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瑠璃の羊  作者: 八谷紬
第一章 貴石羊は半貴石の夢を見るか
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(4)

 それからは時間通りに食堂に行き用意してくれた食事を摂った。謹慎を更に伸ばしては面倒だと出された課題も終わらせた。空いた時間には読書をし、ネットワークで外のニュースを知り、雨音に包まれながら眠りにつく。

 一度だけ、両親から連絡を受けたらしい兄からメッセージが届いていた。この学園を首席で卒業した兄は、けしてわたしを責めることなくたしなめることもなく、今度日本に帰ったら一緒に出かけようと妹を元気づけようとしていた。兄は謹慎なんかくらったことがないだろう。だから、わたしのこの瞬間の気持ちもわからない。いや、それ以前にできそこないのわたしのことなんか、たぶん、何も知らない。

 返信は、しない。しばらくして二通目のメッセージが届いたけれど、それは開けることなく削除フォルダへと移動した。

 そして三日目。もうすぐ折り返し地点。他の学生に合わない謹慎期間は、たしかに案外悪いものではなかった。話相手ならキッカがいるし、ヒノエともネットワークを介して連絡を取れる。まだここにいる、ということだけが少々窮屈で、不便はない。いややはりありがたかった。両親とも同級生とも切り離された期間。

 ただひとつ気になるのは、ナギ・ユズリハの姿を見かけないこと。

 本当にいるのか、と思ってしまうほど影も見なければ声も聞かない。もっとも友人でもないのだから心配はしていない。気になるだけ。

 机の引き出しから、あの日拾った紙を取り出す。中身はもう見ない。でも捨てられない。一体何が、と思う。彼だってきみたちと同じでしょう、と。わたしならともかく、彼が嘲笑される理由がわからない。

 もやもやとした気持ちを一緒に、その紙を抽斗の奥へとしまいこむ。

 そう、ちょっと残念かもしれない。あの名の持ち主とすこしでも会話できるだろうか。そんな風に思った自分は確かにいる。この間は無視されたけれど、あらためて声をかけてみたらどうなのだろう。でも、そんな機会すらもらえずに時間は過ぎてゆく。


 恋愛は馬鹿がするものらしい。その言葉をわたしはすこし、理解した気がする。


 読み終えた本を持ち、部屋を出る。一階にある書庫へと向かう。廊下の窓から見える空は青くて、穏やかな午後の陽ざしを降りそそいでいた。誰もいない廊下。普段なら誰かしらとすれ違うはずの空間。

 ひとけのない寮の中に油の匂いをかすかに感じた。これはたまにヒノエからするものによく似ている。油絵の具に使うあの独特の、そう確かテレピン油。すこしつんとする匂い。

 ということはナギ・ユズリハだろうか。もしかしたら、芸術学部の彼とわたしとでは提出課題が違うのかもしれない。

 ああ、いるんだな、とほっとしたのは、隠したい事実。


 書庫にたどりつくと、扉が開いたままになっていた。中からは紅茶の香りがただよってくる。キッカだろう。わたしの足音に向こうも気づいたのか、入ってすぐに目があった。

「そういえば、ニイも紙の書籍派だったね」

 手にしていたのは小さなものだった。寮長室で読むものを選んでいるのか、と思ったものの既に半分ほどページがめくられている。

「はい」と返事だけして、手持ちの本を元の場所へと戻しに行く。学園の図書棟に比べればとても小さいの書庫。他にたいした利用者もいないのか、本棚にあまり隙間はない。

 それもそうだ、電子リーダーにデータをダウンロードすれば、重たい本をいくつも持ち歩く必要はない。ここはそれでも紙に印刷された本というものを選択した人たちのための場所。

 あらたに次の本を選ぼうとめぼしいタイトルのものを探しにゆく。でも読みたいと思っていた本は既に読破してしまっていた。ここに新しいものが追加されることはほぼないから。

「キッカさん」

 棚の向こうに彼がいることを確認してから声をかける。「なんだい」という柔らかい返事。

「何かおすすめの本ってありますか」

 一拍、沈黙が訪れる。

「どんなのが読みたいのかな」

「ノンフィクション以外なら、なんでも読みます」

 しかし今度はすぐに、笑い声が聞こえてきた。

「ノンフィクションは嫌い?」

 嫌いとは言っていない、が間違ってはいない。本棚を挟んで、会話が続く。

「こんなに劇的なことがあったんですよ、こんな人生送ったんですよって押しつけがましいから」

「事実は小説より奇なり、って言うよ」

「それはどうでもいいんです。わたしが欲しいのは現実じゃありません」

 ふっと、茶色い髪が揺れ、本棚の影からキッカの微笑む顔が覗いてくる。

「嘘が欲しいんです、わたし」

「そうか」彼は小さくこぼしてから目を細めた。そして顔を引っ込めて、足音を立てる。どこか別の本棚に向かい、しばらくしてわたしのいる列に戻ってくる。その手にはもうぼろぼろになった手のひらサイズの本があった。

 はい、と手渡された本。黒い表紙はわたしの手袋を同じ材質でできていた。古い本独特の香りが立ち昇ってくる。

「大昔のSFだけどね」

「ありがとうございます」

「昔は、未来はこうなるかもって考えてたんだよね。あいにくちっともその通りじゃないけれど」

 タイトルはすでにかすれていた。中を見ればわかるだろうけれど、確認するつもりもなかった。今日からはこれを読もう。もうそう決めていたから。本との出会いなんて、そんなものだ。

 あと数冊持って行こうか考えて、やめた。本から顔を上げると、今もなお微笑んでいるキッカがいる。

「ひとつお聞きしたいんですけれど」

 返事はない。その代わり小首を傾げられる。

「ナギ・ユズリハって生きてるんですか」

 ところがその質問をした直後、顏を背けられ声に出して笑われた。あまり見たことのない姿に、どう反応していいかがわからない。

「気になる?」

「え、いやだって全然姿を見ないですし」

 ふたたびこちらを向いた顔はなんだか楽しそうだった。いやあきらかに楽しんでいる雰囲気がある。

「死んでたら、いろいろ問題になると思うけれど」

「まあそうですけど……」

「せっかく一緒なのにまったく会わないのはさみしい?」

 その問いに今度はわたしが首を傾げた。さみしい? 別段そういった感情はない。ただなんとなく、なんとなく姿も見えないのは気になるなと思っているだけ。

 それなのにキッカは、何を想像してかふくみ笑いしている。

「ちゃんといるよ。まあ彼は彼でなんというか……今はきっと寮長室にいる」

 何がおかしいのだろう。疑問をぶつけたいものの、それをしたら墓穴を掘る気配がしたので黙っておいた。

「寮長室に?」

「そう。お客さま」

 その顔のキッカを前に、長々と話をする気にはなれなかった。答えを聞いてわたしはすぐに踵を返す。「本、ありがとうございます」それだけ顔を向けてもう一度伝えておく。

「話しかけてみたら」

 扉を出る間際、そんな声を背中で聞いたものの返事はしなかった。


 本を持ったまま、廊下を進む。ふと、テレピン油の匂いが鼻をついた。さきほどより強い。寮長室と言っていたから、そのせいかもしれない。

 階段の手前、いささか迷う。部屋に戻るのがわたしの選択だ。けれど、その先にある場所が引っかかる。お客さま、その単語も引っかかる。だって寮長室にいるのが不思議だし、そもそもここに客なんて訪れない。

 逡巡した結果、階段を通り過ぎる。学園から出ることは禁止されているが、寮から出ることは咎められないはず。すこし庭を散歩するだけだ。そう自分に言い聞かせる。

 でもほんとうは知っている。わたしは、彼を知りたがっていることを。

 すぐに見えてくる寮長室の扉は開いたままだった。僅かに声が聞こえてくる。男のものだ。そして聞き覚えがあるも何も、よく知っている声だ。

「ユズリハ、お前理解してるのか」

 窓の一歩手前で足を止める。見なくたってわかる。ヒノエの担任であり生徒指導総括のヤマギワ。つまりナギ・ユズリハの担任でもある。

 息を殺して窓の中をそっと覗く。こちらに背を向けたヤマギワと特にどこも見ていなさそうなナギ・ユズリハ。

「謹慎なんぞ俺のクラスから出すなんてな。まったく傍迷惑なんだよ」

 わたしはこの男が嫌いだ。指導という名のもとに何にでも口を出す目立つことをすればすぐに睨まれる。睨まれたら厄介だからできる限り関わらない。生徒から煙たがられているのに、それは自身の威厳のおかげだと信じてやまないタイプ。

「ちったぁ真面目にやれ。俺の身にもなってみろ」

 いったい誰がお前の身を案じねばならないのだろう。その白髪交じりの後頭部を睨んでいると、ちらっとナギ・ユズリハがこちらを見た気がした。

 気のせいだったかもしれない。彼の顔はすぐに違う方向を見てしまった。

 それにしてもヤマギワはうるさい。他に寮生もいないからと扉を閉めずにいるのだろうが、キッカがここから離れた書庫にいる理由がわかった気がする。

 考えてみればヤマギワは、以前読んだ小説に出てくる教師に似ている。あれはもうだいぶ昔を舞台にしたもので、未だにふるめかしい権力をふりかざした、とか言われていた記憶がある。その時代すでに古参だったのに今もなお変わらないとは。人間はやはりたいした進化はしないらしい。

 来るんじゃなかったな、と後悔していた。ナギ・ユズリハに幻滅したとか声をかけられそうになかったからとかではない。謹慎とはいえど長期休暇の期間にまで見たくない顔だった。わざわざここに来るなんて、暇なのだろうか。

「早くも画家気取りでスランプってわけか。使えない奴だよ、まったく」

 ため息を我慢して身体を反転させる。だけどその言葉に身体が硬直した。

 ――あいつさ、絵描くの嫌いなのかもしれないなってたまに思うよ。

 ヒノエの言葉がよみがえる。あのときわたしはじゃあどうして、と言った。嫌いならばあえて芸術学部に行かないだろうと。だけど、それはわたしが何も知らないから言えたことだ。ナギ・ユズリハのことを。

「自分がジーンリッチだからって、甘くみるんじゃねぇぞ。できそこないが」

 心臓が痛いぐらいに跳ねた。血液が沸騰するんじゃないかと思った。いくら教師でも担任でも、言っていいことと悪いことがある。そんなの、できそこないのわたしだって知っている。

 もう一度身体を反転させた。迷いはなかった。謹慎期間が延びるとか、目をつけられるとかどうでも良かった。ヤマギワのその言葉だけは聞き流せなかった。ナギ・ユズリハをかばいたいわけじゃない。わたし自身のために、怒りがこみ上げてきていた。

 だけどその一歩手前、今度ははっきりと彼がわたしのほうを見た。髪よりも薄いグレーの瞳がまっすぐにこちらを射抜く。その顔は苦悶に歪むことも、怒りに眉を吊り上げることもしていなかった。

 ただ、感情なんて感じられないほどに、きれいだった。

 足が止まる。毒気が、抜かれる。

「なんだ、アマハネ」

 目が離せなかった。だからヤマギワがこちらに気づいたことをわかっていなかった。そろそろと顔を動かすと、いつもと同じ眉を寄せた顔がこちらを見ている。

「いえ、声がしたので」

 かすれた声しか出なかった。とっさに嘘をつこうと思ったわけではないのに、ほんとうのことは出てこなかった。わたしの言葉に、ヤマギワが顎を上げる。

「お前も謹慎とはな。やっぱりついていけません、ってか」

 こいつは、わたしのことを知っている。担任でもないのに、顔をあわせるとときおり嫌味を平気で口にする。今まではそういうものだと思って流してきた。

 けれど、今は何かが違う。

 ふっ、と視線をそらしてしまう。その先にいるのは、ナギ・ユズリハ。

「お前は他の奴らの百倍ぐらい努力しろ」

 矛盾している。さっきはジーンリッチだから、と言ったのに今度はこうだ。そう、矛盾している。みんなこんなもんだ。

「すみませんでした」

 顔をそむけたまま乾いた口でそう答えた。そのまま急いでその場を離れる。


 来るんじゃなかった。再び強く思った。それはヤマギワの顔を見たくなかったという理由から生まれたものではない。

 見られたくなかった。わたしは確かに欠陥品、この学園では一般人だ。きれいで優秀な彼らとは違う。だけど、見られたくなかった。聞かれたくなかった。

 階段を駆けあがる。乱れた呼吸もそのままに、部屋へと走る。急いで鍵を開けて、自分の空間へと逃げ込む。そこまでしか、気力は持たなかった。

 扉を背にずるずると座りこむ。キッカにすすめてもらった本が床へと落ちて音を立てる。雨の匂いが、わたしを包む。

 行くんじゃなかった。安易な気持ちでのぞくんじゃなかった。

 何を言われても平気なつもりだったわたし。どう評価しようが所詮他人だ。だったら気に病むだけ無駄だと思っていた。

 それでも。

 膝を抱えるようにしてうなだれる。目が痛い、でも涙なんて出てくるわけがない。悲しいわけじゃない。わたしはただ、後悔している。

 だって、彼も同じことを思っているかもしれないから。


 恋愛は馬鹿がするものならしい。でも、それ以前にわたしはただの馬鹿だ。

 

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