(3)
学園になにもかも戻ってきたというのに、そこだけはやっぱり埋まらなかった。休みが終わり寮に戻ってきたわたしを、キッカはほんのすこしだけ、かなしい瞳をして迎えてくれた。でもその表情は、こうなることを予測していたようにも見えた。
だけど周りはなにも変わらない。悲しいぐらいに。ひとりの生徒が辞めたことにむしろ気がつかないぐらいに。
わたしもそうだ。コンタクトレンズを入れ、皮の手袋をはめ、また窮屈な日々へと戻る。優秀でおりこうさんなジーンリッチに囲まれ、これ以上目立たないようにひっそりと息をする。
「なに腐ってんの」
変わらないのはこのひとも一緒。放課後の教室で動けないままだったわたしのところにヒノエが迎えにきてくれた。
その行為に、残っていたクラスメートがひそひそとなにかを離している。おおかた、自分たちとは違うと思っているものを話題にして、笑っているだけだろう。
そこに意味なんてないのに。
「腐ってない。ただちょっとぼーっとしてただけ」
ヒノエは、すごい。どうして同じ年数を生きてきて、こうも違うのだろうと思う。いつだって周りに流されない、自分というものがはっきりしていて、それは嫌味でも謙遜でもなく主張し続けている。
だから周りに笑われようと、なにを勝手に言われようと気にしない。
ナギ・ユズリハがいなくなったことによって、きっとヤマギワからはしつこいぐらいの小言を言われているだろうに。わたしに遠慮してか、そんな愚痴ひとつこぼさない。そもそも愚痴を言いたくなるほど気にしてもいないんだろうけれど。
「ふうん」ヒノエはわかりやすくそう言って、わたしの前の席に腰をおろした。
目線がすこし、近づく。周りの声がすこし、薄くなる。
「ねえ、ヒノエ」
ヒノエを見ないで話しかけた。かわりに目に入った窓の外には、偽物の空が映っている。
「決着をつける、ってどういうことだろう」
なにげなく、こころのどこかにいた疑問。
わたしの問いに、ヒノエのためいきが盛大にもれた。
「そもそも決着がつく問題なの、それは」
「え?」
「決着がついたらその問題に関しては終わると思うんだけど、それは終わっていいものなの」
ヒノエの顔を見る。予想に違わず、思いっきり呆れた表情を浮かべている。
「問題もはっきりしていないのに、まとめようとしてるだけじゃないの」
問題。ふと考える。それって一体なんだろう。
ナギ・ユズリハにとってはなにが問題だった? 絵を描き続けること? 違う。たぶんそれは違う。
じゃあわたしにとっての問題は? 欠陥品であること? 違う、たぶんこれも違う。
「お前はさ」ヒノエの辛辣でいてやさしいことばが続く。
「下手に自分にプライドがあるから迷うんだよ。そんな馬鹿みたいなもんさっさととっぱらって、すこしぐらい、本気になってみたら」
ああそうだ、わたしたちはいつだって自分はひとりだと思っていた。
ほんとうは違うのに。わたしに至っては、目の前にこんなに憎たらしい幼馴染がいるっていうのに。
「ついでに、レディファーストなんて古い概念、はやく捨てなよ。扉なんて自分で開けれるでしょう? 開けてくれるの待っててぼーっと突っ立てるぐらいなら、さっさとドアノブ捻ったほうが簡単だからね」
「なにそれ、レディファーストなんて物語の中の話だけでしょう?」
「お前は小説の世界が好きだから。親切な忠告だよ」
唐突な話題に笑うと、ヒノエも僅かに笑ってくれた。それはとてもめずらしいことで、なんだか気恥かしい気持ちにさえなってくる。
「お前がされたいことをやってあげなよ。いつまでも腐ってぼけっとしてたって、なにも変わらないんだから、ニイ」
そう言いながら、ヒノエが一枚のハガキを机の上に置いた。
『全国高校生絵画展覧会』とスタイリッシュなフォントでそこに表示されている。場所は国立美術館だ。
「わかってるよ。行く。行ってくる」
「どこに?」
「わかんない、わかんないけれど、見つける」
「無計画だね」
「うん、だけどそれぐらいは本気になってみようかな、と」
いつの間にか周りの視線は気にならなくなっていた。消えたわけじゃないのに、そこにいて明らかにこちらを見て怪訝な顔を浮かべているのに、どうでもいい。
立ち上がるわたしをヒノエがまるで追い払うように手を振った。それにちょっとだけ歯を剥いて、鞄を持ち上げる。
「ほんとう、北風には参るわ」そう言ってやるとなんの話だと言わんばかりに眉根を寄せられる。それにまた笑って、わたしはひとり教室を出た。
「いってらっしゃい、ニイ」
そんなあたたかい声を、背中に聴きながら。
駈け足で階段を降りて、校舎からでる。そこにあるのは偽物の空で、この気温ですら調整されたものだ。汗が浮かぶほど暑くもない。夏なのに、夏じゃない環境。
走るわたしを不思議そうに見る面々を追い抜いて、寮まで急ぐ。鞄なんて置いてくれば良かった。そう思いながら一歩ずつ確実に前へと進む。
どうにかするには、キッカに頼みこむしかないと思った。だからまっさきに、管理人室へと向かう。
そこに座る、うつくしいジーンリッチ。
「おかえり、ニイ・アマハネ」
ちいさな窓ごしに微笑まれる。今日も紅茶の香りをただよわせて、革表紙の本を携えている。
「すみません」
めずらしく閉められていた扉を、わたしは遠慮なしに開けて中に入った。
「外出許可をください」
それが簡単に与えられるものじゃないことぐらい、充分に知っている。この学園は石頭でどうしようもなくって、融通なんてことばは辞書に載っていないだろう。
「理由は?」
さして驚いたようすを見せることなく、淡々とした声が返ってきた。むしろわたしがそれに拍子抜けしてしまう。
でも、わたしは決めたから。
「たいせつなものを、捕まえにいってきます」
まっすぐ、できるだけはっきりとした声で告げる。
「そう」キッカの微笑みが、笑顔に変わった。
「じゃあ、これをあげる」
そして小さなデスクの引き出しから、銀色のものが取り出される。
「これって」どこかで見た記憶がよみがえる。
「あの通路の鍵」まるでいたずらっこのように目を細めたキッカが、わたしの胸元でそれをぶらさげる。
「そもそもあそこの合鍵を作ったの、僕なんだよね。学生時代の話だけど」
わたしはその下に手を出して、落とされた鍵をしっかりと受け取った。
「キッカさんって」
その顔を見つめると、とてもきれいなシンメトリーに不思議な気分になる。
「結構、悪いことしてたんですね」
わたしだって、瞳の色以外は、そうなのだけれど。
「手厳しいねぇ」
そう笑ったキッカに頭を下げて、わたしは寮を再び出た。
あの日、ナギ・ユズリハと通った通路へと急ぐ。誰にも見つからないように、みんなが通らない木立の中を抜けた。
取り上げられてしまったナギ・ユズリハの鍵。あれもキッカが渡したものだったのだろうか。だとしたら、あれ以降学校は鍵を変えてしまったかもしれない。もし電子セキュリティになっていたら、外に出ることはできない。
あの簡素な扉が見える。鍵は――そのままだった。なんていい加減な学園なのだろう。
だけど今回ばかりはそのことに感謝して、わたしは扉の鍵を解除した。滑り込むように中へと入り、反対側への扉へと急ぐ。
制服のままだった。また誰かがご丁寧に連絡してくれるかもしれない。それでもいい。一度謹慎をくらった身だ。そんなことよりも、見つけたいものがある。
外に出ると、まだ日は高かった。排ガスの匂いと人間の匂い。それらが混じって鼻をつく。学園のなかとは違う世界。
歩道をゆくひとの間をぬって走る。はやく、はやく行かなくちゃ。そのタイミングを逃していたら、きっとわたしは後悔するから。
国立美術館の前にはたしかに『全国高校生絵画展覧会』という掲示がされていた。窓口へ向かい、学生証を提示するとお姉さんには少々怪訝な顔をされたものの、入館パスを発行してくれた。
それを持って、入り口の案内パンフレットを横目に中へと入る。あの日彼が昇った階段に足をかけ、会場へと向かう。
そこにはたくさんの絵画が、迷路のように組まれたパネルに飾ってあった。係員なのか展覧会のポスターの横に男のひとが座っている。そのひとに入館パスを見せ、道順の案内表示を辿ってわたしは探しはじめた。
水彩、油彩、水墨画にエッチング。様々な作品の下にあるプレートをチェックしながら進む。ひとつひとつゆっくり見る気分にはなれなかった。絵を見に来ていたひとには申し訳ないけれど、時折立ち止まるひとの横からのぞいたりもした。
そうしていくつもの作品を通り過ぎたところで、壁面に堂々と飾られたふたつの絵に辿りついた。
ふっ、とミントの香りがした気がする。
それは、この展覧会の目玉扱いだったのかもしれない。一番いいポジションに、一番スポットライトを浴びて、並んでいる。
ひとつのタイトルは『瑠璃の羊』
ひとつのタイトルは『瑠璃色のかがやき』
まるで計画してつくったかのような、奇妙な符合点に思わず目を見張る。
左側で瑠璃色の羊は、たしかに空を見上げていた。
その右側にある空は、鮮やかな青を携え、細くうつくしい月を浮かべていた。
きっと、主催者側も驚いたことだろう。最初は似たようなタイトルだけに注目したかもしれない。だとしたらこの絵を並べてみたひとにわたしは賛辞を贈りたい。
瑠璃色の羊は、その月を見上げている。だけど瞳にはさみしさもかなしさも携えていない。
作者の名前を確認した。テイト・カガ。
誰か知らない、絵だけで知っている名前。だけどわたしはその名にときめかない。恋をしない。
その左隣にある名のほうが、とてもたいせつだから。
周りを見渡しても、それらしい人影は見つけられなかった。でもきっと彼はここにきていた。そしてこの絵を眺めていただろう。だって、ここにはミントの香りが残っている。
もし、もしこの隣にある名が、わたしの予想するものだったならば。
そう考えて、はっきりさせるのはやめようと決めた。わたしが勝手に思い描いて、期待したってしかたがない。ううん、そんなことはしたくない。
だけど、賭けてみよう。もしそうだったならば。きっと、彼は。
もう一度ふたつの絵の前に立ち、息を吸う。
左目から涙がこぼれた。
それをぬぐわないまま、わたしは背を向けて美術館の出口へと向かう。
あの寮でときおり、漂ってきたテレピン油の匂い。ここにある『瑠璃の羊』はわたしが恋をしたあれとは違っていた。あたらしく描き直したのかもしれない。でも色合いも構図もなにも変わらない。
ただ、空を見あげる瑠璃色の羊が、ひとり、増えていた。
きっとそれが答えだろう。わたしはそう信じたい。
驚いたことに、美術館の外にはヤマギワの姿があった。行動が早い人間がいたものだ。その顔はもう形容し難いほどに歪んでいて、わたしになんて言ってやろうかと構えているようにも見えた。
自動ドアが開く手前。廃棄ポストがわたしの近くにあった。ヤマギワはこちらに入ってくる気はないようだ。出てきたところで捕まえるつもりらしい。
欠陥品。連呼されるであろうことばに、思わず笑い声がもれてしまう。
わたしは、手袋をはずした。そしてそのまま廃棄ポストへ捨てる。
コンタクトレンズもとってやった。それも同じように捨ててみる。
どうせなじられるなら、一緒だ。
センサーがわたしの動きを感知して扉を開けてくれた。
そうだ、これがわたしの世界。
所詮、この世界なんてすべてが造りもの。私の周りにあるのは全てが嘘つきで、私の目にするものはすべて偽もの。私にとって、ほんとうのものなんて、私しかない。
わたしはもうすぐ太陽の消える世界に、笑ったまま飛び出した。