(4)
「ああ、知ってたよ、もちろん」
真っ青な空に覆われた朝、ヒノエの家が経営する畑でトマトを収穫しながらわたしは何気なく聞いてみた。ヒノエは知っていたのか、兄が帰ってきていることを。
「だったら、教えてくれてもいいでしょう」
ナギ・ユズリハはすこし離れたところで作業をしていた。なんだか緑とか土とかが似合わない気がして、この世界からほんのすこし、浮いて見えた。
「お前ね、いい加減にしなさいよ」
陽ざし避けに被っていた帽子のつばを弾かれる。
「イチイさんになんの非があるの」
非。非などない。だってあの人は、完璧だから。見た目も、中身も、思想も、仕事も、家族への情も、わたしへの愛情も。だから知っている。これは単にわたしのコンプレックスなのだと。物心ついたときから染みついた、ただの僻みだと。
一位の兄、二位のわたし。イチイ・アマハネと、ニイ・アマハネ。
ため息ひとつ、畑に溶かす。そして考える、わたしは、どうして中途半端に生まれてきてしまったのだろう。
答えないわたしにヒノエもため息をついて、作業を再開した。わたしも真っ赤に熟れたトマトを丁寧にもぎ取ってゆく。
「下手に自分に自信があるから、そうなるんだよ、ニイ」
トマトの緑の向こう側。ヒノエはそう呟くように言って、顔をあげた。そうして自分を呼ぶ声に反応して、わたしを置いていった。
わかってる。でもわかってるって、いったいなにを。
不意にまだ赤くないトマトを手に取った。茎から離れた瞬間の、青い匂い。そのままひとくち齧りつく。甘くも柔らかくもない。酸っぱさと渋みだけが、口の中に広がった。
午前中をトマトの収穫に費やし、お昼をそろって食べる。そろって、というのはヒノエの家族とナギ・ユズリハのような短期のお手伝いさんたちみんなでということ。おおきな家の開け放たれた部屋にめいめい上がりこんだり、その縁側に腰かけたりして、お昼ご飯を頂く。
大きなおにぎりと、野菜たっぷりの煮しめ。畑で採れたばかりのとうもろこし。夏の暑さにやられながらも、みんなの顔はとても清々しい。
だからナギ・ユズリハはどうしても目立つ。彼は普段とちっとも変らなかった。むしろこの太陽と空気が暑くないのか疑問に思うぐらい。長い髪も、白い肌も、不自然なほど涼しそうに見える。
「やっていけそう?」
縁側の端、冷たいお茶を飲んでいた彼の隣に座る。わたしの顔を見て、ナギ・ユズリハは「ああ」とだけ頷いた。
ぬるい風が、頬をなでてゆく。わたしは梅干しが入ったおにぎりを、思いっきり頬張ってゆく。
縁側から見える空がひろい。遮るものを持たない太陽が、作業靴を脱いだつま先を焦がしてゆく。庭を彩る向日葵、鳳仙花、鶏頭。その甘い香りが風に乗ってやってくる。山の端に入道雲がのっていた。夕方、雨が降ってくれるかもしれない。
ふと考える。兄が太陽だとしたらわたしはきっとあの入道雲だろう。空のてっぺんをゆっくりと進む太陽を、地上近くに発達するあの雲は隠せない。では届きもしないことを入道雲はどう思っているのか。きっと、届くかもしれないなんてこと、考えてないんだろう。
もうひとつ、考える。じゃあナギ・ユズリハは。月だろうか、星だろうか。ひっそりとしたこの雰囲気には、月が似合う。だけど彼はきっと、その明かりが誰かの足元を照らしていることを知らないだろう。
それと、ヒノエは北風だ。まちがいなく。
午後からは出荷の準備。そうやって一日を終え、わたしは晩ご飯を食べに家に帰り、父と母といくつか言葉を交わして、眠る。兄は仕事に戻るから、と申し訳なさそうな顔を残して、外国へとまた出ていった。わたしに余計なことを言うことなどない。海外の写真とわたしの好きそうなもの、と兄が考えたものを置いていっただけ。
休みの間はこの繰り返し。わたしは朝日が昇る前に家をでる。ヒノエの家でみんなに合流して、土まみれになる。それがしあわせで、楽しいと思えるぐらいには、わたしは普段のあの狭い生活に辟易している。
それに、すこしずつヒノエと打ち解けてゆくナギ・ユズリハを見ているのもよかった。それがわたしにも僅かに波及してきて、うれしかった。
この生活が三日も過ぎた頃には、ナギ・ユズリハもさすがに真っ黒になっていた。グレーの髪に浅黒い肌はなんだか新鮮で、案外似合っていた。そして不思議と、その姿に緑も土も似合っていた。
まだ左手首の包帯は取れない。きっとそこだけ白いままなんだろう。
その日、夕立が降った。でも雷は聞こえない。さーっと明るいなか雨が落ちて、温まった大地を冷やし、夜を呼んできた。
太陽はそのまま山の向こうへ沈む。山のむこうにしあわせが住むといったひとがいた。太陽はそこへ行くのかもしれない。