真相編
その夜、時刻は午後七時頃になるだろうか。お台場海浜公園の一角にスーツ姿の男が立っていた。榊原恵一である。近くに自由の女神が見えるが、この辺りは割と人通りの少ない場所であった。ただ、夜景はきれいだ。おそらく隠れたスポットになっているのだろう。
と、榊原の背後から足音がした。榊原が振り向く。目的の人物が立っていた。
「よぅ」
榊原が挨拶する。レインボーブリッジの光をバックに二人の人物が海岸で向かい合った。
やってきた人物は何の用だと言わんばかりに戸惑った表情をしている。
「久しぶりだな。もう何年になるかな。最近お前の名前を聞くまですっかり忘れていた」
そう言って、榊原は黙り込んだ。一方、相手はどうして自分がこんなところに呼ばれたのかまったくわかっていないようで、訝しげな表情をしている。恐ろしく長い沈黙がその場を支配していた。
だが、そのときは唐突に訪れた。
「……自首してくれ」
不意に榊原が言った。相手は驚き、そして何の話かと尋ねた。
「わかっているだろう?」
相手は再び黙り込んだ。
「数ヶ月前のバスジャック。犯人はやってもいない殺人の罪で苦しんでいる。なんとも思わないのか?」
相手は答えない。榊原はゆっくりと、しかし断定するような口調で相手に告げた。
「寺脇貞裕を殺したのはお前だな」
「……何を根拠に?」
相手が口を開いた。
「あの事件は星河以外に不可能とされていた。そして、それはある部分においては正しい。三十秒以内にスタングレネードと機動隊をすり抜けナイフを奪って寺脇を殺すなんて普通の人間にはできない」
榊原は相手を見つめたまま続けた。
「だが、それをごく自然な動作でやり遂げられる人間がいる」
「それは?」
「壁そのものだ」
榊原は告げた。
「本来、容疑者の前に立ちはだかるはずだった機動隊という壁自身だよ。乗客に犯行ができないのは当然だ。何しろ犯人は外部から来た機動隊の人間だったんだからな」
榊原は相手の名を告げた。
「そうだろう? 冨野」
東京警視庁の機動隊長・冨野収一は榊原の顔を見ながら黙って立っていた。
「十一年ぶりになるのか。私が警視庁を辞めた時以来だ。あの時、お前も私と同じ捜査一課所属だった。班は違ったがね。警察学校以来の腐れ縁だったお前を告発するなんて、私だってやりたくはない。だからこうして自首を勧めに来たんだ」
冨野は榊原を見つめたままだ。激務でしわが寄ったスーツを着こみ、寒いのか薄手のコートを羽織っている冨野は、どことなくやつれてビデオの突入時の映像より十歳は年を取ったかのように見えた。
「犯人が機動隊員ならすべてが納得いく。まず、自身が機動隊である以上、機動隊という壁はなくなる。それに元々犯人制圧のために突入したんだからナイフを奪っても何の不審もない。スタングレネードも訓練で慣れている。そして、何より星河を除いて被害者の一番近くにいた人間だ」
榊原は結論付けた。
「犯人である条件はお前にもしっかり当てはまるんだ」
「だからなんだ?」
冨野が口を開き、野太い声が響く。
「急に呼び出されたと思ったら、いきなりそんな話か。どうして今になってお前にそんな事を言われなくてはならないのか理解に苦しむが……。あの事件は星河が犯人で決着がついているはずだ。俺が犯人である可能性より星河が犯人である可能性の方が高いと思うがな」
冨野は反論を続ける。
「仮にその推理が正しくても、当てはまるのは俺だけじゃない。他の機動隊員だって条件は満たす。それなのに何で俺なんだ?」
「あくまで否定するのか?」
「やっていない以上は否定するね」
榊原はため息をついた。
「わかった。そっちがそのつもりなら根拠を話そう。それに反論できなければ自首をしてほしい」
冨野はそれには返事せず、懐から煙草を取り出すと口にくわえて火をつけた。榊原は軽く首を振ると自分の考えを語り始めた。
「まず、この事件で犯人の可能性を満たすのはお前か星河か他の機動隊員かのいずれかだ。このうち星河と他の機動隊員が犯人でないと証明できれば、残るお前が犯人ということになる。この論理は理解できるな?」
「それを証明できれば、の話だがな」
「証明してみせる」
榊原はそう言って本格的な推理を始めた。
「まず星河の無実を晴らそう。突入の直前、星河は正面の窓から覗いていた警官に気が付いて、体ごと正面に向けた後、斜め後ろにいた人質の長尾にナイフを突き付けている。このとき、星河は二列目の通路にいた」
「それがどうした?」
「警察関係者なら長尾がどこに座っていたのか知っているだろう。前から三列目の星河から見れば左斜め後ろの席だ。問題は、星河が右利きなら体を正面に向けたままで左斜め後ろに座る人質にナイフを突き付けるなどという芸当ができるかということだ」
冨野は一瞬考え込んでいたが、やがてハッと表情をした。その表情を見ながら、榊原は推理を続ける。
「この動作をするにはナイフを左手で持たないとできない。バスジャック犯が気分で利き手と反対の手でナイフを持つとは考えられない上に、そんな事をする必要もない。つまり、星河は左利きだったと考えるべきだ」
「ナイフを持った右手を交差させて長尾に突き付けていた可能性もある」
冨野が反論する。が、榊原は難なくそれを返した。
「その可能性はない。この直後、星河は右斜め前に座っていた倉木の座席を、ナイフを持っていた手とは反対の手で殴っている。お前の主張が正しければ、星河は右手を交差させて左斜め後方の長尾にナイフを突き付け、左手をさらに交差させて右斜め前の倉木の座席を殴るという不自然極まりない動作を行ったことになる。左手でナイフを持っていたと考える方が自然だろう」
冨野は黙り込んだ。レインボーブリッジの下を遊覧船がくぐっていくのがここからでもよく見えるが、二人はただお互いを睨みあっている。二人の間で無言の戦いが行われていた。やがて、再び榊原が口火を切った。
「ところが解剖記録を見てみると、寺脇は『被害者から見て左方向から斜めにナイフで心臓を刺された』ことになっている。被害者から見て左方向ということは、正面に立って刺した犯人から見れば右側から斜めにナイフを振り下ろしたことになる。つまり、犯人は右手でナイフを使用したということだ。しかし、さっき言ったように星河は左利きだ。殺人という重大な時にわざわざ力の入らない利き手と反対の手で殺すなどということをやる犯人はいない。つまり、殺人が右手で行われている以上、左利きの星河が犯人とは考えられない」
「後ろから羽交い絞めにして、後方から正面を刺したとしたらどうだ。それなら左利きでも解剖記録の通りの刺し方になる」
冨野が反論するが、榊原はひるまない。
「寺脇は最後尾の座席に座っていた。その殺し方をするにはわざわざ寺脇を立ち上がらせた後、後ろに回って羽交い絞めにする必要がある。機動隊が突入してきている状況でそんな悠長なことは誰もしないだろう。私なら有無を言わさず正面から刺す」
榊原は結論付けた。
「以上により、星河が殺人犯であるという可能性は抹消される。ここまではいいか」
冨野はしぶしぶ頷いた。遊覧船が警笛を鳴らし、お台場のすぐそばを通り過ぎる。
「星河が犯人でない以上、殺人を起こせるのは突入した機動隊員だけだ。では機動隊員の中の誰がやったのか。これは星河が犯人でないとわかった時点で判断できる」
榊原が推理の第二段階に移る。
「まず、犯人は最初から寺脇を狙っていた。これが前提だ。そうでなければこんなところで殺人を起こす人間はいない。また、犯人が機動隊だった場合、罪を逃れる唯一の方法は星河に罪を着せることだ。罪を着せられなかった場合、一番に疑われるのは機動隊だからな。以上二点を考えるに、犯行に必要なある重大な条件が浮かんでくる」
「それは?」
「これは星河が寺脇のすぐ近くにいないと成立しない犯罪である、ということだ」
冨野の顔が歪んだ。
「例えば星河が運転席の近くにいたところで突入されたら、寺脇を殺してもどうやっても星河に罪を着せられない。寺脇のいた場所に行けなかったということが星河にも当てはまってしまうからだ。この犯行は星河が寺脇のちょうど前に来た時に突入が決行されるという実に都合のいい条件が重なった時のみに可能ということだ。そして、こんな事は突入のタイミングを決められる人間でないとできるわけがない」
榊原は冨野を見据えた。
「そう、たった一人だけこの犯行を行えるタイミングを図れる人間がいる。突入の指示を出した機動隊長自身だ。つまり、あのとき陣頭指揮をとっていた、冨野、お前だけがあの犯行を行うことができた人間という事になる。そもそもの話として、犯人が人質の前にいるというタイミングで突入が行われたこと自体がおかしい。こうした警察の突入作戦の場合、人質への安全を考慮して突入は最も犯人が人質から離れた瞬間に行われる。が、今回の突入はなぜか犯人が人質の目の前にいる最悪のタイミングで行われた。この時点で不自然という他ない。お前は星河が寺脇の前に来たタイミングを図って突入の指示を出し、まんまと殺人に成功した。だが、その代り機動隊長としてはあまりにも不自然な行動が残ってしまった」
榊原は冨野を睨んだ。
「何か反論はあるか?」
冨野は黙って唇を噛んでいた。しばらくその状態が続く。やがて、冨野は息を吐き、肩をすくめた。
「……降参だ」
そう言うと、冨野は榊原から視線をそらしてレインボーブリッジの方を見た。橋の向こうに見える東京タワーの灯りが東京湾を照らしている。
「ここまで理路整然と言われたら反論できるわけねえな。やっぱりお前は変わっちゃいない」
榊原は冨野に近づいた。
「動機は何だ? それだけがどうしてもわからないんだが」
「……もう二十年以上前の話になる」
冨野は世間話でもするように話し始めた。
「俺は当時大学生だった。両親はいなくてねえ。高校生の妹と二人暮らしだった。その妹が、ある日自殺した。いや、警察は自殺と判断した」
冨野は淡々と続ける。
「だが、俺は納得しなかった。確かに新聞の切抜きで作られた遺書もあったし、当時あいつが進路で悩んでいたことも知っていた。だが、自殺なんて信じなかった。それには理由があってな。発見者は俺だったんだが、自宅マンションに入る前にロビーで俺と同い年くらいの男が慌てて出ていくのを見ていた」
冨野の告白は佳境に入っていた。
「事件から数日して、俺はそいつの顔を思い出した。以前、妹が付きまとわれていると言って相談してきたストーカーの顔にそっくりだったんだ。妹が俺に相談してからばったり姿を見せなくなって、そこから一年ほど経過していたから俺もすぐに思い出せなかった。俺は妹がそいつに殺されたんだと確信した。だが、一度自殺とされた警察の判断は覆らなかった。証拠が俺の証言だけじゃあ当然だな。結局、事件は自殺として処理され捜査さえ行われなかった」
冨野は吸っていた煙草からうまそうに煙を吐く。榊原は黙って話を聞いているだけだ。
「俺は決心したよ。警察が捜査しないなら自分で犯人を捕まえると。そこから俺は勉強して、妹の敵を取るために警察に入った。うまい具合に捜査一課に入り、俺は勤務の間を縫ってあの男を探そうとした。だが、名もわからん顔だけの男だ。いくら警察手帳の力をもってしても全く手掛かりはつかめなかった」
冨野はいったん息をついた。すでに話し始めてから一時間はたっており、薄暗かった夜空が漆黒へと変化していた。
「お前が警察を辞めた直後、俺も警備部の機動隊に移動となった。そうなったらもう訓練の毎日だ。俺はもう半ば諦めていたんだ。十年以上調べて何も出てこなかったんだからな。だからあの時、バスの中に忘れもしないあいつの顔を見た時は心臓が止まるかと思った」
冨野が怒りを込めた声で吐き捨てる。
「寺脇がストーカーだったのか」
「屈辱だったよ。妹を殺した男を俺は救出しないといけないんだ。仮に俺がやつの罪を暴いても、とっくに時効が過ぎている。その時だよ。俺の頭に悪魔が囁いたのは」
冨野は声を荒げて言った。
「星河に罪を着せてやつを殺す。今思うと最低のことだと思うよ。だが、その時俺は夢中だった。星河があいつの前に立ったのを見て、俺は無我夢中で突入の号令をかけた。車内に入り、星河からナイフを奪うと、混乱の中で縮こまっていたあいつの心臓にこの右手で鉄槌を下してやったんだ」
冨野は不意に声を鎮めた。
「あとでとんでもないことをしたと思った。だが、今さら後には引けなかった。俺にだって今は家族がいるんだ。殺人の時は無我夢中でそんなことまで考えていなかったが、こんな理由で殺人を犯した自分が捕まったりしたら、俺の家族はどうなるんだ? 俺はひたすら罪を逃れることに全力を注いだ。いささか自分勝手な理屈だとは心の底では思っていたが、俺はそうするしかなかったんだ」
冨野はゆっくり煙草の煙を吐いた。吐いた煙はゆっくり暗闇の中に消えていく。
「まさか、お前にすべて暴かれるとは思わなかったがな」
そう言い結ぶと、冨野は榊原の方を見た。
「俺を捕まえるのか?」
「一般人の私に逮捕権はない。それに言ったはずだ。自首してくれと」
「俺がここで口封じのためにお前を殺すとは考えなかったのか?」
冨野が挑戦するように聞くが、榊原はゆっくり首を振る。
「私は警察官としてのお前を信じてここに立っている。元同僚として、お前がそんなくだらない事をするわけがないことはわかっているつもりだし、罪を悔いて自殺するようなやつでないこともわかっている」
冨野は自嘲気味に笑った。
「腐れ縁ってのは、嫌なもんだな」
「同感だ」
冨野は煙草を持っていた吸い殻入れにしまうと、背筋を正した。
「星河には悪かったと思っている。判決が出ていない今ならまだ間に合うだろうな」
「あぁ」
「……いいだろう。お前の言うように自首するよ。肩の荷が下りたような感じだ」
「……そうか」
榊原は簡単に答えた。冨野は榊原に背を向け、そのまま歩き出す。去っていく友を榊原は黙って見ていた。
と、冨野は急に足を止め振り返った。
「最後に一つだけ。やっぱり、お前は警察に向いている人間だよ」
「言うな。もう過去の話だ。今の私は、ただのしがない私立探偵だ」
「……そうかい」
そう言うと、冨野は再び歩き始めた。冨野が見えなくなっても、榊原はしばらくそこに立ち尽くしていた。東京の夜景は、そんな榊原の影を砂浜に映し出していた。
翌日、九月六日土曜日。榊原は事務所のソファで寝ていた。
「おはようございます」
ドアが開いて、亜由美が入ってくる。
「ん……ああ、おはよう」
榊原はもぞもぞと起き上がった。
「昨夜はどうでした?」
「昨夜?」
「お友達と飲んだんでしょう?」
「……ああ。苦い酒だったよ」
榊原はそう答えた。
「亜由美ちゃんも眠そうだね」
「昨日は瑞穂ちゃんと田中さんの事件を考えていましたから」
「結果は?」
「結論出ず」
「そうかい」
と、瑞穂が入ってきた。かなり眠そうである。
「おはようございます先生」
「田中の事件に返り討ちにされたそうだね」
「そうなんです。どう考えても無理でして」
榊原は事務所のテレビをつけた。とたんにキャスターの声が飛び込んできた。
『先ほど、警視庁警備部長・砂田紀之警視監が緊急記者会見を開き、五月に起きたバスジャック事件の際に発生した殺人事件に関し、機動隊に所属する警部が犯行を自供したということを明らかにしました。自供したのは警備部の冨野収一警部。砂田警視監によると、今朝になって自首をしてきたということです。この事件はすでに殺人を含めた一連の事件として裁判が行われており……』
亜由美と瑞穂が唖然としている中、榊原は冷静にニュースを見ていた。
「先生! 何をしたんですか!」
「何もしちゃいないよ」
「こんな都合よく犯人が自首するなんて偶然とは思えません!」
瑞穂が榊原を問い詰めている。亜由美は苦笑しながらいつもの通り事務をやっていた。
「まあ、そんな偶然もこの世の中にはあるということだ」
「それで私が納得すると思いますか」
瑞穂がジトッとした眼で聞いてくる。
「いいじゃないか。終わりよければすべてよし」
「よくありませんよ!」
と、電話が鳴った。
「はい、榊原探偵事務所」
『田中です』
田中弁護士は榊原の返事を待たずに告げた。
『またやりましたね』
「私は何もしていないよ。調べている途中で犯人が勝手に自分から自首しただけだ」
『……まあ、そう言うことにしておきましょうか。何やらわけありのようですし』
田中が苦笑しながら言った。どうやら、向こうはすべてわかっている様子だ。犯人が警視庁の人間ということで、榊原の知り合いか何かだろうということを薄々察しているらしい。が、田中はそんな事はおくびにも出さずに事務的に話を続けた。
『星河の主張が認められましたよ。裁判も最初からやり直しです。そのご報告を』
「そうか」
『なんにせよ、相談を受けていただきましたので、その分の料金は振り込ませていただきました』
「ありがたい。今月ピンチでな」
榊原はそう言ってから、
「私が何をしたかわかっているのか?」
と聞いた。
『私もあなたとは腐れ縁ですので。では』
電話が切れる。榊原は苦笑しながら、相変わらず問い詰めてくる瑞穂を尻目に再び本を広げたのだった。