(2)
配布された成績データと担任の渋い顔を胸に抱いて、わたしはヒノエの教室へと向かっていた。普段はあまりそちらの棟には行かない。わたしは人文学部、ヒノエは芸術学部。校舎自体は間にひとつ挟んだだけなものの、生徒同士に面識はあまりない。
昨日寮では会えなかったから、今日のうちに顔をあわせて明日は一緒に帰れないことを伝えるつもりだ。もっとも、ヒノエだってわたしの謹慎ぐらい既に知っているはず。
事実、彼の教室に辿りつく一歩手前、帰るつもりであろうヒノエと目があった瞬間、至極呆れたため息を零されたのだから、間違いない。
「成績は?」でも開口一番の話題は違った。
「聞かなくてもわかるでしょう」わたしの返事にその眉が歪む。
「いい加減、本気出したら」そして加わる渋い声。わたしはそれには曖昧に笑っておくだけにした。
ふと目が掲示板に言ってしまう。校内のほとんどが電子式だというのに、この学舎だけはいまだに紙を掲示するタイプのものがある。そこには彼ら芸術学部生の作品がいくつか飾られていた。白い壁に、規則正しく並ぶ白い紙。
もっとも、わたしたちの学年に絵画専攻はふたりしかいない。だからデッサンのようなものは二枚だけで、あとはデザイン画や写真ばかりだった。
「あれ、ヒノエの?」
彼の厳しい視線を感じつつも、とぼけて聞いてみる。りんごらしき果実を持った女の人の絵。腰にまかれた布のドレープが、とても柔らかそうに見えた。
その隣に、同じものを描いた絵がある。しかしこちらはその後ろ姿で、ほんのすこし顔が見えるだけだ。それでも編まれた髪は豊かで美しい。
「それと同じく謹慎組のユズリハ」
逸らそうとしても、ヒノエの前では悪あがきにしかならない。十七年間、一緒にいても適応は難しい。
あいかわらずの厳しい目に、今度は肩をすくめてみる。同時に教室内から笑い声が聞こえてきて、驚いてしまった。唐突に湧いた、あまり気持ちのよくない声。
思わず教室の中に目を向けてしまう。開け放たれた扉から見える、わたしの所属する部屋とさして変わりのない空間。まだ残っていた幾人かの生徒。数人ずつの塊がみっつほどあって、皆一様に携帯端末を眺めながら談笑している。きっと一期の成績データだろう。
そのよくある風景の中、一番端、窓際の席に男子生徒はひとりで座っていた。その手に携帯端末はない。代わりに一枚の紙を握っている。やがて彼はそれを丸めてしまうと、おもむろに立ちあがってこちらの方に向かってきた。
束ねもしない長い髪。それが歩くタイミングにかすかに揺れて、身体のラインをふちどる。緩められたネクタイの上に見える肌は白かった。ゆったりとした歩みで、教室から出てくる。ふわっと緑が香る。
「ユズリハ」
その言葉に、思わず身体が固まってしまう。その割に心臓が早鐘をうちだし、体温があがる。
ヒノエの声に反応したのか、彼はゆっくりとこちらを向いた。「ああ」とだけ発した唇。ゆるく波うつグレーの髪。
この人が、あの絵を描いたナギ・ユズリハ。
正直にいうと何も実感がわかなかった。恋焦がれた名前の人物が現れたことに驚くばかりで、理解や感情はあとからついてきそうにもない。
ただ、そう。きれいだと思った。
左右等しい、均整のとれた顔立ち。薄い色素、細長い肢体。
やっぱり、ジーンリッチだ。それが良いか悪いかのジャッジは下せない。
ヒノエもナギ・ユズリハもそれ以上何も言わなかった。かといってわたしが割り込むのも変な話だ。それでもちらっとナギ・ユズリハがわたしを見たので、頑張って微笑みかけてみた。うまく笑えているかはわからないけれど。
明日から、寮にはふたりだけ――生徒は、なのだから。
しかし彼はわたしのぎこちないであろう顔を見てもなお、眉ひとつ動かさなかった。寧ろ無視に近い。まるでわたしなんてそこにいないかのようにヒノエの横を通り過ぎてゆく。
ショック? いや違う。だってわたしは彼のことを知らないも同然。無視なんてひどい、なんて思うのは勝手な理想論を押しつけるに過ぎない。じゃあこの感情はなんだろう。
「お前が愛想ふりまくとか初めて見た」
ミントのような残り香の中、ヒノエがこぼす。
「いや、謹慎組として」
わたしの言葉に「そんなガラかよ」と笑い声が返ってきた。確かに、そんなタイプじゃないかもしれない。とは言わないまま、そのつま先を軽く踏んでおいた。
「なんか意外」
それに顔をしかめるわけでもないヒノエに背を向けて、わたしはグレーの髪を遠目に見る。長い脚は歩幅も広いのだろう。すでに距離ができていた。
「何が」その問いに「謹慎ってことが」と答えると今度はヒノエが肩をすくめた。
「美形ってだけで、そう思うのかねぇ」
「そういうわけじゃないけど」
「ま、実際、俺もよく喋るわけじゃないからわからないけど」
「ふたりしかいないのに」
「そう、ふたりしかいないのに」
会話はそこで途切れた。そんなものか、と思って息を吸う。もうミントの香りはどこにもなかった。
ただ階段へと折れる手前、ナギ・ユズリハは置かれた廃棄ポストの中に、さきほど握っていたであろう紙玉を捨てていたのをわたしは見ていた。
帰ろうか、そんな声がどちらからともなく聞こえてわたしたちは階段へと向かった。その途中、なんとなく首を動かして後ろを見る。ヒノエとナギ・ユズリハが通う教室から幾人かの生徒たちが出てきたところだった。
そのうちのひとりが、掲示板に貼ってあった紙を見て笑う。つられて周りが沸いた。集団とはそういうものだ。
その紙が、ふたりが描いたデッサンのあたりだったことは、気にしないでおく。ひとの美的感覚はそれぞれだ。でもきっと、そういう問題じゃない。
気にしないでおく。そう思った時点で、わたしは既に気にしている。
瑠璃の羊。あの空には何があったのだろう。
初めて見たナギ・ユズリハの顔はきれいだった。
でも、それだけだった。
階段へと折れる手前、歩くタイミングをすこしずらしてわたしは廃棄ポストの中へと腕を突っ込んだ。押し込んだわけではないだろう。その予想が当たって、指先はあっさりと丸められた紙を見つける。
それを抜き取って、すぐさま制服のポケットに押し込んだ。ほんのすこし罪悪感を感じつつも、心臓は大きく鼓動を打っていた。知らないものを知るのは、どんなことだって楽しい。やましさに同居する、好奇心。
皮の手袋が音を立てる。
「あいつさ、絵描くの嫌いなのかもしれないなってたまに思うよ」
階段の途中、ヒノエがこぼした。それはとても低音で、低温だった。
「だったらどうして芸術学部にいるの」
わたしはさして温度を変えずに聞いてみる。
「さあ。事情はひとそれぞれだろうし」
最後の一段を飛び降りる。そう、事情はひとそれぞれ。ヒノエもそれなりに事情を持っていたりもする。本人はまったく気にしていないみたいだけれど。
「話でもしてみたら?」
最後の一段も丁寧に踏んだヒノエが言う。黒い髪が玄関からの風にゆれた。ゆっくりと前を向く瞳は、彼らよりよほどきれいだ。
「共通の話題がない」
わたしの答えに、彼は頬を持ちあげる。
「謹慎」
その顔は、左右非対称。
「のっけから、ヘビーな話題」
「その方がいいこともあるだろ」
靴を履き替えて外に出る。小さな箱から、ほんのすこしだけ広がる世界へ。今日も世界は眩しい。あいかわらず、狭い空には飛空挺が泳いでいる。
今日はくちなしの香りもしない。たぶん、ミントが世界をくつがえしてしまったんだ。
寮までの短い帰り道。土ではない固い地面を踏みながら、わたしたちは休暇中の予定について会話を重ねた。といっても特に何かイベントがあるわけではない。わたしたちの実家はいまどき珍しいぐらいの田舎で、ヒノエは家の仕事があるし、わたしもきっとそれを手伝う。あるとしたら小さな花火大会だけ。参加するのは地元の人間ぐらいの小さなお祭り。
「謹慎を長引かせるなよ」とのありがたい忠告にもうヘマはしませんと答える。それに「どうだか」とため息をつかれたので、わたしはもう何も言わなかった。
寮に帰りつきヒノエと別れる。寮長室のキッカは今日も何やら本を読んでいた。その手にあるのは電子リーダーではない。古びた紙の本に、金色のしおりが挟んである。そういう物の選び方も、わたしは結構好きだ。
奥の階段へと消えたヒノエを見送ってから、わたしも部屋へと続く階段へと足をかけた。寮長室からおだやかにミルクティの香りがただよっていた。
ときおりすれ違う女子生徒。すでに制服を脱いだ彼女たちは皆美しかった。そしてその誰もが背筋をぴんと伸ばし真っ直ぐに前を見据えている。迷いなく道を進み段差に足を乗せる。もう一段下があるかもしれない――そんな迷いはきっとない。彼女たちはいつだって自分らしさを自覚している。
遠のくミルクティの香り。代わりに自分の部屋の匂いが近づく。雨の香り。人工っぽさはぬぐえなかったけれど、真夏の夕立の香りが一番好きだ。
部屋に入り制服もそのままにベッドに腰かける。かさり、とポケットの中身が音を立てた。手袋を外してゆっくりとそれを抜き取ると、ほんのすこしだけミントの香りがただよう。
しわくちゃに丸められた紙を、破かないように丁寧に伸ばした。厚みのある紙ではない。無造作な折り目がすこしずつ、もとの形へと戻っていく。
手のひら二枚分の白い紙。わたしはどんな感情を持つのが正解だったのだろう。
およそ利口なひとたちがすることではない。いや、彼らだって人間なのだ。その醜い部分ぐらい、わたしだって疾うの昔に知っている。
ひとつ深呼吸。わたしはそれを角をあわせて折り畳み、机のひきだしへとしまった。捨てる選択もあったが、それはしなかった。