(3)
空が曇っていた。雨の匂いが近い。夕立が降るのかもしれない。
「降るかも」そういう私にナギ・ユズリハは「それもいいと思う」とだけ答えた。
アサガオの蕾が並ぶ中庭を横切る廊下。
謹慎は三日延長されることになった。わたしもナギ・ユズリハも。
ただし理由はヤマギワを殴ったことじゃない。謹慎期間中に外出したのが知られてしまったのだ。制服は着ていなかったのに連絡がきたらしい。つまりわたしたちの顔を知っている誰かが、あの日どこかでわたしたちを見かけてご丁寧に映像データまで記録を撮って通報してくれたということ。まったく、暇な人間はどこにでもいるものだ。
かなしいかな、いや申し訳ないかな、どうやって外に出たのかを問い詰められ、ナギ・ユズリハはあの扉の鍵を渡すはめになってしまった。さすがにしらは切れなかった。だって正門も裏門も、セキュリティがしっかりしているから。そこを破って出れるのならば、わたしたちはきっとその映像データだって改ざんしてしらばっくれるだろう。
それでも外出不可という拘束を破ったにしては、軽い処罰だと思った。それにはキッカが答えてくれた。
「やっかいばらい、って言葉、知ってる?」
そう、わたしたちのことは面倒をみるのも嫌になったということ。ほんとうに、すばらしい学園。
唯一許されたのは、ナギ・ユズリハが退院するときにつきそっていいということ。ひとりで退院していくよりも、同年代の友人が迎えにくるほうが見た目がいい。そういうこと。
荷物といっても何もない。結局、彼の家族は誰もここにはこなかった。そこにどんな事情があるのかをわたしは知らない。だから黙っておくし聞いたりもしない。ただ迎えに来て、一緒に寮へと戻るだけ。それに明日で謹慎は終わる。ナギ・ユズリハの手首にはまだ包帯が巻かれていたけれど、傷はたぶんもうほとんど良いのだろう。その手首を見てから、横顔へと視点をうつす。薄い色の瞳。すこしだけ顔色がよくなった、彫刻のような顔立ち。
傷跡は消さないらしい。そうキッカから聞いた。それがどういう決意なのかはわからない。生まれつき両手にあざのあるわたしには、自ら進んで傷を残すという意思は、わからない。
消毒液や薬の匂いにまじって、ミントの香りが風にのる。久しぶりな気がする、ナギ・ユズリハの匂い。
ふたりだけの帰り道、寮まではそう遠くなく、路面電車に並んで座る。流れてゆく街並み、点滅する進行シグナル、夏休みを満喫する家族の声。普段わたしたちがあまり目にしない日常が溢れていた。
「明日で、終わりだね」何気なしに口にした。他意はない。
「ああ」ナギ・ユズリハは表情を変えずにそれだけ言う。
路面電車が止まり、扉が開く。今からどこか遊びにゆくのか、同世代の女の子たちが三人乗ってきて、少し離れた場所に座った。各々香水でもつけているらしく、相混じった香りが鼻をつく。
「帰るのか」
さりげなく窓を開けるとそんな声が聞こえてきた。それがナギ・ユズリハのものではなく、窓の外から聞こえたんじゃないかと一瞬疑ってしまったのは、なぜだかわからない。
「うん、いちおう」
何が一応、なのだろう。あの学園から解放されるのは嬉しいはずだし、緑豊かな田舎はそれだけで心地良い。だけど、どこかやはり、家族と顔を合わせるのは後ろめたさや遠慮というものを感じてしまうのが事実。だからたぶん、わたしは帰ったところでほとんどヒノエのところで時間を過ごすだろう。
「そうか」
隣の顔を少し伺っても、眉ひとつ動いてはいなかった。ただ空を見つめ、揺られる姿がそこにはあった。
「明後日からは」
赤に点灯するシグナルに、電車が止まる。わたしの声に、隣人は振りむかない。
「ああ、まあ」
そうやって曖昧に口だけ動かして、意味のなさない声を発して、彼は再び走りだした電車の床を見つめた。
それから先、キッカが出迎えるまでふたりの間に会話らしいものは発生しなかった。
夜、部屋に戻ってからモニタを見るとメッセージのアイコンが点滅していた。通知は二件。うちひとつは兄からの微妙にずれた優しさで、もうひとつはヒノエからのとても現実的な用件だった。そうだ明後日にはヒノエと再会かと思うと、この謹慎期間が案外長かったような気にもなる。
ああ。ふと思いつく。
それはとても単純なことだったし、勝手なことだろう。でもそれもいいんじゃないかと感じてしまう。ほんとうに迷惑だったらそのときは引きさがる、それぐらいでちょうどいい。
兄からのメールは閉じて、ヒノエへと返事を書く。
『学生アルバイトがひとり増えるのはどうですか』
そのメッセージに、すぐにコール音が鳴ったのは、言うまでもない。
*
「ほんとうに、いいのか」
その言葉になにをいまさら、と思ってしまった。でもそうなのだからしかたがない。すでに路面電車を乗り継ぎ、バスに揺られてここまで来た。やっぱりやめると言うならば、今から来た道を戻ってもいいけれど、きっと夜は更けてしまう。そうなればあの寮にだって入れやしない。
昨日、最後の謹慎日。
朝食を食べてから声をかけ、庭へと出た。言いたいことはひとつだけで、聞きたいこともイエスかノーだった。
「明日から、ヒノエ・コチヤの家でアルバイトをしないか」
唐突な申し出に、さすがに面食らったように見えたものの、すぐに眉根がよりわたしを訝しむ顔があった。その反応は正しいと思う。
だって、わたしとヒノエとナギ・ユズリハは、気の置けない友人、という関係ではないだろう。
彼にとってわたしは“たまたま謹慎期間が重なった同寮生”でしなかく、ヒノエは“絵画コースのクラスメイト”でしかない。よしんばわたしとはほんの少し会話をする仲まで縮まったとしても、ヒノエに聞く限りでは、ほとんど会話らしい会話をしたことがないに等しい。
そんな状態のひとたちに、突然こんなことを言われたところで。
わたしが彼の立場だとしてもそう思っただろう。だからこそ、多少強引にでも誘ってみたかった気持ちもある。
「強制じゃなくて、勧誘です」
「……コチヤは」
「もちろん了承は取ってある。人手はいくらあっても欲しいらしいから、大丈夫」
「じゃあ、あんたは」
「え?」
ベンチの前で、座るわけでもなく交わされる言葉。そのひとつに疑問符が浮かぶ。
わたしは、わたしはなんだと言うのだろう。
「わたしも、コチヤの家で手伝いをするんだけど」
それが毎年恒例で、と続けると「違う」と遮られた。
「行って、平気なのか」
言葉足らず、というのはこういうことを言うのだなと感じてしまった。あいにく彼の発言は何に向かっているのかもわからなかったし、その節々に感じられる遠慮が誰に向けられたものなのかもわからなかった。
「ええと」
そうなれば、わたしからぶつけねばならない。
「ヒノエに遠慮してる? この間ヤマギワが言ったこととか、気にしてる?」
わたしだって触れたくないものはある。いやこれをヒノエ自身に言ったところで、あの男は微塵も動じないだろう。だから何、で終わらせることのできる変わった人間だ。だけどその問題とは無関係のわたしが口を挟むのには抵抗があった。だって、ナギ・ユズリハがヒノエのことをどう思っているかは知らない。
「それも……あるけど、そうじゃない……邪魔じゃないのか」
だからそれを認めつつもさらりと訂正されたことは少し驚きだった。邪魔、という単語の意味が一瞬崩壊してしまう。
そんなわたしの顔を見て、ナギ・ユズリハはすこし目線を下げた。
「付き合ってるんじゃないのか」
そしてぼそりと、それはとても言いにくそうに掠れた言葉をこぼす。わたしが充分にぽかんとするぐらいに。
ああ、そうか。
彼はジーンリッチで、わたしとヒノエは一般人だ。正確にはわたしはそう思われているんだ。
ほんのすこしだけ、なんだか悲しくて、寂しい。
「違う。ヒノエとは幼馴染。家が近所」
かといって今それを言う必要もないし、声を大にして主張したいことでもない。そう思いつつその事実だけを伝えても、ナギ・ユズリハの表情は変わらなかった。
「あと、ヤマギワの言ったことは気にしないで。もしどうしても気になるなら、本人に聞いて」
そこまで加えて、ようやくわたしを見た。そして彼は少しだけ悩むように目を瞑り「わかった」と小さく頷いた。
そうして、わたしとナギ・ユズリハは謹慎を終え、同じ場所へと向かった。謹慎が終わったからといって何があるわけでもなく、キッカに課題を提出してお礼を言って自由の身。ヤマギワはもう嫌味を言いにも来なかった。それでいい。
小さな鞄ひとつずつ持って。もうすでに窓から見える景色は緑一色。学園がある都市とはえらく違う、森と田園、ときどき家。
あまり乗客のいない古いバスに縦に並んで座って、わたしの家に一番近い停留所まで揺られている。
「すごいな」
後ろの席でナギ・ユズリハがぼそりと零した。なにに対してかはわからない。だけど漠然と、窓の外の風景にだろうな、と思った。
朝に寮を出て、空の色が茜色に染まり始めたころ。ようやく実家最寄りのバス停がアナウンスされる。窓の外、ヒノエの姿が見えて思わず笑ってしまった。
停車したバスの軋むドアの開閉音。土の匂い、木々の匂い。それらに囲まれてほっとひといきつく。微かに味噌と醤油の香りもする。ああ、帰ってきたんだな、とバスを降りてのびひとつ。
「おつかれ、謹慎ふたり組」
屋根も何もないバス停で待っていてくれたヒノエが笑いもせず言ってのける。
「お迎えごくろうさま」
「ユズリハ、この変人につきあってくれて感謝するよ」
頼んだ覚えはないですけれど、とつけ加えようとしたところでそう遮られた。いきなり話を振られたナギ・ユズリハは、何も表情を変えないままにわたしを見て、それからヒノエを見て「確かに、変な奴だ」としみじみと言う。
それがほんのすこし嬉しくて、こっそり笑ったのは、秘密。
三人ならんで、田舎道を歩く。ヒノエは相変わらずヒノエで、許諾は得たものの突然やってきたナギ・ユズリハに動じもしなければ遠慮もしない。「明日から、頑張って仕事してもらうから」「働いている限りは、家にいてくれて結構」そんなことを淡々と語っている。その声はとてもスムーズで、ほんとうに今まで疎遠だったのかとこちらが聞きたくなるぐらいだ。
わたしはその様子を横目に、久しぶりの帰路を眺める。なにも変わらない夕焼け。田んぼも畑も青々としていて、草いきれの香りがほんのり湿った風にのってやってくる。願わくば滞在中に二度ぐらいは、雨が降ってほしい。一度は昼間の雨で、もう一度はよく晴れた日の夕立。一緒に雷も鳴ればいい。わたしは、また、あの日のような稲妻をこの目で見たい。
「じゃあ、また明日」
田んぼの中にある別れ道を前に、わたしは言う。はやく明日になれ、そんな願いを込めて。
「ああ」ふたりは並んでそう答えて、ヒノエの家のほうへと向かってゆく。
わたしはひとり田んぼのあぜ道を、滑らないように気をつけて歩いて帰る。
久しぶりの我が家は、玄関にもライトが灯されていた。淡いオレンジの光が扉を照らしている。そしてその横、窓から漏れるかすかな光。母は晩ご飯の準備をしているのだろう。カレーライスの香りがする。わたしの好きな、甘い、カレー。
「ただいま」
深呼吸をひとつしてから、扉を引く。
「おかえり」
目の前に現れた姿に、わたしは呼吸を止める。似ても似つかない姿。それもそうだ。だってこのひとも、ジーンリッチ。しかも、完璧な。
「久しぶりだね、ニイ」
一位の兄、二位のわたし。
柔らかい頬笑みは、どこまでもわたしを包んでくれる。これ以上ないぐらいの劣等感で。