野良猫の落語
正午前、シャム猫アムはいつものように神社の軒下で惰眠を貪っていた。
「アムちゃん、アムちゃん」
聞き慣れた声が聞こえた気がして目を開けると、茶トラのラーが鳥居を抜けて走り寄って来た。
「今日の餌場は、あんたとこじゃないよ」
「アムったら、いつでも食べることばっかりなんだから。寝て食べて、寝て食べて、31歳にもなって、そんなグータラしてたら駄目じゃない」
一昨日の昼食後「猫の品格」をゴミ箱にポイしたと思ったら、今日はもうタメ口に戻っている。
「そんなに慌てて何の用?」
アムはまだ眠り足りないように、寝起きの眼をこすった。
「隣の家に飼われていた犬だけどさ、今何処にいると思う?」
「知らないよ、そんなこと」
アムは児童遊園の滑り台の下でうずくまっていた、寂しげな犬の姿を思い出した。
誰かの通報により保険所に連れて行かれるには、充分な時間が経過していた。
「今日から、近所の家で飼われることになったの」
「ふーん、良かったじゃない。うるさく吠えられるのは鬱陶しいけど」
「どうしてそんなことになったか、聞きたいでしょ?」
返事を待つまでもなく、ラーは既に高座に上がった積もりになっていた。
「ええ、まー」
「プキャッ」と咳払いをしたのを合図に、ラーの落語が始まった。
えーっ、ある家に犬年齢で24歳になったばかりの白い雑種が飼われていたんですな。だから名前は「シロ」大きさはまあ、秋田犬の三分の二くらいでしょうか。三河犬のようでもあるんですが、血統書なんて肩書きがないもので、血統書がないことがまあ言えば、雑種の証明ってことでしょうか。
それが、ある草木も眠る夜のこと、ってんですから午前二時頃ですかねえ、家の前に4トントラックが止まったかと思うと、ご主人様たちがせっせと家財道具を運び出して、最後にシロの首輪を外すと、門を開けっ放しにしたまま、自家用車に乗ってトラックを先導するように、走り去ってしまったんですな。まあ、よくある夜逃げってやつですか。
その後シロはどうしたかって?
そりゃもう、長い間飼い犬生活に馴らされていた犬ですから、ただならぬ出来事に心中穏やかでいれる訳もございません。夜が明けるまで飼い主の帰りを待って、庭をうろうろしていたんです。
朝の散歩が午前7時なので、その時間には飼い主が戻って来て、餌も与えてくれるのではと、かすかな希望を抱いていたという訳です。
午前8時になり、表へ出て来た隣の家の奥さんが言うことには「あなた、保険所に連れて行かれるわよ」なんです。いきなりそんなことを言われちゃ、犬だって面食らっちゃいます。
おまけに「私は犬の飼い主には絶対なりません」と念を押されたものですから、シロとしてはその場を退散するしかなかったのです。
毎日散歩に来ていた児童遊園で空腹をこらえていると、野良猫にまで哀れみをかけられたりして落ち込んでいるところに、見覚えのある年老いた野良犬が通りがかったんですな
もう子供に危害を加える心配もない、社会が見て見ぬ振りをしているような、そんな犬です。何回か家の前をウロウロしていたことがあって、シロが「ワオーン!」と吠えると腰を抜かさんばかりに走って逃げる、それが面白くて驚かしていた。ただそれだけのことなんですけどね。
老犬を見たとき、シロにある考えが浮かんだんですな。
シロは老犬を驚かさないように近付き「いやー、この前はどうも失礼しました。なんせ飼い主が厳しくって、ご近所の方以外で家に近付くものがあれば、吠えないと散歩にも連れて行ってもらえないもので」と切り出しますと、最初は怯えていた老犬も、シロの飼い主から虐待を受けていたやら、引越しに紛れて命からがら逃げ出して来たやらの作り話に同情して、自分の集めて来た餌を全部あげたんですな。
その日老犬の隠れ家に泊めてもらったシロは、翌日も居座って、老犬の集めた餌を食べながら作戦を練っておりました。
さて、その日の夜のこと。
「おじいさんよー、あんたの餌を横取りするようなことをして悪かったなあ。実は俺にも当てがない訳じゃないんだ。昨日飼い主に虐待されていたという話はしたよな。餌を貰えない日なんてしょっちゅうでさあ、だけどここんところひもじい思いをしたことはなかったんだ」
「へえ、そうかい」
「なにね、ご近所に幼稚園に通ってる男の子がいてさ、お祖母さんと一緒に午前8時30分に俺ん家の前を通りがかるんだけどさ、どちらも大の犬好きでさ、餌を抜かれた俺が男の子に向かってワンワンと元気良く吠えるのが合図になって、お祖母さんが用意していた餌をくれるんだ」
「へえ、そうかい」
「そのお祖母さんは、近所の野良犬にも餌をやっていたはずなんだが、おじいさんも知ってるんじゃないかい?」
「まあ、そんな人間も何人かいるさ」
「俺は、自由になれたこの機会にもっと広い世界を見て回ろうと思ってるんだ。だからおじいさんよー、あんたに権限委譲したいんだが、どうだろう?」
「へえ、そうかい」
「じゃあ、続きは明日ってことで、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
午前7時にはもう、シロと老犬は飼い主のいなくなった家へ到着してました。幼稚園への通園時間には早いが、2匹の犬が連れ立って行動するには、タイムリミットと判断したんでしょうな。
「いいかいおじいさん。二人が通りかかったら側へ寄って行って、元気に吠えるんだ。俺はここから様子を見ているから安心すればいい。無理だと思ったらワンと一声合図するから、その時は逃げる。まあ、おじいさんのことだから、だいじょうぶだとは思うけどな」
「そうかい」
そうこうしているうちに午前8時30分となりまして、シロの言ったとおり御祖母さんと男の子が手を繋いでやって来ました。
老犬が外へ出て、二人が目の前を通り過ぎようとしたとき
「ワンワン、ワンワン」
老犬が尻尾を振って近付くと、代の犬好きの男の子は、お祖母さんの陰に隠れてしまいました。
ですが、シロからの合図はまだありません。
「ワンワン」
老犬が力を振り絞って、もう一度元気良く吠えた瞬間
「ガブッ」
シロの牙が老犬の首筋に突き刺さっていたんですな。
その後暫くして、お祖母さんの連絡で、虫の息の老犬は保険所へ連れて行かれました。
まあ、早い話が老犬はシロに利用されたってことですかねえ。
ですが、噛み付かれて息も絶え絶えなはずの老犬が、シロの方を見て満足そうに笑ったんです。
何故そんな些細なことまで分かるのかって?
そりゃ、あっしは隣の門柱の特等席で見物してましたから。
お後がよろしいようでチャンチャン。
「その老犬は、童話の泣いた赤鬼に登場する青鬼って訳ね。ハッピーエンドで良かったじゃない」
「どうしてそんなこと言うのよ。シロのやつときたら、老犬を見向きもせずに、尻尾を振りながら二人の後に付いて行ったのよ」
「別にいいじゃない」
「アムって時々凄く冷酷」
ラーは如何にも悔しそうに、アムの顔を睨んだ。
「犬と人間の話でしょ。猫の物差しで計るのは、それこそ杓子定規ってものよ」
「それもやっぱり、相対性理論とニュートン力学ってこと?」
「そう、彼等はニュートン・パラダイムのジレンマに生きる、進歩的でありながら時代遅れという存在なの」
「……ラジャ。お昼食べに来る?」
「いいわよ」
二人は石畳の上を並んで歩き出した。