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瑠璃の羊  作者: 八谷紬
第一章 貴石羊は半貴石の夢を見るか
3/18

(3)

 その日はゆっくりと昼間で眠っていることにした。流したままにしておいた雨音が規則的に降り注いでいる。カーテンの向こうがたとえ晴れていても、ここだけは雨の中だ。

 ほぼ全員の寮生が午前中にはここを出ていく。ゆっくりしていくものはいない。だって久しぶりの外なのだから。

 それに出遅れたのが悔しくて不貞寝したわけではない。皆に笑われるのが怖かったわけでもない。どうせ謹慎の身であることは全員が知っている。そしてそれをどう思われようとわたしの知ったことではない。

 ただせっかくの休日、ゆっくりと自分の世界に浸りたかった。夢と現実のあいだでまどろんで、だらだらとしていたかった。

 結局、ベッドから起きあがったのは昼過ぎ。さすがに喉が渇き、備え付けのクーラーボックスからミネラルウォーターを取り出す。ふたをひねりゆっくり体内に流しこむ。冷たさが染みわたる瞬間。


 ふう、と息をつく。モニタのアイコンが点滅していた。たぶんヒノエだろう。そう思って触ると、意外なことにキッカからだった。そこには彼らしい柔らかな文面で、謹慎処分の間の注意事項、食事の時間、課題の提出などがまとめられていた。

 面倒、その思いは飲み込んだ。もしこれがただ寮に閉じ込められただけならば、謹慎とはいえないのだろう。これは管理下に置かれてこそのもの。考えようによってはありがたい謹慎も、さすがに課題の提出までは面倒になる。しかし、しかたがない。

 ナギ・ユズリハはどうなのだろう。そう思ってからはたと頭を振った。どうして他人のことを考えているのだ。わたしにとって恋焦がれたのはその名だというのに。

 だけど、そうもし彼がほんとうに絵を描くことが嫌いならば。ここから出られる外の世界は良いものなのだろうか。それともその先に待つ家族を思えば、逆なのだろうか。

 もちろんそんなことわかるわけもない。ただひとつ知っているのは、どんな親であれジーンリッチである我が子を愛おしいと思っていること。その形がどうであれ、莫大な大金をかけて手にした子どもを嫌いになれるほど、人間は悟りをひらいていない。

 わたしの両親然り。たとえ出来そこないを手にしても、だ。


 着替えをすませコンタクトを入れ、わたしは廊下へと出た。鍵を閉めてから食堂に向かう。すでにキッカが指定した昼食の時間は過ぎていた。

 誰もいない寮。経験したことのない静けさの中、わたしの足音がこだまする。無機質な建物の中にときおり置かれた観葉植物が青い香りをただよわせていた。窓から差し込む陽の光が、廊下に影を落とす。

 階段をひとつのぼって、一面ガラスの壁。その隣にある食堂には案の定誰もいなかった。

 既に昼食の時間は過ぎているのだから当然だ。何か食べるものがあればそれでいい。そう思って規則正しく並べられたテーブルと椅子の間を縫い、いつもは入らない厨房に足を踏み入れる。誰かが飲んだのか、紅茶の香りがした。

「遅いよ」

 ほぼ同時に聞こえてきた声に身体が止まった。頭を左に向けると、外からは死角になる場所にキッカが座っていた。

「せっかく用意して待ってるっていうのに、ふたりとも現れないなんてねぇ」

 思わぬ人物の登場に、思考がすぐには追いつかなかった。ただ厨房の真ん中、シルバーの作業台の上に盛りつけられた食事プレートが用意してあるのが見えた。

「キッカさんが?」

「そう。だって料理人さんたちだって休暇の時期だし。それに彼らに謹慎者の責任はないからね」

「すみません」考えるより先に口が動くと、キッカは小さく笑いながら立ち上がった。

「いいんだよ。まさか寮生に適当にあるもの食えっていうわけにもいかないし」

 それでも別にいいですけれど、という言葉は返さなかった。彼は悠然と厨房を歩き、用意したプレートを両手に取る。

「それに、折り込み済みだから」

 その手に乗せられたプレートは、確かに冷めても時間が経っても食べれそうな色鮮やかなサンドウィッチだった。


 新しい紅茶のフレーバーはピーチとミント。甘い香りの中に爽やかさがまじる。ティーカップに砂糖をみっつ落とすと、キッカにはにかまれる。自分が甘党であることぐらいは知っている。

 彼も昼食はまだだったらしい。特別いやというわけでも、ひとりがいいわけでもなかったので、同じテーブルで食事を摂ることにした。わたしの目の前にキッカが座る。

 紅茶と同じ色の髪。クレソンと同じ色の瞳。このひとは、真っ白な羊のようで、すこしだけわたし側にいる。いやそれもわたしの願望でしかないのかもしれない。そんな風に思えるぐらいには、わたしは彼に嫉妬している。

 キッカは当初こそ知らないが、今では揶揄される存在だ。現状の彼らとは違い過ぎる。ただ、きれいに作られただけの人形。所有者――親の欲を満たしただけの器。

 いいや、それはきっと今も変わらない。ジーンリッチは親のエゴだ。それをわかっているからこそ、彼らは自分の足元を確立させる。自己を作りだす。

 いいのは見た目だけ――そんな声をこのひとはどう感じながら聞いているのだろう。

 だけどそう、うらやましい。だって彼はそうなるべくして生まれたのだから。やはり期待に応えられず生まれてきたわたしとは違う。

「いただきます」他に音のしない食堂にわたしの声が響く。

「はい。いただきます」キッカの声は、深くとけるような抑揚がついていた。


 そういえば。規則正しく挟みこまれた野菜とチキンとかじりながら思い出す。ここにはひとり足りない。キッカはふたりとも現れないと言っていた。

 ナギ・ユズリハ。

 もっとも、今顔を合わせたところでどうだろう。話が出来る自信はない。昨日の態度然り、持ち帰った紙然り。

「彼も来なかったんですか」

 それでもそれは口を出た。無言でこのまま食事が進むのもどうかと思ったし、他に話題もなかった。何気なしの適当な会話が展開されればいいと思ったぐらいだ。

「まあ、お腹が空いたら出てくるとは思うんだけどね」

 キッカの顔はいたってのんきに見えた。さして問題とも捉えていないようだし、心配をしている様子もない。それもそうだ。わたしたちは子どもではない。いや親や社会の庇護を受けている以上子どもには違いないのだろうけれど、それでも自己で判断する力はある程度得ているはずだ。

 もうひとくちかじった断面からバジルが香る。料理が出来るのはちょっと意外かもしれない。

「せっかくなんだから、仲良くしたらいいのに」

 彼の手に持たれたパンの間からはオムレツの黄色が見えていた。オリーブオイルの香りがする。

「せっかくの謹慎だから?」

 ヒノエ然り、どうしてそういう発想になるのかがわからない。そんな気持ちを込めて言ってみる。

「手厳しいねぇ」

 彼はいつものように、柔和に顔をほころばせてみせるだけだった。


「謹慎って言ってもね」

 ひときれぶん食べ終わって、キッカがのんびりと口を開く。

「劣等生、っていうレッテルを貼られたわけでもないし、未来への選択肢への幅が狭まったわけじゃない」

 紅茶の湯気が、ふわり彼の目の前に立ち昇った。

「良い経験だと思うけれどな。まあ僕だって幾度かあったし」

 確かにそう言う彼の顔に後悔の色は見えない。でもこのひとはいつだってこうなんだからそれが見えないからといって、何も証明にもならない。

「幾度も」

「そうだね。それでもほら、こうやって仕事してるし」

 寮長ですけれども。その言葉は出かかって消えた。仕事に優劣はないはずだ。

 でももしかしたらそんな思いは顔に出てしまったのかもしれない。キッカはティーカップに口をつけて、くすくすと笑う。

「これでもね、引く手数多だったんだよ」

 自分で言うとはなかなかだ。少々あっけに取られたものの、曖昧に「はあ」と返事をしておく。

「何かしら話題になるでしょう。モデルにスポークスマン、企業の広告塔、海外からもいろいろね」

 海外。それはすこし不思議だった。だってそのとき世界には既にジーンリッチが生まれていた。日本は遅いぐらいだった。もちろん、未だその手の研究には手をつけていない国だってある。倫理的に受けつけることができず、入国を拒否する国もある。

 それなのに海外からも。国内ならわかる。国内初のジーンリッチ。さすがに生まれてないから記録でしか知らないけれど、当時のニュースを見ればことあるごとに彼らは出てくる。

「僕の親、といっても遺伝子のね」

 その言葉に思わず視線があがった。キッカはほほ笑みを崩さない。

「外国のすごく有名なひとらしいんだ」

 彼らはけしてその話題を出さない。そもそも自分が誰の精子と卵子で生まれてきたかを知らないのだ。世界中にある、いやシェアを牛耳っている精子卵子バンクは情報を公開しない。ただ親の希望に沿い、選んで受精させる。

 だからキッカだって知らないはず。わたしだってもちろん知らない。そして彼らがそれを口にしないのは、自分を選び育てた両親を親だと考え、かつ恥じないからだ。自分は選ばれた優秀な人間。それを幼少時から叩きこまれて生きている。わたしの兄がそうだったように。

「といっても噂だけどね。僕だって知らないんだよ」

 そうつけ加えたキッカがティーカップを置いた。わたしは食事を摂るのをすっかり忘れていて、手の中のサンドウィッチをいつの間にかつぶしていた。

「それでも、僕はこの仕事を選んだんだ。自分のために」

 キッカの声に柔らかみが増す。

「だから、きみたちは迷惑だなんて、心配しなくていい」

 ああ、違ったんだ。素直にそう思った。わたし寄りだなんて、馬鹿みたいだ。

 このひとは確かに白い羊だ。でもあの群れの中には存在しない。

「ありがとう、ございます」

 迷惑を、なんて考えてもいなかった。微塵もなかった、といえば嘘になる。だってわたしは彼の休暇を奪ったのだから。それでも、そう言ってもらえるほどの気持ちはなかった。

「はい。ご飯はきちんと食べてね」

 続いた優しい言葉に頷くだけになる。なんだか苦い味がこころに広がった。

 

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