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瑠璃の羊  作者: 八谷紬
第二章 赤は無慈悲な生の女王
9/18

(5)

 目が覚めると、喉が痛かった。身体も重い。いつ眠りに落ちたのか覚えていない。コンタクトレンズを入れたままなことに気づき、目薬を探す。点してなんとかベッドから身体を下ろし、ずるずると机まで進む。キッカが用意してくれていたハーブティ。冷めきったそれは、とても渋かった。

 机の上の時計を見る、午前六時。もう朝が来ている。つづけて自分の右手首を見る。手袋をしたまま眠っていたらしい。外すと、黒い蛇が現れる。

 手首に異常はなかった。ためらい傷のひとつでもあったら、自分を笑うところだった。なんとかそこに行く前には留まったらしい。

 ため息がひとつこぼれる。頭が痛い。まだ、生きている。

 馬鹿なことは忘れて、きちんと動こう。そう決めて立ちあがった。とりあえずシャワーを浴びて、朝食へ行こう。

 シャワールームに入り蛇口をひねる。湯気が小さな空間を包む。さあ、今日も始まったんだ。わたしは息を吸って、着ているものを脱ぎ捨てた。


 午前七時、朝食の時間。ちょうどに食堂に入ると、紅茶の香りがふわりとしていた。

「おはよう」

 その笑顔に挨拶を返す。どうしてか、すこし後ろめたい気持ちがある。

 既に用意されていた朝食プレート。ハニートースト、オムレツ、ミネストローネ。席につくと、あたたかい紅茶が置かれる。

「食欲、出た?」

 四角いテーブルの右隣に座るキッカ。

「はい」

 ほんとうはわからなかったけれど、そう答えておく。案外、食べようと思ったら胃に入るだろうから。

 シャワーを浴びて鏡を見て、そこまでひどい顔じゃなかったことを確認した。だけどキッカはすこし首を傾げて、わたしの顔をじいっと見つめてくる。

「なんでしょうか」

「いや、ニイとヒノエって付き合ってるんだっけ?」

「いいえ、違いますけど」

 何かと思えば。唐突にどうしたというのだろう。

「だよねぇ」

 勝手に聞いて勝手に納得して、なんだというのだ。そりゃ確かに今まで二、三度は勘違いされたことがある。でもあいにく、互いにそういった感情は抱いていない。わたしたちはどちらかといえば兄妹に近い。家も隣、といっても間に何もないだけで離れてはいるんだけど一応そういう家族ぐるみのおつきあいというものが昔からある。

「たぶん勘違いしてるんだよね」

 そのひとことがわからなかった。誰が、が抜けている。でもそれをキッカは言いそうにない。困ったようで、ちょっと楽しんでいるような顔。

 なんだかよくわからないけれど、うっすら見えなくもないのでその話を終わりにしたかった。「ところで」とあえて前置きをして、わたしの向こう側のプレートを指す。

「来ないですね。昨夜もですか?」

 時計を見れば十分を過ぎている。最初こそ違えど、意外と彼は律儀に時間通りに現れていたはず。もしや寝坊だろうか。

「いや、昨夜は一緒に食べたよ。まああまり食欲はなさそうだったけれど」

「まだ寝てるんですかね」

「どうだろう。ちょっとコールしてみようか」

 そう言ってキッカは立ちあがった。気にしなくていいのに、食堂の入口付近まで移動してから携帯端末を取り出す。じっと見ているのも悪い気がしたので、わたしは紅茶をひとくち飲んだ。甘いりんごの香り。

「出ないね」

 その声にさほど危機感や心配の色はなかった。でも顔を上げて確認すると眉根が寄っている。コール音を切っていて寝ていれば、気づかないことだってある。でも遅刻の許されないこの生活。人間だから寝過ごすこともあるし、今は休暇だし、ということを踏まえても気にかかる。

 ふと思い出す昨日の香り。祖父の病室で嗅いだ匂い。あれは。

「あの」

 身体が震えた。脳にわずかな衝撃が走る。

「部屋、行ってみませんか」

 冗談だろう。そう思う自分がいる。きっと部屋を訪ねてみたらなんてことはない、ぐっすり眠っていただけだ。そう知りたい自分がいる。

 わたしの提案にキッカの顔がくもった。しばし時間を置いてから「そうだね、起こしにいこうか」と返ってくる。

 でも、その声に柔らかさはなかった。

 違う。きっと違う。昨日のわたしがシンクロする。立ち上がろうとして椅子を蹴ってしまい、金属音が食堂に響く。わたしは何を感じた? どう思っていた? 何をしようとしていた?

 わたしと彼は違う人間だ。ジーンリッチだとか欠陥品だとかという話ではない。生まれ育った環境も現状も違うはず。だから思考が重なるなんてことは。

 斜め前を進むキッカ。彼の足取りがいつもより余裕がなかったことは気づかないふりをした。ただ置いていかれないようにと、後を追う。いつもは足を踏み入れない場所。


 階段の中ほどまできて、ぶわっ、と鉄の匂いが鼻についた。鉄、違う。もっと生臭い。

「キッカさん」

 声が震えた。足が止まってしまう。いやだ、この先に行きたくないとこころが拒絶する。

 振り返った彼の顔に、頬笑みはなかった。むしろわたしの顔を見て察したのだろう。「行くよ」とだけ言い残し、走るようにのぼりだす。

 行きたくない。だけどここでそれを選択したら、わたしは二度と顔を見れないだろう。彼の顔をじゃない。自分の顔をだ。自己を拒否して生きて、さらにそれまで拒絶するのか。そうしたらもう、わたしは、わたしは。

 なんとか足を動かして、階段をのぼる。濃くなる匂い。頭が痛い。

 廊下を曲がった背中を見て、それに続く。もう、ここまで来たら引き返したくない。キッカは端の部屋の前で立ち止まって、問答無用でロックを解除していた。

「ナギ!」

 その声が遠い。遅れて部屋の前に辿りつくと、むせかえるような血の匂いが充満していた。そして聞こえてくる水の音。

 殺風景な部屋だった。およそ芸術学部のひとの部屋とは思えないほど、色がなかった。そんなことを冷静に見れてしまうぐらいには、わたしの頭は混乱している。ゆっくり、音と匂いのする場所の前に立つ。

 馬鹿だ。素直にそう思った。濡れた髪が顔に貼りついている。投げ出された足。力なく壁にもたれる上半身。小さなナイフを落した右手。白い肌、血の気のない唇。閉じられた瞳。赤いひとすじの線。

「この馬鹿」

 キッカの声もわたしと同じだった。ほんとうに、馬鹿だ。何を選択しているのだろう。

「ニイ、医務室に連絡」

 迅速に対処し出すキッカを見て、わたしは笑った。どうしてだろう。なんで笑いがこみあげてくるのだろう。何がおかしいんだろう。

「まだ脈はある。大丈夫だから」

 みゃくはある。だいじょうぶ。だいじょうぶ?

 だって、その手は。

 気張っていた力が抜けた。文字通りぺたんと腰を落してしまう。フローリングの床が、とても冷たかった。


 きみは、しろいひつじだった。

 るりいろにあこがれた、しろいひつじ。

 でもそうやったって、るりいろにはなれないんだ。

 だって、そのいろはあかいろでしょう。


 知っている、彼は左利きなんだ。

 

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