(2)
それから、ナギ・ユズリハはきちんと同じ時刻に食堂に現れるようになった。意外、とは思えない。だってわたしは彼のひととなりを知らなかったから。
キッカが言うところには、少々人見知りなところがあるらしい。だから食事の時間も、彼の要望でわたしとはずらしていたのだと。
「何気に、時間をずらして用意するのは大変だよね」
そう笑った彼の手際はよくて、夕食の手伝いをしていたわたしは舌をまいた。きっと嘘だ。
食事のあいだ、彼はよけいなことは口にしなかった。それでもキッカの問いかけには応えるし、わたしとキッカの会話に無関心、というわけでもなさそうだ。かといってわたしからはやはり話しかけにくい。話題が見つからない。
正直、もどかしさを覚えていた。あの絵が好き、そのひとことすら口にできなくて。
食堂以外では顔もあわせない。寮内は男子と女子で階層が違う。彼は庭にいることも、書庫にくることもなかった。ただ時折、食堂にテレピン油の匂いを引きつれてきていた。
彼と二度目の昼食後。わたしはもやもやとしたものを抱えつつ庭に出ていた。キッカが手入れしているわずかな草花。疑似太陽光といえども、ひまわりは大輪を咲かせている。その横にあるベンチに腰をおろし、何をするわけでもなくグラウンドを眺める。その先にある、今はひとけのない箱。
どうなのだろう。ひとつため息をこぼす。わたしはあの名が気になって、あの絵が好きで、これを描いたのはどんなひとなのかとときおり考えにふけっていた。そして今、その人物は食事のときだけとはいえ、目の前にいる。表情を確認することも声を聞くこともできる。恋焦がれた名の持ち主が、そこにいる。
嬉しい? いやちょっと違う。残念? そういうわけでもない。
そこに確かにナギ・ユズリハはいる。でもそれだけなんだ。
白色か瑠璃色か、マジョリティかマイノリティか。いやなかにはキッカみたいな人もいるだろうけれど。それでもわたしは未だ何も知らないに等しい。
初めて彼を見たとき。あの紙を拾って、こっそり見たとき。わたしは想っただろう。ああほんとうに、わたしは馬鹿なんだろう。でも、もっと馬鹿になりたい。皮の手袋が音を立てた。
もう一度ため息をつく。花の香りにふわっと油絵の具の匂いがまじった。窓が開いているのか、と思えどもっと近い。単純にナギ・ユズリハが寮から出てきただけだった。
「ああ」
わたしに気づいたらしく、こちらを見てそれだけこぼす。そういえばヒノエが名前を読んだときもこうだった。
「散歩かなにか」
こちらが黙っていては無視のようになってしまう。かといって先程昼食を食べたばかりなのにあらためて「こんにちは」もおかしい。自然と疑問形になってしまった。
しかし彼はすこし考える素振りを見せてから、ゆるゆると首をふる。散歩以外に外に出る理由があるのだろうか。
「学校に用事?」
その問いにもノーだった。残るはグラウンドだが、今からスポーツをしに行くといった雰囲気でもない。ラフではあったものの、運動には向いていない服を着ている。ではあとなんだろう、そう考えた時点で彼は歩き出していた。学園の外側に向かって。
「え、ちょっと」
そちらに何があると言うのだ。驚いて声を出すと、振り返った彼が顔をしかめていた。
その表情に身体が硬直する。
「見つかったら、面倒」
初めて見る表情のナギ・ユズリハがそれだけ言った。そしてまた木々の中を進んでゆく。その先は、ドームの壁しかないはず。
わけもわからずわたしはその後を追った。どうしてだろう。ときに馬鹿は無鉄砲なものなのかもしれない。後先考えずに彼の元へと走り、ため息をつかれる。その瞳に初めて違う色を見た。
ついていく、と宣言していない。一緒に行っていいか、と許可を請うてもいない。それでも彼が何も言わないのをいいことに、わたしはその後ろを歩く。辿りついた先はやはりドームの壁だった。
「知らなかった」
思わずそんな声がもれた。ドームといえど、この学園の出入り口はひとつなわけじゃない。一応、正門と裏門と言われる場所があるし、非常用にいくつかあるのは知っていた。けれどこれは知らない。
小さな、ひとひとりが通るだけの扉。表示も何もない。なんのためにあるのだろう。いやそれにしても、セキュリティロックがかかっているはずだ。あるのを知ったところでどうにもならない。学園の扉は、すべて管理されている。
なのにナギ・ユズリハはポケットから何かを取りだすとそれを扉に差しこんだ。まさかの鍵穴。彼がその鍵を持っていることも不思議だけれど、それよりもこの学園にとても似合わない旧式のロック。むろんわたしの地元ではまだまだ使われているけれど、ここでそれを目にすることはないと思っていた。
ナギ・ユズリハは何食わぬ顔でその鍵をポケットに戻し、そっとドアノブに手をかけ向こう側へと進む。足を一歩動かしてから、わたしを見る。「来るのか、来ないのか」そんな表情で。
今日は謹慎の五日目。あと少しで解放される。外出禁止は頭の中にある。見つかったらきっと謹慎は延長されるだろう。
このまま彼を見送るという選択もあった。もっともこれをキッカに報告するつもりはない。この先彼が何をしに行くのかはわからない。知らなければ、それが悪いことかどうかも判断できない。だから報告なんて浅はかなこと、したくない。
それらを考えてもなお、わたしの足はその扉を目指した。
長く暗い通路、もしくは水路。大小さまざまなパイプ、ネズミにすえた匂い。
そんなものは一切合切存在せず、簡素な通路を抜ければすぐに反対側の扉が見えた。そちらは鍵がかかっていないのか、ひねればすぐに扉が開く。
眩しい、外の世界。アスファルト、鉄、人間の匂いが一気に鼻をつく。午後の気温は蒸し暑く、されども高いビル群にほんものの空は追いやられていた。その隙間にちらりと見えた本物の飛空挺。
外から見た学園ドームは、ただの灰色だ。扉は一見してそれとわかりにくくなっている。そもそもなんのためのものだろう、その疑問はあれど追求しないことにした。あれこれ聞いては、ナギ・ユズリハが嫌がるかもしれないと思ったからだ。
なんにせよ久しぶりの外。背伸びをすると道行くひとの視線がつきささる。制服ではないからただの休暇中の学生だ。それでもきっと他人がこちらを見るのは、わたしの横に無表情で立っている人間のせいだ。
当の本人はそんなこと意に介する様子もなく、数秒まわりを見渡してから歩き始めた。ここで別れるという選択はない。だって帰りがどうなのかわからない。鍵がなければ入れないかもしれない。
「もしかして、謹慎の理由って」
それでも無言で歩くのは辛かった。外の音は世界に溢れている。話し声、路面電車、通行シグナル。その中にいて同伴者と会話もなく進むのはすこし、さみしい。
「もしそうならば、今ここにいない」
だけど返答は素っ気なかった。そりゃそうだ。あんな場所から外出しているのが見つかっていたら、鍵は取りあげられるだろうしセキュリティを強化するかあの扉を潰すだろう。
かといってじゃあなんで、とは聞けなかった。わたしは些細な理由でも、彼がどうだかはわからない。それにそんなことを聞けばあの紙やヤマギワの態度の理由を知りそうで――そう、怖かった。情けない。
そうなっては会話も続ける勇気がなかった。辛くとも、さみしくとも、ひとには踏み込んではいけないラインがあることをわたしは知っている。
しばらく歩いて辿りついたのは国立美術館だった。五年前に増改築したそれは比較的まだ新しい。隣にある現代美術館に比べるとモダンで落ちついたデザインの箱。
なるほど、少し納得する。彼は芸術学部だ。こういうところが好きでもなんにも不思議はない。
しかし財布を持たずに出てきてしまったことに今更気がつく。学生証があれば無料で入れるのにそれすら持っていない。しかたない、ここで待っているか。そう思ったわたしの目の前に、入場券。
「入りたくないなら、いいけど」
やっぱり彼の言葉に熱はない。それでもわたしはどこか嬉しくなって「ありがとう」とそのチケットを受け取った。
国立美術館には、何度か来たことがある。授業とヒノエのコンクールと。常設展にはさまざまな国の絵画彫像が飾られ、その奥にはもう古くなってしまった美術品を修復しながら展示している。そして二階に特設展。コンクールやイベント、ときには学生作品が展示されている。
どうやらナギ・ユズリハが見たいのは二階にあるらしい。彼は常設展に目もくれず、階段へと足を向けた。わたしは特に見たいものがあったわけではないから、何気なしにその後に続く。
階段をのぼりきってすぐ、特設展のポスターが見えた。学生限定の絵画コンクール。ヒノエからそんな話は聞いていないから、参加はしていないのだろう。ナギ・ユズリハはどうだかわからない。自分のを探しにきたのか、彼は入り口のパンフレットには目もくれず順路をぐんぐん進んでゆく。わたしも慌てて後を追う。
絵を見ていない、わけではない。たぶん飾られている絵はチェックしている。でもそれは作者が誰とかなんの賞を取ったかというレベルではないと思う。ただ絵を視界に入れているだけ。
いったい何を。わたしは絵を見ている暇がなかった。大きさの制限があったのか、規則正しく並べられている油彩、水彩、ときには水墨画を横目に彼の背中だけを追う。
あっというまに入り口に戻ってきた。「なかった」そんな声がぽつりと聞こえた。
自分の絵が、だろうか。聞こうとしてやめてしまった。こういう展覧会はよほどのことがない限り、全作品を飾るのだとヒノエが言っていた。ならば探していたのは別の誰かの作品なのだろう。
ふっ、と彼がわたしを見る。わずかに色を携えた瞳。その口が「悪い」と動く。
「待ってるから、見たいものがあれば見てきたらいい」
勝手についてきたのはわたしなのに。その言葉に驚きつつも、わたしは首を振った。
「下に、喫茶店があったでしょう。そこでお茶でもしよう」
真っ直ぐ帰ることもできる。でもわたしはそれを選ばなかった。だってせっかく外に出たのだ。キッカが作る食事や淹れるお茶になんら不満はない。それでもたまにはケーキだって食べたくなる。
わたしの提案にナギ・ユズリハは顔を変えることなく「わかった」と答えた。今度は並んで階段をおりる。
一階に併設されている喫茶店は、思ったより客がいなかった。すんなり奥の席に通され、それぞれに飲み物を注文する。加えてわたしはチーズケーキ。
席から見える庭は日本庭園を再現していた。わたしにはわびさびの感覚はまだわからないけれど、こういうものを見ると落ちつくあたり日本人なのだろう。正確には何人か知らないのだけど。精神的に。
ナギ・ユズリハと一緒にいたのは食事の席のみだったから、この状況だと少しリラックスすることができた。いつもと違うのは、場を作ってくれるキッカがいないこと。
どうしたものかな、と逡巡するもアイスティがふたつ運ばれてきたタイミングで、彼が口を開いた。
「友人の絵を探しにきた」
置かれたチーズケーキにフォークはさせなかった。それがひどくゆっくりとした声だったからだ。
「まだ描いてるんじゃないかって思って」
瞳はわたしを見ていない。代わりに見つめられているアイスティの氷がからん、と音をたてる。
「やめて、しまった?」
わたしの問いにナギ・ユズリハが首をかしげる。「どうだろう」そんな音が聞こえてくる。
「昔、とあるコンクールがあった。世界各国から集められる、絵画の」
「キヴィレフト?」
今度の問いには、まばたきを繰り返した。変な名前だから、といっても有名画家だけれど、覚えている。ヒノエも確か出品したはずだ。十五歳以下の、児童コンクール。
「うちの学校から出品できるのはひとつだけで。彼のは選ばれなかった」
なんとなく、彼が喋り出した理由がわかった。
「彼はそれに選ばれなければ、絵の道は諦めると両親に約束していた」
ひとはときおり、自分のことをあまりよく知らない誰かに、懺悔したくなる。吐き出したくて、その先が見つからないときが一番つらい。
「大人が選んだのは、絵が優れているほうじゃない。こっちのほうが失敗しないだろう、こっちのほうが将来的に話題になるだろう。そういう、保証」
その気持ちはとてもよくわかる。だからわたしは黙って聞く。
「選ばれた作品は、何も受賞していない。それでも大人たちは言う。ジーンリッチでも駄目だったんだから、しかたがない」
グラスが汗をかいていた。からん、とふたたび音を奏でた。その澄んだ音がやけに遠くに聞こえた。
「しかたがない、ってなんなんだろう」
そういうナギ・ユズリハも、どこか遠くに感じた。彼は窓の外を眺める。わたしもつられて視線を動かす。
水の流れる音、小さな池。赤い鯉がぱしゃんと跳ねた。
「食べたら」その声に我にかえる。彼を見ても、外を見たままだった。テーブルの上に無造作に置かれた手に、赤い絵の具がついていることに今更気がつく。
そんな風に思ってもなお、彼は絵を描いているのだ。あのヤマギワに嫌味を言われようとも。
フォークを持った自分の手。両手に絡みつく欠陥を隠すもの。わたしはこうやって自己を偽って息をしている。そんな奴に、どうこう言える筋合いはない。
「大人のために、子どもは成長するんじゃない」
それでも何も言えないのは気持ちが悪かった。だからこれは自分に言い聞かせるのだと思って口にする。
ナギ・ユズリハはやっぱりこちらを見てくれなかった。