野良猫の品格
壊れかけた神社の狛犬の前でアムは毛繕いをしていた。
親友のラーとの待ち合わせの時間にはまだ5分あった。
「お待ちになった?ごめんなさい」
「別に…まだ12時5分前だし」
いつものラーなら平気で約束の時間に遅れて謝りもしないのに、何か変だ。取って付けたような丁寧な言葉遣いも、何か変だ。
「ワインの美味しい三ツ星の店で昼食ということでよろしいかしら?」
「こんな下町のどこにそんな店があったっけ?あんた今日はおかしいわよ」
「まあ、そんな硬いこと言わずにさ」
「どっちがじゃ!」
アムとラーは並んで石畳の上を歩き、色褪せた鳥居をくぐると、いつものコースを辿って行った。
二人はいつものように児童遊園をショートカットしようとしたが、今日は様子が違っていた。
滑り台の下に野良犬がうずくまっていたのだ。よく見るとそれはラーが住んでいる家の隣の家の飼い犬だった。
「隣の家の人、会社が倒産してあいつを残したまま夜逃げしたんだって。」
ラーは野良猫ではなかった。元々は捨て猫だったが、たまたま迷い込んだ今の家の奥さんに気に入られたので、そのまま住み着いているのだ。しかし飼い猫などという自覚は微塵も無く、未だにアムとは親友である。
「それにしてもあいつの情けない様子ったらないわね」
昨日までのその犬なら、アムと目が合うと勝ち誇ったように「ワオーン!」と吠えるのが常だった。
それが今日は、所在なさそうに目を伏せているではないか。
「アム言ってたわよね。犬の発するエネルギーはニュートン力学で、猫の発するエネルギーは相対性理論だって。飼い犬のときはまるで大砲のような勢いだったくせに、野良になった途端豆鉄砲以下に成り下がってるものねえ」
「あの落差は人間並みね」
アムは、わざと滑り台に近付いた。
「首輪失くしちゃったの?」
「……」
野良犬は無関心を装って口を閉ざしていた。
「元気だしなさいよ……って無理か、犬だもの」
「グフーッ…」
アムが目の前を横切ったとき、野良犬は半分威嚇するように、半分は悔しそうにうめき声を上げた。
ご主人様が迎えに来てくれるとか、新しいご主人様が現れるとか言って吠えないだけ潔いとアムは思った。
野良猫に避妊手術を施したりしている自治体もあるようだが、野良犬に関しては今のところ情報ははいっていない。飼い主にとって犬は忠実な家族のようなものかも知れないが、野に放たれた瞬間から、危険分子とみなされるのだ。
子供たちから「公園に首輪を着けてないワンちゃんがいたよ」と聞かされた保護者は、すぐさま役所か保健センターに通報することだろう。
捨てられた犬のATOMIC ENARGYは、限りなくゼロに近付く。
地位や財産を失った人間のそれと同じように。
「噛み付かれるかとひやひやしたわよ」
児童遊園の出口でラーがアムに話しかけた。
「あんた、未だに犬の習性が分かってないのね。時間なんていう人間の都合で決めたルールがなくても、ATOMIC BOMBでいられる猫や他の生命体と違って、犬だけは人間と同じなの。今のあいつには、そんな気力もないってこと」
「ラジャ!」
ラーは右手(右前足)を挙げて、敬礼のポーズをとった。
アムは猫年齢31歳の美しいシャム猫だった。
ラーは猫年齢20歳になったばかりの茶トラで、赤ちゃんのときこの児童遊園に捨てられていたのを、通りがかったアムが見つけ、それ以来姉妹のような親友のような関係を保っていた。
ラーが10歳になった頃、餌場の一つだった家の奥さんが二人を家の中に迎え入れようとしたが、アムは固辞したので、それ以来ラーだけがその家の住人となったのだ。
少し大きめの市道の信号を一つ渡ると、現在の建築基準法上では耐震強度60%程度の住宅が建ち並ぶ区域だった。
築30年以上経過しているであろう町並みは、ある種独特の雰囲気を醸し出していた。
分譲当初は均一で見分けが付かなかったはずの住居は、時が流れるに従って、そこに住んでいる人々の状況を体現するかのように変化していた。
継ぎはぎの補修を施したもの、外壁や屋根瓦を派手な色にしているもの、庭が密林のようになって入り口さえ見えなくなっているもの、新しい所有者により新築されたもの。
稀に、何も手が加えられずに風化しかけた住居もあった。外から見た限りではその建築物は死んでいるに等しかった。
ラーはその死人のような佇まいをした家の鉄製の門扉の隙間をすり抜けて、アムにも中に入るよう促した。
「三ツ星のお店って、あんたの家じゃない」
「まあまあ、今日は玄関先じゃなく私の部屋で昼食よ」
ラーは嫌がるアムの尻尾を咥えて、玄関ドアの下にある猫用出入り口の前まで引き摺って行くと、頭でアムのお尻を思い切り押した。
家の中にも生命反応らしき気配は希薄であったが、華美な装飾など一切ない手入れの行き届いた斎場のように清浄な雰囲気が漲っていた。
2階にある、真っ白なカーペットで敷き詰められた広い部屋。
普通の子供部屋の倍以上はある部屋は、机や玩具、ベッドなどが置かれていないので、雪に覆われた運動場のようだった。
「私のお城へようこそ。今日はここが三ツ星レストランだと思ってね」
部屋の真ん中には緑色のテーブルクロスが、カーペットの上に直に敷かれてあり、陶器の皿やワイングラスが2組セットされていた。それらは普段から玄関先で利用している餌用の器ではなく、とてつもなくフォーマルなものだった。
「お食事始めません?」
ラーは食器の前にちょこんと座り込んで、相変わらず歯の浮くような話し方でアムを促した。
近付いて良く見ると、少し赤色の混じった飲み物で満たされたワイングラスは、猫用にオーダーしたかのように重心を低くしてあった。
「念入りな仕事をするものね。これって何なの?」
食器の前には銀製のナイフ、フォーク、スプーンが並べられていた。
「それが今日のサプライズってとこかな?じゃあ頂きまーす」
アムは暫くラーの動向を静観することにした。
ラーは、おもむろに両サイドのナイフとフォークに両手(両前足)を置くと、暫くは腕立て伏せのような姿勢を保持していた。
果たして肉球の手のひらでナイフとフォークが掴めるものなのだろうか?これから先、ラーはどのように食事をするつもりなのだろう。アムは奇術でも見せられているように、少しワクワクしていた。
すると、ラーは並べられている銀製品を踏みつけながら、陶器の皿に歩み寄り、いつもの姿勢で食事を始めた。
期待はしていなかったとはいえ、アムは少々裏切られたような気分で、自分の前に置かれた銀製品を両手で掻き分けた。
ワイングラスに注がれていたのは、ミネラルウォーターで希釈した赤ワインだった。
意味不明なまま、アムにとってはありがた迷惑な食事が終わった。
「これって何の意味があった訳?」
ラーは部屋の隅っこへ行くと、一冊の本を咥えて戻って来て、アムの前に置いた。
本のタイトルは「猫の品格」だった。
「実践するためには、まず形から入らなくちゃと思って……」
「だけど、今日のこれって礼儀作法の範疇じゃない。この本にはそんなことしか書かれてなかったの?」
「まだ読んでないけど……」
ラーは右手で頭を掻きながら答えた。
「ふーん。まあいいや。じゃあ、これから話すことを良く聞くのよ」
「はーい」
ラーは、悪戯をして叱られた猫のように、うなだれていた。
「この本の内容がマナーに関することなら、人間や犬には読む価値もあると言えるわ。郷に入らば郷に従えという諺は知ってるでしょ?」
「知らない」
「……例えばイギリスの犬、スイスの犬、人間なら社長、学校の先生、政治家、芸能人、それぞれ必要とされるマナーがあるじゃない。お隣の韓国へ旅行するにしても、最低のマナーくらいは勉強しておかなくちゃ、相手に対して失礼だということね。人間や犬が生きている場所にはマナーというルールが存在するものなのよ。逆に言えば、人間や犬はマナーのない場所では生きて行けないの。だけどあんた猫でしょ。だったらマナーなんて必要ないじゃん」
「マナー以外のことが書かれていたら?」
ラーが上目遣いにアムの様子を窺いながら言った。
「品格って単語の意味が重要だけど……。私は品格って社会的な肩書きや、国境さえも越えたところにあるキャラクター…尊厳のようなものだと解釈しているけど。それって今流行のHOW TO本でしょ?だったら読んでも無駄ね。尊敬される政治家とはこうあるべきだなんて書かれていたところで、そこだけを真似たってメッキはすぐ剥げちゃうわよ。男にもてる女の品格はこうだなんて書かれているのなら、そんなものを一所懸命読んでいることからして、品格の欠片も持ち合わせてないと思われて当然よ」
「猫の品格」はラーに咥えられると、そのままゴミ箱へ直行することになった。
「少し酔っちゃったなあ……」
帰り道、アムは児童遊園に野良犬の姿を探してみたが、何処にも見当たらなかった。
夕方の児童遊園、誰もいないブランコを揺らす風は、少しだけ寂しい匂いがした。