(3)
どれぐらいそうしていただろう。チーズケーキを口に押しこみ、氷で薄まったアイスティを流しこむ。あまり長居はできないだろうとは思っていた。夕食の時間に遅れてはならない。誰かに見つかってもめんどうだ。
帰る、その提案をしようと思った瞬間、ポケットからコール音が鳴る。びっくりして慌てて携帯端末を取り出すと、ヒノエからだった。
そっとナギ・ユズリハを伺うと「どうぞ」とジェスチャーで示される。言葉よりも仕草のほうが豊かに思えたのは気のせいでありたい。
「はい」
『よ、謹慎中』
通話ボタンを押すと、液晶の向こうでヒノエが意地悪く笑った。
「いや、えっと……そうだけど。何?」
『何、とは失礼な奴だね。せっかく通話してやってるのに』
タイミングが悪い、出るんじゃなかったかも、と思いつつナギ・ユズリハにごめんなさいの仕草をおくる。ところが、彼の眉が少し寄っていた。
「コチヤ?」
どうした、そう訪ねたくなる前に彼がヒノエの苗字を呼ぶ。端末からも『ユズリハ?』という声が聞こえてきた。
『いつの間に仲良くなったのお前』
ヒノエの声がくもる。でもこれは彼を訝しんでのことではない。ヒノエはそういう男であるが、それをナギ・ユズリハが理解しているかどうかがわからない。だってヒノエはたったふたりの絵画専攻でもあんまり会話がないと言っていた。
『てかそこどこ? 寮じゃないでしょ?』
余計に声が低くなる。どうしたものかと思案すれども、何も思い浮かばない。
『何やってるのお前は。見つかったら謹慎延びるでしょうが』
このままではヒノエの小言が始まりそうだ。これはさっさと終わらせて改めて連絡することを約束しよう。
「コチヤと、知り合い?」
そう思ってすぐに、意外な声がかかってきた。端末から顔を上げる。ナギ・ユズリハの顔が無表情に戻っていた。
「え、うん」
だってあのとき、夏季休暇の前日に廊下で会ったでしょう。そのときにヒノエは確かに声をかけて、わたしはその横にいた。まさかそこを聞かれるとは思わなかった。たしかに、あまり眼中に入ってないのかなとは思ったけれど。
「そう、悪かった」
意味がわからない。何か気に障ったのだろうか。でもそれならどうして謝るのだ。こんがらがるわたしを置いて、ナギ・ユズリハは立ちあがる。「帰る」そうつけ加えて。
何がどうしたというのだ。わからなくとも、そう言われてはわたしも立ち上がるしかない。とりあえずヒノエにはあとで連絡するからと伝えて端末の電源を落した。よくわからないけれど、とりあえずそのタイミングの悪さに「馬鹿」とだけ伝えてから。
会計を済ませた彼を追う。「帰ったらお金渡す」と言えば「いい」と断られた。
そう長くない帰り道。行きよりも数段気まずい空気。通り過ぎた女性の香水の匂いに、思わず鼻を押さえそうになる。
どうして、そう思う自分と、いやそもそもそんなに仲がいいわけじゃないからあまり変わらない、と思う自分がいる。でもどこかやっぱりその声の刺々しさは気になったし、先程よりも歩くスピードが速くなったことも気にかかる。
「ごめんなさい、ヒノエが何か」
気に障ることでも言ったか。そう聞こうとして口をつぐんでしまった。
あまりにもきれいな顔が真っ直ぐ前を向いていたから。
あの日、廊下で会ったときと同じ。ただきれいな顔がそこにある。きっと、わたしのことなんて目に入っていない。
好奇心に負けて、もしやこれで少し何かが変わるかもという誘惑に負けて、扉をくぐった。そこまでは悪くなかったのだろう。だけど、どこか――何かささいなものを越えてしまったのかもしれない。
馬鹿だ。ヒノエに向けたことばは、そのまま自分自身にも返ってくる。原因がわからない苦しみほど、もがくものはない。
空を見上げるともうすぐ夕立がきそうな雲がいた。風も水分をはらんでいる。雨の匂いが近づいている。
何も変わらぬままあの扉まで帰ってきて、周りに気を配るわけでもなく中へと入る。無言のまま薄暗い通路にふたりぶんの足音が響く。
そして再び、学園。夕立なんて存在しない、やや橙色を帯びてきた空、適度に調節された乾いた夏風。空を見上げれば、やはり飛空挺が泳いでいる。
人工的に並べられた緑を抜け、寮へと戻る。夏季休暇の期間、どうせ誰もいないと思っていたら、タイミング悪くひとの姿を見つけた。ヤマギワだ。
「なんだお前ら、何してた」
ちょうど今から寮に来ようとしていた雰囲気。この男は夏季休暇だと言うのにそんなに用事があるのだろうか。呆れてため息をつきそうになって我慢する。
横目で確認したナギ・ユズリハは何も言いそうになかった。ただ冷めた目で、教師という権力を着飾った男を見ていた。
「気分転換に散歩です」
「はっ、落ちこぼれ同士つるみやがって」
ああ、何を言っても無駄なのだな、と悟った。だから彼は何も言わないのだろう。好きなだけ言わせてやればいいのか。
「そういえばアマハネ、お前コチヤと出身一緒だったな」
なんてタイムリー。
「コチヤに言っとけ。お前は常に横にあわせろって」
そしてなんて嫌味。
「こいつのために連れてきた奴が、はりきってどうする」
それを今ここで言う必要はないだろう。それともわたしはヒノエがどうして入学できたか知らないとでも思っているのか。
「それともあれか、これをチャンスにこいつを駄目にして、名をあげようって魂胆か」
「は?」
さすがに、さすがに声が出る。何を勝手な妄想展開しているのだろうか。こいつは教師のくせに、何も生徒を見ていないのか。どこをどう見たら、ヒノエにそんな野心があるんだ。勝手にわたしとヒノエを結託させないで欲しい。あの男を甘く見るな。
「ユズリハ、お前、一般人に馬鹿にされてんぞ」
わたしは、気が長いほうじゃない。ヒノエみたいに飄々と受け流すだけの度量もない。せめて口が達者であれば良かったのに、とは思う。
手袋がぎゅっと音をたてた。
「あれ、ヤマギワ先生。なにしてるんですか?」
腰に力を入れたと同時に聞こえる、ふわふわした声。その毒気のなさに瞬時に力が抜ける。
寮の玄関を見れば、いつも以上ににこにこしたキッカが立っていた。
「キッカ、お前こいつらの謹慎」
「もうすぐ夕食の時間だよ。ふたりとも中に入っておいで」
「おいキッカ」
「ヤマギワ先生はお休みだというのに生徒のことを心配なさって、ほんとうに教師の鏡みたいですね。すごいなぁ」
行き場を失った力と手が、どうしようかとさまよって、横にいた人間の腕に触れた。「行こう」そう言ってとん、と押す。その腕の持ち主はいったんわたしの顔を見て、苦そうな表情を浮かべてから歩き出した。
後ろでまだ何かヤマギワが言っている。もう耳に入れなくていい。そう思いながら玄関の中に入る。
「わかってますよ」最後にキッカのそんな声が聞こえて、扉は閉じられた。すごいな、素直にそう感じたと同時に息を吐く。
「さあ、このまま夕食にしよう」
キッカの声にナギ・ユズリハがこちらを振り返った。真っ直ぐにわたしの目を見つめてくる。その言葉のないきれいな顔に、わたしは負けてすこし俯いてしまう。ヤマギワが言ったことは全部勝手な妄想だと言ってしまいたいのに、うまく言葉が出てこない。
逡巡している間に、ナギ・ユズリハは先に進んでいった。しまった、と思う。ただでさえヒノエのことで気まずい雰囲気があったのに、ヤマギワがそれに拍車をかけた。わたしは何もフォローできていない。
「大丈夫、ヤマギワがああいう奴だって、みんな知ってる」
何もできず立ち尽くすわたしの背を、大きな手のひらがぽん、と押す。柔らかな声が頭上からふりそそぐ。遠くなる背中。揺れるグレーの髪。どこからか香る、グリーンノート。
「キッカさん」
顔だけ動かして、微笑む顔を見る。
「結構、嫌味ったらしいんですね」
このひとが寮長で良かった、なんていまさらながらに思う。
「手厳しいねぇ」
だって、彼だけは変わらない。裏も表もない人間なんていないとは思うけれど、少なくともわたしたちには一面しか見せてくれない。