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捜査編

 二〇〇九年九月五日金曜日。東京は雲一つない秋晴れであった。午後三時頃、一人の男が品川駅に降り立った。緑がかったスーツに身を包み、細いフレームの眼鏡をかけたインテリ役人風の姿をしている。手には黒いアタッシュケースをぶら下げており、スーツには向日葵をモチーフにしたバッジがつけられている。弁護士バッジだ。

 男は手元の地図を見ていたが、やがてそれに従って歩き始めた。駅からしばらく行ったところでビルの間にある寂れた脇道に入る。その先は人通りの全くない品川の裏町である。いるのは不良めいた若者やヤクザめいた人間だけだが、全員男の胸に光るバッジを見てそそくさと避けていく。男はしばらく裏町を歩いていたが、やがて奥の方にある三階建ての古びたビルの前に立った。

「ここですね」

 男がつぶやく。ビルの二階が男の目的だった。

『榊原恵一探偵事務所』

 ビルの窓に書かれた文字を確認すると、男はビルに入った。


 同じころ、事務所の二階にある榊原探偵事務所には三人の人物がいた。

 一人はこの事務所の主である榊原恵一。普段通りのヨレヨレのグレーの背広にベージュのネクタイという格好で正面の事務椅子に座って本を読んでいる。こう見えてもかつては警視庁捜査一課で数々の事件を解決に導いてきた凄腕刑事であり、捜査能力の高い刑事ばかり集めた「沖田班」なる特別な捜査班のブレーンとして庁内でも有名だったらしい。だが、十一年前のある連続殺人で無実の人間を誤って逮捕してしまい、その隙に新たな殺人を許したばかりかその無実の人間を自殺させて事件を迷宮入りさせてしまったことから責任をとって辞職したとされている。

 ソファに寝転んで文庫本を読んでいるセーラー服にショートカットの少女は深町瑞穂。都立立山高校の三年生で、同校のミステリー研究会の会長もしている。二年前、そのミステリー研究会を舞台に起こったある不可能犯罪を榊原が解決した際に榊原に心酔し、以降、勝手に事務所に入り浸って榊原の弟子を自称している。榊原にくっついていくつかの事件に関与したこともあり、榊原自身はあまりいい顔はしていないようだが、最近はほとんど黙認状態で、本当に弟子のように扱っている節も見られる。

 最後に部屋の入り口で書類整理している女性は宮下亜由美という。ロングヘアにスーツの大人びた女性であるが、こう見えても真木川女子大学の文学部三年生で、この事務所には秘書のアルバイトとして採用されていた。明るい瑞穂と違って大人びた性格の子で、現場にはあまり出ず、榊原のフォローに徹している。

 この面子で事務所を運営するようになって二年程経つが、事件がない時はこうして亜由美が書類整理をし、あと二人が本を読んでいるという光景が大半だった。

「先生、最近暇ですねぇ」

 瑞穂が文庫本から目を離さずに言う。事実、前の事件から半月ほど依頼が入っていなかった。

「まあ、事件の依頼なんかないに越したことはない。平和で何よりじゃないか」

「その分榊原さんの生活費がピンチですけどね」

 入口から亜由美が声をかける。榊原は渋い顔で亜由美の方を見やった。

「もうこの前の事件の報酬がなくなったのかい」

「ええ、あと三日くらいで事務所の経営は成り立たなくなります」

「そいつは困ったねぇ」

 そう言いつつも、榊原はさして心配そうな顔をしていない。

「仕事してもらわないと私の給料もなくなるんですけどね」

 亜由美が冷静な口調で告げる。榊原は本を見ながら聞こえないふりをした。大体、事件がないときはこんな会話をしていることが多い。

 と、事務所のドアがノックされた。

「どうぞ」

 亜由美が声をかける。ドアが開き、緑がかったスーツを着込み、眼鏡をかけた男が入ってきた。

「どちらさまでしょうか?」

 亜由美が声をかけるが、男は事務所を見渡し、事務所の主に声をかけた。

「榊原君、君は変わりませんね」

 榊原は驚いたように振り返ると、男の姿を見て表情を緩めた。

「田中、お前か」

 榊原は男に呼びかける。

「先生、お知り合いですか?」

 ソファから起き上がりながら瑞穂が聞く。

「ああ、大学時代の悪友だ」

「悪友とは失礼ですね」

 男……田中は苦笑しながら亜由美のいる受付に置かれたノートに名前を記帳した。

『田中太郎』

 亜由美が驚いたように田中を見つめる。田中はその反応に慣れていると言わんばかりに、

「本名ですよ。弁護士が偽名を使うはずないでしょう」

 その時点で、亜由美と瑞穂は田中の胸のバッジに気がついた。

「弁護士さんですか」

「ええ、新宿に事務所を持っています」

「その名前のせいで大学受験や司法試験で疑いの眼で見られたんだったな」

 榊原が本をしまいながら言う。

「あまり思い出したくない思い出です」

「どちらの大学だったんですか?」

 亜由美が興味心身に聞く。

「ああ、東城大学法学部ですよ。榊原君も一緒です」

 東城大学は東京の私立大学の名門である。毎年キャリア官僚候補生を多数輩出することで有名である。榊原もここの出身だという話を、いつか瑞穂も聞いたことがあった。もっとも、当初はまったく信じられなかったものであるが。

「なのに、榊原君はノンキャリアで警察に入り、さらにはそれさえ辞めてこうして私立探偵をやっているのですから、人生面白いものです」

 田中はソファの方に歩み寄ると、榊原の確認も取らずに腰かけた。榊原も気にする風でなく反対のソファに座る。亜由美は給湯室でお茶を入れると二人の前に出し、そのまま秘書席の方に下がった。やる事のない瑞穂も亜由美の傍に避難する。

「早速ですが、仕事の話をさせてもらいます」

 同窓だというのに丁寧な言葉使いで田中は榊原に話しかけた。

「私は今、ある裁判を受け持っています。榊原君にお願いしたいのはその裁判に関する調査です」

「何の裁判だ?」

 榊原の単刀直入な問いに、田中はあっさりと答える。

「榊原君は今年の七月に池袋で起きたバスジャック事件を知っていますか? 都営バスで発生した事件です」

「ああ、報道で騒がれていたからな」

 榊原も仕事の話に入り、真剣な表情をしていた。構わず田中も話を進める。

「実は今、私はあの事件の犯人の弁護を担当しているんですよ」

「そうだったのか。だが、あの事件はそれこそ私が入り込む余地がないだろう」

 入口にいる瑞穂は、それがどんな事件だったか思い出そうとしていた。と、亜由美が黙って一冊のファイルを取り出した。

『都営バスジャック殺人事件』

 ちゃんと資料整理をしていたらしい。瑞穂は黙礼してファイルを手に取り、中身を読み始めた。


 二〇〇九年七月三十一日金曜日。この日の朝、池袋駅のバス停を出発した新宿駅西口行きの都営バスが刃渡り三十センチの刃物を持った男に乗っ取られるという事件が発生した。バスに乗っていたのは運転手と犯人を含めて九人。犯人は星河芳樹・三十二歳。人質を管理しやすくするために、わざとラッシュアワーを外れた客の少ない時間帯を狙っての犯行だった。バスは星河の指示で首都高速から東名高速に乗り東京、神奈川、静岡と西へ疾走。都営バスがコースを外れているという通報が都から入ったためすぐさま警視庁が追跡を開始。その後、バスが他県に入るごとに追跡する警察車両の数は増え、東名高速の下り線は封鎖された。

 やがてバスは浜松市のサービスエリアで再び給油のために停車。この時、これ以上の事件の長期化は人質が危険と判断した警察庁の判断により、警視庁と静岡県警の機動隊が中心となったサービスエリアでの強行突入作戦が計画されることとなった。そして、事件発生から二十四時間たった五月八日の早朝、警視庁と静岡県警の精鋭十五人の機動合同部隊が、警視庁の冨野機動隊長の指揮の下バスに突入開始し、スタングレネードが車内に投げ込まれた。だが、この際星河は逆上し、乗客の一人だった金融会社社員の寺脇貞裕が刺殺されてしまう。その直後に機動隊は星河の身柄を拘束し、残りの人質は解放されたのだが、結果的に人質一人が殺されてしまうという失態を演じることになり、警察はしばらく批判の的にさらされたという。


「これが星河です」

 瑞穂が我に返ると、田中がアタッシュケースから書類を出したところだった。

「実は、彼は昨年まで都営バスの職員だったんです。が、乗務中に事故を起こして相手を死なせてしまったことから解雇。すっかり自棄になって博打に溺れて退職金も失い、妻とも離婚。それで都営バスを困らせてやろうと思ってバスジャックを計画したと本人は警察で供述しています」

 榊原は書類に添付された写真を見ながら頷いた。田中は構わずに続ける。

「その裁判が八月末から行われています。事が凶悪犯罪なので五月から導入された裁判員制度の対象事件になっています」

「ああ、裁判員の裁判なのか」

 二〇〇九年五月中旬から始まった裁判員制度は、各地で様々な論議を巻き起こしているという。

「私はこの件の弁護を星河の離婚した妻から依頼されました。離婚も彼女の本意ではなかったようで、彼女の両親が決めたことらしいです。とにかく、依頼を受けた以上は全力でやるつもりでした。事件そのものは明白なので罪は認めてどれだけ減刑できるかに焦点を絞るつもりでした。ところがです」

 そこで、田中はいったん言葉を切った。

「ここで星河がとんでもないことを言い始めたんです」

「何だ? まさかあれだけ派手なことをやっておいて自分は冤罪だとか言い始めたのか」

「いや、バスジャックについては認めています。というより否定のしようがありません」

「じゃあ、一体何だ?」

「それがですね」

 田中が告げた。

「『確かにバスジャックはやった。それは認める。だが、殺人だけは断じてやっていない』。彼は突入時に起きた寺脇貞裕殺害を否認しているんです」


 事務所は田中の発言にしばらく静まり返った。

「……冗談だろう?」

 第一声は榊原の発言だった。

「本当です」

 田中はあくまで冷静に言った。残る二人は茫然としている。

「あまりにも明らかな事じゃないのか? 犯人以外に誰がバスジャックされたバスで殺人を起こすんだ?」

 田中は冷静な表情のまま、

「私は彼が正しいと言っているつもりはありません。常識的に見れば嘘の可能性の方が高いでしょう。しかし、依頼人がそう主張している以上、私としても調べて白黒はっきりさせる必要があります。弁護に支障が出ますのでね。というわけで、依頼内容は、この星河の主張が正しいのか否か。もし正しいのなら犯人は誰なのか。この二点を調査してほしいというものです」

 榊原はしばらく考え込んでいたが、

「仮に星河の主張が正しいとして、他に容疑者はいるのか?」

「説明します」

 田中は別の資料を取り出した。

「彼が犯人でないとすれば、常識的に考えて犯人はあのバスに乗っていた人間のいずれかです。その人数は、被害者と星河本人を除けばわずか七人に絞られ、そのうち一般客は六人です」

 田中は資料を榊原に渡した。それによると、客は大学生の倉木雪子、高校生の長坂憲次郎、観光会社社員の保坂波子、警備会社社員の増田駿一郎、フリーターの三好年夫、そして外務省勤務の長尾久重の六名。そこに運転手の奥谷譲作と、寺脇と星河を含めた九人があのバスに乗っていたことになる。

 榊原はもらった資料を軽くめくり、一人一人の顔写真と名前を合わせていく。控えている瑞穂たちは必死にメモをとっていた。

「ここで問題になるのが突入時の人物配置です。何か書くものはありませんか」

 榊原が合図し、瑞穂が部屋の隅に置かれたホワイトボードを押してきた。田中は立ち上がると、現場となったバスの見取り図を描き始めた。

 乗っ取られたバスは一般的な観光バスと同じような前から四人ずつ座っていって最後尾だけ五人座れるタイプのものであり、これが前から十四列ある構造だった。

 田中は、説明の名目上、運転席側の窓側、すなわちバスの一番右端の縦列をAとし、以下左にB、C、D列と記号を書いた。すなわちDがバス向かって左端の窓側で、例えば前から三列目の右窓側の席なら3‐Aと表すということになる。

 ただし、路線バスなので7‐C、7‐D、8‐C、8‐Dは後部出入り口ということでなく、また最後尾の十四列目は五席あるので、田中は真ん中の通路の位置にある席を14‐Eと表した。

 これらを書き終えると、田中は手元の資料を見ながら事件について説明を開始した。

「さて、突入時の各人の位置ですが、肝心の寺脇と星河は最後尾にいました。星河は警察がいつ突入して来ても対処できるように人質を車内に均等に配置していました。寺脇は最後尾だったわけで、たまたま星河がその辺りにいた時に突入が開始されたのです」

「具体的にはどの席だ?」

「14‐E。最後尾のど真ん中の席です」

 田中が見取り図に名前を書き込む。

「次に、突入直前まで寺脇が生きていたことは複数の機動隊員によって確認されています。つまり、犯行はスタングレネードが炸裂した瞬間から星河が機動隊に取り押さえられるまでの数十秒の間に行われたことになります。それと、犯行に使用されたのは星河が持っていたナイフです。星河本人は突入のどさくさに落としてその後はわからないと言っています。つまり、殺人犯が星河でないなら、スタングレネードが炸裂して機動隊が突入する中、星河からナイフを奪って寺脇を殺し、かつ自分の席まで往復するという作業を数十秒で誰にも気づかれずに行う必要があるということです」

 榊原の表情が険しくなった。概要を聞いているだけでとても星河以外の人間が犯行を行えるように思えなかったからだ。

「犯人の星河は先ほども言いましたように14‐Eに座る寺脇の真正面に向かい合うように立っていました。これも機動隊員の証言から明らかです」

「寺脇の詳しい死因は?」

「これが警察から提出された解剖記録です」

 田中が封筒を差し出す。中を改めると詳しい死因が書いてあった。

『ナイフは被害者から見て左方向から斜めに心臓を貫いており、ほぼ即死だったと考えられる』

「正面からグサリか」

 ますます星河にとって不利な状況だ。

「これだけでもかなり不利なんですが、決定的なのは他の乗員たちの位置です。まず、運転手の奥谷は当然運転席にいました。一番寺脇から離れた位置です。残りの客ですが、逃亡を防ぐためすべて通路側に配置されていました」

 そう言いながら田中はホワイトボードに他の客の位置を記していく。それによると、大学生の倉木が1‐B、すなわち運転席の真後ろ。以下、外務省の長尾が3‐C、観光会社の保坂が5‐B、高校生の長坂が7‐B、警備会社の増田が9‐C、フリーターの三好が11‐Bということだった。

「機動隊が突入したのは運転席横の入口と11‐D、12‐D近辺の窓に二カ所です。前者が人質の保護、後者が犯人確保を目的としており、機動隊の主力は後者に集中していました」

「参ったな」

 寺脇に一番近いのは三好であるが、機動隊はこの三好が座っていた十一列目から突入している。つまり一番混乱している場所で、おそらく動くことすらできなかっただろう。三列後方に接近するなど無理だ。他の連中は論外で、特に前方の人質たちは救助に来た別動隊を振り切って犯人との格闘続く後方部へ飛び込む覚悟がないと殺人など起こしようがない。

「具体的に突入から逮捕までどれくらいかかったんだ?」

 榊原が聞いた。

「その時のテープがあります。見てみますか?」

 榊原が頷く。田中は事務所備え付けのテレビにビデオテープを映し出した。

『すでに事件発生から二十四時間が過ぎようとしています』

 それはどこかの局のニュースのようだった。サービスエリアに停車するバスの横から撮られている。側面の窓はカーテンが閉まっており、中の様子は見えない。機動隊員たちが窓の隙間などから中を覗き、警視庁の冨野機動隊長らしき人物が突入のタイミングを見計らっている。そのまま何秒か過ぎたころ、突然冨野が手を思いっきり振った。

 と、直後に車内が激しく光った。スタングレネードの閃光だ。同時に窓から機動隊員たちが突入していく。榊原は閃光が光った瞬間からストップウォッチを押していた。やがて人質たちがバスを脱出していく。そして、しばらくして星河がバスから引きずり出されてきた。ここで榊原はストップウォッチを止めた。

「三十六秒」

 部屋にいた全員が口を閉ざす。

「もっとも、これは星河がバスの外に出るまでの時間だから、実際に取り押さえられるまでは三十秒弱といったところか」

「どうでしょうか? 星河の主張は正しいと思いますか?」

 田中が聞く。榊原はしばらくビデオを巻き戻したり早送りしたりを繰り返していたが、

「さすがにこれだけじゃ判断ができない。事件の関係者、特に人質に話を聞いてみたいのだがどうだろう? もう少し具体的に検討してみたい」

 田中は少し考えたが、

「わかりました。君がそう言うなら何か考えがあるのでしょう。今日のところはお暇させていただきます」

「関係者の所在を教えてもらうわけにはいかんだろうな」

「個人情報ですので。ただ、名前はわかっていますので榊原君なら簡単に調べられるのではないですか。それに、写真程度ならお貸しできます」

「助かる」

 田中は資料を片付け、

「くつろいでいるところをすみませんでしたね」

「別にかまわんよ。これが仕事だからな。何かわかったら連絡するよ」

「ありがとうございます。では私はこれで」

 田中はそう言って頭を下げると事務所を出て行った。

「さてと、さすがに今からは無理だから、明日からさっそく聞き込みをするか」

 そう言って、榊原は軽く伸びをした。時刻は午後五時を指している。

「瑞穂ちゃんもそろそろ帰ったほうがいいんじゃないかね? あんまり遅くなるわけにもいかないし。亜由美ちゃんもバイト上がっていいよ」

「わかりました」

 亜由美はそう言うと、事務机の上を片付け始める。

「先生、明日の聞き込み、ご一緒してもいいですか?」

 瑞穂の問いに、榊原は苦い表情をする。

「もしここで『駄目だ』と言ったらどうするかね?」

「絶対ついていきます」

「なら答えるまでもないだろう。いつも通り、勝手にしなさい。ただし、何があっても私は責任を持たない」

 榊原は小さくため息をついた。瑞穂が後ろで小さくガッツポーズをしていた。


 翌日九月六日土曜日午前九時。榊原と瑞穂は新宿にある都営バスの営業所を訪れるために、新宿駅に降り立った。亜由美は事務所で留守番である。榊原は相変わらずヨレヨレのスーツ姿。一方の瑞穂は私服の白いワンピース姿である。

「学校はいいのかい?」

 榊原が一応聞く。

「土曜は休みですし、部活は事実上の引退状態ですから」

「ミステリー研究会だったな」

「元会長ですけど、六月に引退しちゃって、今は暇なんです」

「受験勉強しなさいよ」

 榊原は小さく呟いた。

「いいじゃないですか。こっちの方がためになりますって」

 瑞穂はニッコリ微笑みながら言った。

「人質たちの所在はわかったんですか?」

「運転手の奥谷譲作と、外務省の長尾久重は比較的簡単にわかった。この二人にはすでにアポを取ってある。ただ、他がわからない。フリーターの三好年夫は居場所がつかめないし、高校生の長坂憲次郎にいたっては、どうも他府県の人間らしい。大学生の倉木雪子もどこの大学なのか見当もつかない」

 榊原は田中から預かった写真を見せながら言う。

「あとの二人は?」

「会社名さえわかれば何とかなるんだろうが、単に観光会社と警備会社というだけではさっぱりだ」

「とりあえず、わかっている二人に話を聞くのが一番ですね」

 瑞穂の言葉に、榊原は小さく頷いた後、写真をポケットに突っ込んだ。

話しているうちに、二人は都営バスの営業所があるビルにたどり着いた。

「すみません」

 中に入り、受付に声をかける。

「アポを取っていた榊原です。奥谷さんはいらっしゃいますか?」

「承っております。少々お待ちください」

 受付の女性が告げ、しばらくすると、制服を着た初老の男が出てきた。

「奥谷です。お話があるとのことですが」

「ええ。立ち話もなんですから、お茶でもどうですか?」

 そう言うと、三人はビルの前にある喫茶店に入った。

「私立探偵さんでしたね。どういったご用件で?」

「実は、例のバスジャック事件に関してある出版社から調べなおすようにという依頼がありまして、こうして関係者の方々にお話を聞いている次第です」

 犯人の冤罪を晴らすために動いているとはとても言えないので、そのような理由をでっち上げて質問を開始した。

「まぁ、私の知っていることでしたらどうぞ」

 奥谷は訝しげな表情ではあったが、とりあえず話すこと自体は認めてくれた。

「では、さっそくですが事件についてお話ください」

「あれは池袋駅のバス停を出た直後だったかな、突然お客の一人が立ち上がって私の首筋に刃物を突きつけたんです。よく見たら星河でした」

「星河さんとは御知り合いで?」

「ええ。彼も元は都営バスの職員でしたから。時々同僚数人と一緒に飲んだりはしていましたよ」

「星河さんはあなたのことに気がついていましたか?」

「いや、向こうは私のことなど覚えていないでしょう。あまり他人を気にしないタイプでしたから」

「その後どうなりました?」

「『西へ向かえ』と言ったんで、仕方なく指示に従いました。その間に、星河は客の位置を変えて管理しやすくしたようです。規定にのっとって、SOSのサインを出しましたけど、警察が駆けつけたのは首都高に入った後でした」

 いわゆる二〇〇〇年の西鉄バスジャック事件の後、全国のバスには緊急時用の表示板設置が義務付けられた。スイッチを入れると行き先表示板が回転して「SOS」に変化するもので、内部のバスジャック犯からは見えないまま、外部に緊急事態を知らせる役割がある。

「もっとも、星河とて元はバス職員でしたから、サインが出るのは予見していたみたいです。警察が併走しても特に顔色も変えませんでした」

「首都高に入った後は?」

「東名に乗り換えて、例のサービスエリアに到達する直前にガソリンが切れかけたので、サービスエリアでの停車が許可されました。その後は、ひたすら神頼みですよ」

「突入の際、何か変わったことは?」

「何しろ運転席にいましたからね。衝立が邪魔で後ろのことはよくわからないんです。それに、スタングレネードが発光した直後には、私は機動隊の手でバスの車外に引きずり出されていましたからね」

「発光からの時間は?」

「それこそ五秒もないはずです。機動隊としては、とにかく運転手を真っ先に救出してこれ以上のバスの暴走を阻止するつもりだったんでしょう」

 奥谷はしんみりと言った。

「突入の時、星河はどこに?」

「よくわからないんです。ただ、後ろの方にいたみたいなのは覚えていますけど。でも、その少し前には私のすぐ後ろ辺りで騒いでいましたがね」

「騒いでいた?」

 榊原は訝しげに奥谷を見た。

「どうも正面にいた警官が気に食わなかったみたいです。何かわめいてシートを叩いていましたよ。後ろを見るわけにもいかなかったので、誰の席かはわかりませんが。その後、足音が後ろの方にいって、直後にスタングレネードが発光したんです」

「なるほど」

 榊原は頷きながら何かをメモしていた。

それから榊原はいくつか質問を重ねたが、最終的に奥谷からはそれ以上の情報を聞き出すことはできず、やがて時間となって奥谷への質問は打ち切りとなった。


「いやぁ、あの時はひどい目に遭ったよ」

 奥谷の元を辞した二人は、次に外務省の長尾久重の元を訪れていた。外務省の課長職におり、国家公務員の中でもエリート職である外務省勤務だけあってどこか威厳に溢れている。こういう類の人間には事務的に話を進めた方がいい。榊原はそう判断して淡々と質問をしていった。

「あの日はどうしてバスに?」

「急な仕事でね。池袋のある国の大使館を辞した後、新宿の都庁での打ち合わせに行く途中だったんだ。まぁ、公用車で行っても良かったんだが、気分転換をかねてバスに乗ったのが間違いだった」

 長尾は忌々しそうに呟くが、榊原は事務的な様子で話を進めた。

「占拠後は?」

「場所を入れ替えさせられたよ。前の方の席だったかな」

 確か場所は昨日の見取り図では3‐Cだったはずである。前から三列目の通路側の席だ。

「突入時の行動はどうだったんですか?」

「いきなり目の前が真っ白になって、何がなんだかわからんまま、気がついたらバスの外で手当てを受けていたよ。恥ずかしいことに、一瞬失神していたようだ」

「つまり、突入のときのことはよく覚えていない?」

「そうなるな。極めて遺憾だが」

 長尾は憮然とした表情で告げた。

「では、突入の直前のことはどうでしょうか?」

「直前か。まぁ、少し身が縮まる思いはしたが」

「と言いますと?」

 榊原が促すと、

「その時、やつは私の斜め前に立っていた。そしたら、やつが正面の窓から前に潜んでいる警官に気がついてな。突然大声でわめきながらナイフを私の喉元に突きつけた」

「それは、随分大変な思いをなされたようで」

「まったくだ。もっとも、やつは正面の警官が気になるようで、体は正面に向けたまま手だけを私の方に伸ばしていたのだがな」

「その後は?」

「苛立ったように、私にナイフを突きつけたまま、反対の手でやつの斜め前に座っていた若い女の子の座席を思いっきり殴った」

 おそらく、それが奥谷の聞いた音の正体だろう。

「そのすぐ後に、急に身を翻して、後ろの席の方に行った。ナイフから開放されてホッとしたところに閃光だ。寿命が縮まったよ」

 長尾は小さくため息をついた。


「さて、どうしますか? このまま帰りますか?」

 外務省を辞した二人は、そのまま秋葉原の辺りを歩いていた。オタクの街として有名になった秋葉原であるが、元は電気店街であるため何台かのテレビも街頭に出ている。

「帰るわけにはいかんだろう。まだ何も詳しい事がわかっていない」

「とはいえ、他の人たちの所在は不明ですし」

 と、その時だった。

「あれ、瑞穂じゃない」

 不意に声がかかった。向こうから背が高めの女の子が歩いてくる。

「あ、由衣ちゃん」

 瑞穂も驚いた声を出す。笠原由衣。瑞穂の中学時代の友人で、今でもよく遊びに行ったりしている。

「友達かい?」

「はい。笠原由衣ちゃんといって、中学時代の同級生です。今は、桜森学園高等部に行っています」

「ほう」

 榊原は感心したような声を出した。桜森学園は私立桜森大学を母体とする都内有数の有名校で、小中高大一貫のエスカレーター学校。その分、途中から入るのが難しいと聞いている。

「水泳の推薦で入ったんですけどね。おかげで授業が大変です」

 由衣はそう言うと、瑞穂に顔を向けた。

「瑞穂、この人は?」

「私立探偵の榊原恵一先生。前に少し話したでしょ。私、この人の助手をしているの」

「自称、だがね」

 榊原は難しそうな表情で訂正した。

「ああ、なんかそんなこと言ってたね。てことは、今も何かの捜査中?」

「うん、ちょっと人探ししてて。そういう由衣は?」

「これから新宿にある塾に行くところ。エスカレーターじゃなくて他の大学受けようと思っているから」

「へぇ、どんな塾?」

「興味あるの?」

「受験前だから、さすがに行ったほうがいいかなって思っていて」

「何なら紹介してあげようか?」

「本当?」

 そんな取りとめのない会話が続き、榊原は手持ち無沙汰に待っていた。

 と、不意に瑞穂は榊原を振り返った。

「ねぇ、先生。せっかくですから見せてみませんか? あの写真」

「まぁ、藁にもすがってみるか」

 榊原はそう言って、ポケットから残る証人たちの写真を出した。由比はしばらくそれを見ていたが、不意にその一枚に目を留めた。

「この人、どこかで見た事があるんだけど」

「どの人?」

 由衣が指差したのは、倉木雪子の写真だった。

「確か、私の一年先輩にそんな人がいたと思う。吹奏楽部の部長だったからよく覚えているんだけど」

「今どこに?」

「確か、早応大学に進学されたって聞いてるけど」

 早応大学も都内では有名な私立大学である。

「聞いてみるものだね」

 榊原は苦笑すると写真をしまい、

「じゃあ、行ってみるか。ありがとうございます」

 と、礼を言って歩き始めた。瑞穂は慌てて、

「じゃ、また電話でもしよ。さっきの塾の話もしたいし。それじゃあね」

 と、言うと、唖然としている由衣を残して榊原の後を追った。

「……何か、瑞穂のやつ、随分活き活きしているわね」

 由衣はそう呟くと、首を振りながら駅の方に向かった。


 巣鴨にある早応大学に着くと、事務局で倉木雪子の名前を探してもらい、経済学部に在籍しているのを突き止めた。呼んでもらえないかと頼んでみると、快くアナウンスしてくれた。何ともいい加減なものだと榊原は呆れていたが、何にしても本人に会えるのだから文句を言ってもいられない。

 やがて、事務局に一人の女性が姿を見せた。

「倉木雪子です」

 相手はそう言うと、榊原たちを学生会館のラウンジに案内した。生徒も少なく、話しやすい場所である。

「事務局の方の話だと、探偵さんということでしたが、雑誌の取材で動いていらっしゃると?」

「はぁ、これも仕事ですので、よろしくお願いできますか?」

 榊原は頭を下げた。雪子は不快そうな表情をしたが、

「まぁ、せっかく来られたんですから構いませんが、これっきりにしてください」

 と、一応話を聞くことを了承してくれた。

「わかっています。それではさっそくですが、なぜあのバスに乗っていらっしゃったのですか?」

 倉木は少し考えたが、

「あの日は前期の期末テストの日で、テストは午後からでした。なので、いつもより遅めにバスに乗ったんですが、慌てていたのかバスを間違えてしまって。どうしようかと思っていたら、いきなりバスジャックに遭ってしまったんです。本当についていませんでした」

 倉木はあまり思い出したくないというような表情をした。

「バスジャック後、犯人は座席移動を強要したとか」

「はい。私は一番前の席に移されました」

 昨日の見取り図では1‐B、すなわち運転席の真後ろである。

「スタングレネードが発光した瞬間、すなわち突入時はどうされていましたか?」

「ただ怖くて、座席でうずくまっていました。しばらくして感覚が戻ってきたときには全て終わっていて、自分でバスを降りました」

「突入のとき何が起こったのかは?」

「わかりません。後ろの方で何か騒いでいたのは感覚でわかりましたが」

 おそらくそれは機動隊と犯人の格闘だろう。

「突入直前に座席を殴られたとか」

「はい。何かわめき始めて、私の通路を挟んだ斜め後ろに座っていた男の方に正面の方を向きながらナイフを突きつけていました。男の人は犯人の斜め後ろにいたんですが、後ろに手を伸ばしながら突きつけていました」

「その後、反対の手で斜め前のあなたの座席を殴った」

「はい。殺されるかと思いました」

「その後は?」

「急に踵を返して、後ろの座席に向かいました。チラッと見ていたんですが、犯人が一番後ろの座席に座っていた、殺人被害者の方の正面に立ったときに突入が開始したんです」

 今までの証言だと、事件直前に激昂した際、星河はちょうど二列目の通路にいたらしい。その際激昂して三列目にいた長尾にナイフを突きつけ、さらには斜め前の一列目に座っていた倉木の座席を殴った後、最後尾の14‐Eに座っていた寺脇の正面に向かい、そこで突入が行われたことになる。

 榊原は何事か考え込んだ。

「あの、もういいですか?」

 倉木が不安そうに言う。

「ええ。忙しいところ、ありがとうございました」

「こんな事、今回限りにしてください」

 不満そうな様子の雪子に対し、榊原と瑞穂は礼を言ってその場を辞した。


「ねえ、先生。本当に星河じゃないんですか? 自信がなくなってきたんですけど」

 事務所に帰り、瑞穂が質問する。榊原は黙ったままソファに座って考え込んでいる。留守番をしていた亜由美は黙って書類整理を続けていた。

「考えても見てください。犯人はスタングレネードで視界と聴覚が効かない中を最後尾まで行き、そこで屈強な機動隊に気付かれないように犯人のナイフを奪って殺害したあと元の場所まで戻らないといけないんですよ。それも時間は三十秒です。仮に犯人が人質の誰かだとしても。常識的に考えて無理じゃないですか」

 瑞穂がいくつもの疑問を並べるが、榊原は返事をしない。

「先生!」

 瑞穂がそう言った時だった。不意に榊原は立ち上がると、電話の受話器を取り、電話をかけた。

「私だ。榊原だよ。ああ、久しぶりだな」

 そんな会話から始まって、しばらく話したあと電話を切った。

「どなたですか?」

「古い友人だよ。今回の事件に関してどうしても聞かなければいけないことができた。それさえ聞けば何とかなりそうだ」

 そう言いつつ、榊原は出かける準備を始めていた。一方、瑞穂はその言葉に唖然としていた。

「何とかなるって、寺脇を殺した犯人がわかったということですか?」

「ああ」

「星河ですか?」

「おそらく違う」

 さらりと、とんでもない事を言う。

「ただ、まだ確証がない。それを確かめに行く」

「確証って……」

「悪いが、現段階では話せない」

 榊原は短くそう言うと、ドアの方へ向かった。

「先生!」

「そういうわけだ。私は出掛けるよ。どうも飲みながらの話になりそうだ。遅くなるから先に鍵を閉めて帰ってくれて結構だ」

「はあ」

 亜由美は呆気にとられて返事する。それを確認すると、榊原は、

「じゃあ、また明日」

 と言って事務所を出て行った。後にはわけがわからないままの瑞穂たちだけが残される。

「先生、大丈夫でしょうか。何だかいつもと様子が違っていましたけど」

 瑞穂がまだ少し戸惑ったように言う。

「まあ、先生が何とかなるって言っているんだから、何とかなるんじゃないかしら」

 亜由美は苦笑いしながら言った。

「せっかくだから、私の家に来る? 勉強見てあげるけど」

「本当ですか!」

 一応受験生の瑞穂が亜由美の言葉に喰いついた。

「本当に、毎度毎度お世話になります」

「いいのよ」

「でも、それと一緒に事件のことも考えましょうよ」

 瑞穂はボードの見取り図を移しながら言った。

「そうね。それもいいかもね」

 亜由美は苦笑しながらも合意した。

「じゃあさっさと後片付けしちゃいましょう!」

 瑞穂は率先して部屋を掃除し始めた。

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