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つばめ さる  作者: pinkmint
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3. 温室と電波塔

 最初のデートは、新宿御苑だった。

 植物が多いところがいいな、と雀が言い、じゃあ新宿御苑はどうかなと瑞希が答えた。大きな温室があるよ、蘭やサボテンや多肉植物が好きなんだというと、雀は、わたしも大好き、と目を輝かせた。

 

 新宿駅南口の改札は人でごった返していたが、瑞希はすぐに彼女を見つけることができた。

 白地に黒の大きなドット模様のワンピース、真っ黒なショートヘアに白い顔。少女の姿はまるで人の波の間を揺れながら飛んできた蝶のようだった。雀は弾んだ声でまっすぐに呼びかけてきた。

「お待たせ」

「ぼくも、今来たとこ」不器用に言いながら、瑞希は改めて少女の姿を見廻した。

「へん?」

「いや、そうじゃなくて」自分の視線に気付いて、瑞希は口ごもった。「元気な服だね。すごく似あってる」

「遠くからでもわかるようにしたの。途中ではぐれないように」雀ははにかみながら言った。

「はぐれる?」

「わたしすぐ迷子になるから」

 瑞希はあたりの人波を見廻し、そっと手を少女の手元に伸ばした。

 けれどその手を握りこぶしにしたまま、ただ肩を寄せ、並んで人の群れに乗って歩き出した。

 

 夏の公園に、人の姿はまばらだった。雲は風に乗って太陽の下を忙しく流れ、明と暗をかわるがわるきらめく樹木の上に落としている。

「親は何も言わなかった?」

 入場料を払い、木陰の道をたどりながら瑞希が遠慮がちにたずねた。

「何って?」

「普通、高校三年の夏休みって受験の正念場だよね。こんな時に誰とどこ行くのとか」

「ああ、それ」雀は足元に視線を落とした。

「うちは女子大付属の高校だしそこは関係ないの。両親二人とも医者なんで忙しくて娘なんて構ってる暇ないし」

「へえ、すごいね。二人とも?」

「母親が外科、父親が内科」つまらなさそうに付け加えると、雀は瑞希の顔を見た。

「瑞希君のほうこそどうなの? 有名な進学校よね」

「学校名言ったっけ?」

「あの日着てた制服のブレザーのライオンのエンブレム、T高校のでしょ」

 瑞希は目を丸くして笑ったあと、続けた。

「母親が勝手に決めた高校だよ。まあ、出かけるときは適当に嘘ついてるから」

 そしてメガネの中心を指先で押しあげた。

「父が死んだ後母親が気合入れて干渉してくるようになってさ。一応高校は母親の期待通りのところに入れた。でも、今年の正月の……夢のことがあった後、正直大学受験とかどうでもよくなっちゃったんだ」

「夢のこと、お母さんには言ったの?」

「それは言ってない。おふくろは、泣きごとや愚痴を言ったら即負け組って信念の人だからね。夢見て後ろ向きになったなんて病気扱いしかされないよ。かたちだけ予備校に登録してるし、たまに通ってる」

「たまに、なんだ」

「小テストがあったり課題出されたりしたらまあ顔出して一応点数はクリアしてるんだけど、もうそろそろ限界かな」

「限界って……」

「もう7月だし。体内時計と脳内時計がさ、磁場に入ったみたいにぐるぐるし始めて、気持ちがついて行かないんだ」

 温室の外観は優雅な骨組みに沿ってガラスばりの壁面が曲線を描いていた。中に入るとふわりとシトラスの香りが二人を包んだ。

 順路は、熱帯の植物、熱帯池沼の植物、熱帯低地の植物、乾燥地の植物と植生に分かれて、むっとする南国の空気の中、緩やかなアップダウンを描いて続いている。

「マルハチ。こんなにおっきい木なのに葉っぱが羊歯みたい。なんでこんな名前なんだろ」

 熱帯の植物が葉を重ねるエリアで、雀は上を見上げながら言った。

「羊歯の仲間なんだよ。幹にある枝痕が、〇に八の字かいてさかさにしたみたいだからマルハチ。ヒカゲヘゴともいう」本でも読むように、瑞希は説明した。

 バナナの木には、緑の実が重くたわわに実っていた。母親に連れられた幼児が何層にも重なった実を指さして、見て、バナナだバナナだ! とはしゃいだ声を上げた。子どもを眺めながら、雀は言った。

「バナナの実を見ると、妙にうれしくなるよね。植物園でも、バナナのところで必ずちいさい子が興奮するじゃない。パパイヤとかコーヒーの実だとああはならないよね。どうしてかな」

「どうしてかわからないけど、バナナって陽性の木だって感じはするね」生真面目な顔で少年は答えた。

 半分干からびたような葉っぱを砂の上に元気なくはわせる、奇怪な植物を見下ろしながら、雀は展示してある植物の名を読んだ。

「キソウテンガイ?」

「ナミブ砂漠の生物で、生まれてから死ぬまで一対のひらひらした葉っぱを伸ばし続けるんだ。砂漠の地下水を吸い上げるため根っこは10メートルぐらいまで伸びるんだって。それで、1000年から2000年は生きる」

「2000年? うそみたい」心底驚いたように雀は言った。「それだけ長いと、かえって生きものって気がしないね。化石か、鉱物みたい」

「……何で生まれてきたんだろうとか、死んだらどうなるんだろうとかごちゃごちゃ考えてる人間のたいがいがたかだか100年も生きられないのに、なんにも考えず葉っぱ伸ばしてるだけの植物が1000年も生きるんだ」瑞希は自分に向けて言うように呟いた。

 雀はじっと砂漠の孤独な植物を見つめて、言った。

「バナナはきっと、自分の実が、時がたつと甘く熟するってことを知ってるね。子どもが、その実を好きなことも」

 二人の頭上で、細かい三角の枠で区切られたガラスが時折きゅるきゅると音を立てて開閉した。

 

 蒸し暑い温室を出ると、夏の風でさえ涼しく感じられた。少し歩くと、目の前に広々とした芝生が広がった。ユリノキや春楡などの巨木が緑の絨毯のあちこちに影を落とし、ぐるりを濃い緑が囲む。その向こう、代々木方面に、アールデコ風の巨大な塔が見えた。

「この景色、なんだかセントラルパークみたい。広い芝生と、あの塔のおかげで」雀が指さすと

「ドコモタワーだね。15階まではオフィスが入ってるけどそこから25階までは機械室でその上はがらんどうの電波塔なんだ。ぼくは嫌いだな、あれ」視線を逸らして瑞希が答えた。

「なぜ?」

「理由はないけど。なんとなく、見るのが怖いんだ」

「ふ-ん……」

 少し歩くだけで汗が吹き出る。二人は屋根付き休憩所のベンチに座り、売店で買ったアイスをなめた。一つはなれたベンチで、老夫婦が肩を寄せ合ってシャトルポットに入ったお茶を飲んでいる。その様子を目の端で見やりながら、雀は瑞希に尋ねた。

「いつもひとりで、植物園にきてるの?」

「そうだよ」

「だから何でもよく知ってるのね」

 手元のアイスをひとなめしてから、瑞希は言った。

「いつも頭の中で自分と会話してた。それで頭の中が言葉でいっぱいになってた。破裂しそうになるぐらい。でもきょう、気持ちを外に出したら、きみがすぐに思いがけない方向からポンポン打ち返してくれて、なんか、……一人で見るより、とても、楽しかった」

 雀の頬が朱に染まった。二人はしばらく黙ったまま、アイスの下のコーンの部分までガリガリとかじった。

「いろいろ、その、不慣れでごめん。ぼく、デートとか初めてなんで」瑞希が申し訳なさそうに言った。

「わたしもよ」

「え?」瑞希は驚いたように首をかしげて雀を見た。

「なにが、え、なの?」

「いや、ぼくなんて見たとおり地味だけど、きみは……その、誰とも付き合ったことがないなんて不自然というか」雀のなめらかな白い肌と濡れたように光る大きな瞳から微妙に視線をずらしながら瑞希は言った。雀は肩をすくめると、コーンを包んでいた紙を手の中で丸めた。

「わたし、嘘吐きなの。だからすぐ人に嫌われるの」

「うそつき?」

「あ、デートしたことないってのは本当。

 ていうか、小学校の時仲良しの男の子と学校さぼって探検ごっこにいったことはあるよ。その子転校生で、またすぐいなくなったけど」

 雀は幾分声のトーンを落とした。

「ひとつ言い訳するなら、両親がとにかく忙しくて、シッターさんが小さいころから面倒見てくれたの。でも、家にいつも親がいないのはやっぱり寂しかった。両親は仲が悪くて顔あわせるとケンカばっかりしてたし、一家で出かけるなんてほとんどなかった。で、小学校でみんなが親と旅行いったとか遊園地いったとか楽しそうに話してると、わたしも首突っ込んで話あわせちゃったのね。そこうちも行った、こないだそこも行ったって。それが丸ごとボス格の子にばれちゃったの。

 ある日みんなの前で、指さして糾弾されたの。あんたのお母さんにきいたもん、外国なんていったことないって言ってたもん。遊園地も海もいってないって。うそつき。うそばっかりつく子はそのうちろうやにはいるんだよ。

 うそじゃないもんって強情張ってるうちみんなわたしを無視するようになって、そのまま開き直って孤立しちゃったの。今度はうちに帰ったら嘘をつくようになってた。学校たのしいよ、お友達になってっていろんな子から言われてうるさいから口きかないようにしてるの。クラスの男子がわたしのこと好きだって手紙くれたけど捨てちゃった。こんど〇〇ちゃんの誕生日パーティーに行くからプレゼント買わなきゃ、お金ちょうだい」

「そんなに次々に?」呆れたように瑞希は言った。

「うん。自分をみじめな子だと思われたくなかったのかな。

 でも親にとってはわたしが寂しかろうがいじめられていようがどうでもよかったのよ。いがみ合うのに忙しかったからね。

 小学校6年の時かな、とにかく壮絶な夫婦ゲンカがあって、怖くて廊下で泣いてたら、父がバターンって出て行ったのね。急いで居間に入ったら、母はソファにうずくまってた。大丈夫? って聞いたら、腫れあがった顔で言われたの。……あんたさえ。あんたさえいなきゃ離婚できるのにって。

 それからはもう、親なんて他人だと思うことにしたの。ただもう、早くひとりでも生きていけるようになりたかった」

 言葉が途切れ、甲高い鳥の声が空の高みに響いた。

「それは、なんていうか、辛かったね……」

 暗い声で答える瑞希の顔を見て、雀はふ、と笑った。

「でもね。メガネ君の前では、昔から正直になれるの」

「メガネくん?」

「クラスで勉強ばかりして男の子の群れから孤立してるメガネ君。よくいるでしょ、静かで存在感のない子。て、初恋の、転校しちゃった男の子がそうだったんだけどね。とにかくそういう男の子見るともうキュンキュンしちゃって。そういう子が、怪我とかして包帯巻いてるともう、一発でだめ」

「怪我してると……?」

「うん。自分からは反撃できずに、ただ殴られてるタイプの子が好き」

 瑞希はしげしげと雀を見た後、慎重な口ぶりで聞いた。

「じゃあ、例えば映画かドラマみたいに、二人で歩いてて街角でチンピラに絡まれたら……」

「戦ってくれなんて言わないよ。人を殴れないほうが当たり前だもん。ただわたしを捨てて逃げないで、一緒にあざだらけになってくれたら、それだけですごく感激すると思う」雀は笑いながら答えた。瑞希もつられて微笑みながら、それを聞いて安心した、と言った。

「もうひとつ、聞いていいかな。きみが嘘をつくとき、どういう特徴があると思う?」

 雀は斜め上を見てしばらく考えた。

「少し早口になるかな。それ以上は自分でもわからないわ。でも」まっすぐに瑞希の目を見ると、ゆっくりとした口調で続けた。

「大切な人には、もう、嘘はつかないつもり」


 玄関のドアが開く音がした。マンション特有の、重い金属音だ。

「ああ、暑かった。遅くなってごめんねえ、瑞希。駅ビルでお惣菜いくつか買ったから、きょうはそれで勘弁して」スリッパの足音が近づいてくる。

「あら?」ダイニングを覗いて、母親は心底驚いたように声を上げた。「どういうわけかしら、いい匂いがすると思ったら、うちの少年がご飯を作ってるわ」

 ネイビーブルーのエプロンを身につけて母に背を向けたまま、瑞希は言った。

「ちょっと暇だったもんで。冷蔵庫開けたら、卵がたくさんあったから」語尾を濁してフライパンの中味をかきまぜる。山芋、ひじき、丹波シメジを刻んだものが混ぜられた卵液が、くつくつと甘いにおいを発し、スクランブル状に固まりかけていた。

「すごいじゃないの。どれどれ」母親はいそいそとテーブルスプーンでフライパンからひと口分掬い、ふうふうしながら口に含んだ。ふわりとしたボブへアに白いブラウス、タイトな黒のスカートの母は、年齢よりずっと若く見える。

「うん、すばらしい。上出来!」そして大げさに付け加えた。「こんな日が来るなんてねえ。生きててよかったわあ」

 その日の夕食は、母親の買ってきた酢豚とおこわ、そして瑞希の作った卵焼きだった。母親は美味しいおいしいと卵焼きばかりを食べ、惣菜には申し訳程度にしか箸をつけなかった。

 二人きりの食事が終わると、自分の皿を重ねながら、瑞希は言った。

「話したいことがあるんだ」

「なあに、改まって」流しの皿を湯ですすぎながら母親は答えた。

「この夏、ぼくは好きに過ごす。好きなことしかしない」

「どういう意味?」

「ぼくはもう、勉強しない」

 水を止めると、母親の真面目な顔がこちらを向いた。

「……勉強しない?」

「もう予備校に行かない。行っても無駄だ。今はしたいようにする。この夏は、やりたいことしかやらない。悪いけど、そう決めたんだ」

 母親は皿洗いをやめ、手をタオルで拭い、ダイニングテーブルに来て瑞希の向かいに座った。

「瑞希。……予備校で、なにかあったの?」

「ごめん、予備校はしばらく行ってない」

「なんですって?」

 そのまま母親はしばらく言葉を失っていた。大きく息をつくと、ゆっくりと問うてきた。「いつからよ?」

「ここのところずっと。ごめん、とにかく、9月までぼくを自由にして。それからまた考えるから」

「自由? 自由ですって?」

 怒ったとき特有の腹式呼吸の太い声が室内に響いた。

「昼も夜も働いて買い物して洗濯してご飯の支度してあんたの心配して、自分の体を構う暇もありゃしない。自由をくれ? それは、こっちのセリフじゃないの?」

「だから、母さんも自由になっていいよ。ぼくのことは考えなくていい、掃除もしなくていいし食事もきょうみたいにぼくが」

「そういうことを言ってるんじゃないでしょう!」

「9月までなんだ。今年の9月ですべては終わるかもしれない。だったらそれまで少しは人生を楽しんだっていいじゃないか。嘘をついて適当にごまかすことはできるよ、でもぼくはもう嘘はつきたくないんだ」

「何が終わるっていうのよ?」

「わかってるだろう、ぼくの人生と、なにもかもがだよ」

「どういうわけでそんなことを決めつけるの! 終るなんて誰が一体」ひきつった声が少年の言葉を遮った。

「伯父さんだよ。夢の中でカレンダーを指さすんだ、何度も見た。それは今年の」

 ばん! 母親が平手で打ったテーブルの上で、花瓶の花が飛びあがった。

「馬鹿なことを言うんじゃないの!」

 そのとき、何のタイミングか、ふと二人同時に窓の外を見た。

 正面にはアールデコの電波塔がそびえ立っていた。巨大な時計が光りながらこちらを見ている。

 

 その瞬間、無言の部屋を、母親の鋭い悲鳴がナイフのように切り裂いた。




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