いた。

 瑞希は無言で頷いた。

 二人の乗る観覧車は頂上に届こうとしていた。

 頭の上にほかの観覧車が見えなくなったそのとき、二人は唇を重ねた。はやる動悸と血脈の流れが二人の体を揺らし、熱い息が互いの頬に触れた。互いの口の中で触れ合う歯が、かちかちと小さく音を立てた。

「ぞくぞくする」瑞希はそっと囁いた。「なんだか、熱があるみたいに」

「わたしも」耳元で少女は言った。「わたしたち、生きてるんだね」

 点滅する光の海の中をゆっくりと観覧車は下降してゆく。少年の両手の中で、少女の体は真冬の小動物のように震えていた。瑞希はその震えがおそろしくて、さらに両手に力を込めた。少女は両手で少年の背中にひしとしがみつき、それでいて母が幼子に子守歌を歌うように呟き続けた。

 

 だいじょうぶ、だいじょうぶ、わたしがいるから、わたしがいるから……

 

 繰り返すその甘い囁きを、果たして耳から聞いたのか体の内側から聞いたのか、あとになっても瑞希は思い出すことができなかった。だが確かにそのリフレインは、繰り返すさざ波のように、少女の魂から少年の魂へあたたかく流れ続けたのだ。


 8月の中旬を過ぎると、立て続けに台風が日本に上陸した。

 南の海で生まれた台風たちは、沖縄の南の海上でかっきり右へ曲がり、あるいは太平洋を迷子のように迷走し、勢力を上げては日本列島を目指した。

 台風と台風の短い合間も、日本中に雨が降り風が吹き荒れた。二人はそれでも時間を惜しむように会い続け、会うと必ず手をつないだ。髪を乱して歩む道みち、花は散り、木の枝は折れ、(さなぎ)から出て来たたばかりの鮮やかな蝶々が風に押し流されていく。雀は目にした蝶の名を瑞希に問い、瑞希はすぐに答えた。   

 ツマグロヒョウモン、アサギマダラ、アオスジアゲハ。

 ふたりはただ一心に目を開けて、二人で見つめる風景すべてを心いっぱいに詰め込んだ。


 その日は曇天だった。市内で一番広い総合病院の北の端の、ロの字型をした白い病棟は、無言で夏の風に吹かれていた。中庭をぐるりと囲むポプラの木陰には細いレンガの道が蛇行して続き、その内側にはペチュニアやサフィニアが群れ裂いている。つばの広い帽子をかぶり、麻のカーディガンを羽織って、サングラスの女性がふらりふらりとレンガの道を、自分の影を追うように歩いていた。その足も腕も、竹のように細かった。

「あの」

 ふいに背後からかけられた言葉に、ベージュの帽子の揺れが止まった。

「桐野瑞葉……さんですか」

 女性はゆっくりと振り向いた。

「……どなた」

 二人の間を、ひらりふわりとオレンジ色の蝶々が飛んでいった。


 デイルームのガラス窓にはカラーテープで花や鳥が描いてあり、壁際にはカラフルな絵本や写真集が並んでいる。中庭にもこの空間にも、監視するように白衣の看護師がたたずんでいる。白い四角いテーブルを挟んで、ふたりは灰色のソファに座った。雀はオレンジ色のポットを出して、水出しのジャスミンティーです、と言いながら、バッグから出したプラスチックのピンクとオレンジのコップについで、自分の前と瑞希の母親の前にひとつずつ置いた。

「7月の終わりあたりから、瑞季くんとお付き合いさせていただいてます」

 母親はコップを手に取り、黙ったままジャスミンティーを一口飲んだ。

「いろいろ、たいへんだったこと、あの、聞いてます。そして、でも、わたしといると、瑞希くんは元気です。そのことだけ、わたしの口からお伝えしたいと思って」

 重そうなサングラスが、白い頬に影を落としていた。顔を俯けたまま、母親は口を開かなかった。雀は構わずに続けた。

「あの、さっきわたしたちの目の前を飛んでいったオレンジの蝶々、いましたよね。名前、ご存知ですか」

「……いいえ」母親は怪訝そうに答えた。

「ツマグロヒョウモン、です。瑞希くん、とても物知りで、何でもすぐ答えられるんです。もともと南西諸島とかにいた南国の蝶々で、だんだん北限が上がってきてるって。わたしが、そういえばきれいな蝶々が最近増えてるよねっていったら、でも、モンシロチョウのほうが好きだって。キャベツ畑がだんだん都会からなくなってるから、あまり見られないのが残念だって、言ってました」

 雀はがさがさと布のパッチワークのバッグを探り、赤いバンダナの包みをひとつ、テーブルに出した。

「それで、ホントはわたしもモンシロチョウが好きなのっていったら、キャベツ畑か菜の花畑のあるところに行こうかってことになって、そしたら房総のあたりかなって。それで、決めたんです。じゃあ今度行こう、菜の花畑にピクニックに。美味しいお米と美味しいお塩でおにぎり握って、あんまり料理できないけど卵焼きやいて浅漬けもつけて」

「いつもふたりで、そんな話をしているの」瑞希の母は意外そうに言った。

「はい、もうなんかそんな話ばかり」雀は首を傾けて笑った。

「で、こんなに暑いのに菜の花畑になんか行ったらおにぎりが腐るし暑くて死ぬって、瑞希くんが。第一今菜の花の季節じゃありませんよね。でもとりあえず、二人でおにぎり握って、とてもおいしくできたんです。で、お母さんに届けたいって言ったの、彼なんです。入院してからほとんどなにも食べてないって聞いてるって。で先週断られて、めげずに今週も」

 テーブルの上でコップを握る母親の手は、かすかにふるえていた。

「瑞希くん、お母さんに近寄ると、悪いとこばっかり共鳴しそうで怖いって言って……。あまりお見舞いに行ってないって言ってたけど、ここに来たくないわけじゃないんです」

 桐野瑞葉はバンダナの包みに痩せた手を伸ばした。

「おにぎり、食べていただけますか」

 尖った顎が、かすかに頷いた。雀は声を弾ませた。

「よかった!」

「あなたは怖くないの」

 突然の語り掛けだった。

「あの子の恐れていることが、あなたは怖くないの」

 サングラスをかけたまま、母親はこちらを凝視している。

「あの子の背負っているものは変えられないわ。どんなに思ってくれても、誰にもどうにもできない。どうにも」

 悲痛な色合いを含んだ、断固とした口調だった。だがその細い肩は小刻みに震えていた。窓からの陽射しがやつれた頬の窪みに影を落としている。雀は背筋を伸ばしてまっすぐに母親の顔を見た。そして、凛とした声で言った。

「わたし、彼と会って安心したんです。わたしの居場所が見つかったって。どんなことになっても、後悔なんてしません。

 そして瑞希くんも、わたしがいれば、大丈夫なんです」           

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