(2)
しばらく廊下で雨の音を聞いていた、意識的に。そうしていたほうが良かったから、自分的に。
響く足音に顔を向ければ、キッカがトレーに飲み物と食べ物を持ってきたところだった。わざわざ用意してくれたらしい。申し訳ない。そう思ってすぐにちゃんと食べようと思い直した。
「はい。お待たせ」
そういう声は優しい。トレーから湯気ののぼるカップを渡される。
「どう?」
それだけアバウトに聞かれた。きっと病室の中のことだろう。どう答えるべきか悩んで、わたしは曖昧に口角をあげてみた。それで何が伝わるかはわからない。だけどキッカは一度扉を見てから「じゃあ、先に食べちゃおうか」とわたしの隣に座った。
もう、あの音は聞こえてこなかった。外の話し声に気づいたのかもしれない。
涙を流せばすっきりするものなんだ。むかし誰かが言っていた。そしてわたしもそれを知っている。だから男だろうが大人だろうが情けなかろうが悔しかろうが、泣きたいときは泣けばいい。みっともないことなんてない。それが人間でしょう。
キッカはコーヒーと一緒にホットサンドを買ってきてくれていた。まだ充分に温かい。中身はソーセージとピクルス。マスタードソースがぴりりと刺激する。
温かいものを胃に入れると、身体の緊張がすこしほぐれた気がした。感じていなかった空腹感はひと口目で主張し出し、あっという間に全てを口に入れさせる。
その様子を見られていたのか、隣で紅茶を飲んでいたキッカが喉を鳴らしていた。「食べる?」と自分のぶんを差し出すしぐさに、わたしは慌てて首を振る。
そのときだった。遠くから足音が響く。
ナギ・ユズリハの両親は現在海外にいるらしくすぐには戻ってこれないと聞いた。今日本で面倒を見ているのは祖父とのこと。しかしその祖父も、遠距離のためすぐにはつかないとキッカから教えてもらった。ではいったい誰が。
六六六号室の周りはとても静かだ。ひとの気配がない。これは予想でしかないけれど、運ばれた理由、所属している学園、そして何より彼がジーンリッチであることから、隔離にちかいものを受けているのだと思う。だから他の病室の人間あるいは家族という線は薄そうだ。
となると医者なのかもしれない。そう思えど、どうもその足音はけたたましい。ゆっくり歩いている雰囲気がしない。そのスピードゆえか、わたしが顔を向けてすぐに音の主の姿が見えた。
「あ」と思わず声がもれる。キッカもわたしに後頭部を向け「おやまあ」などとのんきそうに言っている。
「なんだアマハネ、お前がどうしてここにいる。謹慎中だろうが」
しかしわたしのこころはキッカほど余裕がない。さっそくの小言、しかも結構おおきな声にため息を我慢する。
「僕が許可しました。いろいろと手伝ってもらいましたし。そう目くじら立てなくても良いんじゃないですか、ヤマギワ先生」
代わりに相手をしてくれるキッカの声は、慣れ切っていた。ヤマギワがふんと鼻で笑う。
「非常事態ってか。まあ非常というより異常だわな」
なにをこのひとは、とこころの底から思う。こんなときにもその嫌味な言動を抑えられない。大人とは思えないし、やはり微塵たりとも尊敬できない人間だ。しかしこの大声。病室の中が気になる。なにをしにきたのだろう。とてもじゃないが教え子を心配して様子を見に来たようには思えない。暇つぶし? ただの嫌味? だったらさっさと去ね。
「ほんとこの馬鹿が」
その思いむなしく、ヤマギワは勢いよく病室の扉を開けた。キッカが立ちあがるも静止は間に合わなかったようだ。
「なにしてんだよお前は。俺の顔に泥塗る気か」
そのちっぽけな背中ごしに見える病室。真っ白なシーツと白い腕。そこに巻かれた包帯。
胸がぎゅうっとしめつけられた。さすがにキッカが止めに入る。それでもヤマギワはお構いなしだ。
「芸術家気取って自殺なんざなぁ、古いんだよ。まあそもそもなにもしてないお前がそんなことしたところで、笑い草にされるだけだがな」
目の前が真っ赤になる。なに言ってんだこいつ。
「絵も描かずに自殺未遂とはな。この欠陥品が」
ああ、もう無理だわ。
皮の手袋がぎゅっと音を立てる。
「ニイ!」
キッカの声が廊下に響いた。でも、悪いけどそんなんじゃわたしを止められない。
スローモーションみたいだ。自分の一歩がとても長く感じる。まるで映画みたいにゆっくりと振り返るヤマギワ。ほんの少し見えた、ナギ・ユズリハの顔。
教師? 生徒指導担当? そんなの関係ない。
こいつは人間として、底辺にも乗っちゃいない。
ひとの顔は案外硬かった。手袋ごしとはいえ、こぶしにも痛みが走る。でもそんなことより、ようやく夢がかなったかのような、妙に晴々しい気持ちが生まれてくる。
よろめいて扉横に身体をぶつけたヤマギワは、なにが起こったのか理解できていないらしい。くやしいのは、映画みたいにこいつがふっとんで尻もちをつかなかったことだ。
はじめて殴った。教師も、ひとの顔も。
「あ、アマハネ、お前」
こいつは権力って鎧を着てはじめて威張れる体質なんだなとあらためて思う。それをはがした今、目の前にいるのはただのみすぼらしい中年だ。
「馬鹿なのはあんたでしょ」
生徒に遠巻きにされて、それこそが自分の力だと思っていた、はだかの王様。
「欠陥品だって、毎日必死に生きてるよ」
それに比べたら、泥をすすって這いつくばってでも生きている者のほうが美しい。
ぽかんと口を開けて、次第に顔を赤くして。ようやく事態を飲み込んだのだろう。ヤマギワがこめかみに血管を浮き上がらせながら言う。「何をしたか覚えてろ」そんな見事な捨て台詞。本来の目的を忘れたのか、いやすでに言い終えて満足したのか、来たときよりも派手な足音を鳴らして帰っていく。威厳もなにもない、ちっぽけな背中。
これで謹慎延長決定かな。そう思えど後悔などなかった。やけに清々しい気持ち。ほんとうは、もうちょっと派手に殴り倒してみたかったけれど。
「ニイ」
さすがに困った顔をしたキッカがわたしの名を呼んだ。謹慎は経験があると言っていた彼も、さすがに教師に物理的攻撃をしかけたことはなかったのかもしれない。
「まあ、なんというか」
しかし彼の言葉がさえぎられた。笑い声によって、だ。わたしは笑っていない。もちろん本人なわけがない。だから、そうつまり。
「ナギ」
ふたりで顔を動かし、その姿を視界に入れる。ベッドの上、白い身体。その持ち主が、声を押し殺して笑っていた。まだ青さを感じる顔がわたしの目の前で、初めて目尻を下げている。
「ほんとう」
横になったまま、その瞳がわたしを見る。
「変な奴」
ああ、わたしはこれでいい。
なにがはわからないけれど、素直にそう思った。おなかの底から、温かくて気持ちのよいものがこみあげてくる。
「あなたに言われたくない」
たぶん、お互い、なにも相手のことを知らないのだろうけれど。
それでもきっと、どこかわかるものがあるのだろう。
わたしも自然と笑いがこみ上げてくる。久しぶりにこんな気持ちになった気がする。つられてナギ・ユズリハもまた笑う。ふたりの間できょとんとしていたキッカでさえ、ついには笑い出したんだから、不思議なものだ。
ふっと、廊下の窓をなにかが横切った気がした。おそらく鳥だろう。でももしかしたら、じさつのかみさまが来てくれたのかもしれない。