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瑠璃の羊  作者: 八谷紬
第三章 天翔けるけもの
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(1)

 ちいさいころ、こんな絵本を読んでいた。

 タイトルは『じさつのかみさま』。なんともいえないタイトルなのに表紙は思いのほか明るい桜色で、黒いマントを着た人間に見えなくもない神様が丘の上に立っている絵だった。

 じさつのかみさまは、仕事や人間関係、家族のことで悩んでいるひとたちのところにゆく。ふしぎな杖を持っていて、その杖をふると目の前に扉が現れて、それをくぐればその人の家の前というわけだ。そして窓からこっそり中の様子をのぞく。

 仕事をなくしてしまった男のひと、恋人が戦争で死んでしまった女のひと、いろんなひとの家をのぞく。

 そうして、ひとつの家を選ぶ。

 そこにいたのは十歳ぐらいの少年で、彼は治らない病気に苦しんでいた。毎日にがい薬を飲んで、ベッドの中でばかり過ごす。優しくしてくれるお母さんにあたり散らして、わがままばかり言う。少年は夢にうなされるたび、こう思っていた。

「生きている意味ってあるのかな」

 じさつのかみさまは、夜中にこっそり少年の部屋にしのびこんだ。少年は熱をだして苦しんでいた。そこへそっと顔を近づける。

「死んだらいいじゃないか。死ねばなにもなくなって、自由になれるんだよ。苦いお薬もつらい咳もいやな夢もなくなる」

 そう囁いて、少年の額を杖で叩く。少年がくるしむのを見て、にやっと笑って、帰っていく。

 じさつのかみさまは自分の家へと帰って、こう呟いてベッドに入るのだ。

「ああ、今日もいいことをした」

 そして数日後、熱の下がった少年は薬を飲んでいた。その横でお母さんがわらっていた。少年は、もうお母さんにわがままを言わなくなった。ご飯も残さず食べるようになった。それでもときどき熱が出る。でもその度に少年はこう自分に言い聞かせた。

「病気になんか負けるもんか」

 じさつのかみさまはそれを知らない。だけど今日もたくさんのひとの家にいって誰がいいか選んでいる。ほんとうはもっと生きたいと願うひとを探している。


 幼いころは、これがどういう絵本かがわからなかった。だけど絵を気にいっていたのか何度もめくったのを覚えている。のちに兄に言わせるとそれをいつも読んでいる妹を心配して、こっちの絵本も楽しいよと幾度も新しいものを渡したそうだ。それでもわたしは新しいのを読み終えていたらまたこれを読んでいたらしい。

 今思えば、子どもが読むものじゃないだろうと思う。絵本にした出版社もどうかと思う。だけどわたしにとっては大切な一冊だった。


 わたしの後ろにある窓を叩くのは雨だ。じさつのかみさまはきっとここには来ない。じさつのかみさまは、死を意識してはじめて芽生える生への執着をひとに植えつける。それがわかったのはもう十を越えたころだったけれど、きっとそう。だからここには来ない。彼はそれを意識しても執着することができなかったからだ。

 目の前にある病室のプレートには六がみっつ並ぶ。その扉の向こうからはなにも聞こえてこなかった。幸いにも命に別状はないらしい。ただ浅い傷とはいえども、長い間出血していたのと水にあたっていたので体力をだいぶ消耗しているとのこと。今はゆっくりさせてやるのが一番だと医師が言っていた。プラス、目が覚めたらセラピストを寄こす、と。

 横のベンチで、キッカが目を閉じていた。疲れたのかもしれない。わたしはそっと、息をこぼす。いま、扉を隔てた向こうに寝ているのはわたしではない。でももしかしたら、あれはわたしだったかもしれない。わたしは大丈夫、わたしは平気。そんな見栄、一瞬で崩れ去るだろう。だから彼も刃物を手に取った。

 雨音がこんなに悲しいことって、久しぶりかもしれない。


 そういえば何も持たずにきてしまったな、と思う。すこし温かいものが飲みたくなった。だけどポケットに財布はない。病院に来たのなんて久しぶり過ぎて、無料のベンダーがあるのかどうかもわからない。これだけ大病院だったらひとつぐらいありそうなのだけれど。

 探しに行くか、誰かに聞いてみるかしようか。でもその間にナギ・ユズリハが目覚めたら?

 ――その間に? いや、なんだというのだ。それでもかまわないはずだ。帰ってきて起きていたらそれで充分じゃないか。どうしてわたしがいない間に目覚める可能性を気にしてしまうのか。

 行ってこよう。ついでにキッカにも紅茶を持ってきてあげよう。そう思って立ち上がる。その直後、手をつかまれる。

「僕が行ってくるよ。紅茶? コーヒー?」

 ぎゅっとなる手袋。まるでわたしの頭のなかを見透かしたような質問。

「あ……じゃあコーヒーで」

 その手がとても強くて、わたしは言葉に甘えてしまった。キッカは目を細めてうなずくと、立ちあがって小さく伸びをする。わたしの顔に影が落ちた。

「ちょっと待っててね。もしナギが起きたら、ついててあげて」

 雨音の響く廊下に、彼の足音が加わった。反響してそれは、前後左右から聞こえる。寝ていたと思ったのに、小さくなりやがて曲がった背中を見送りながら心のなかでつぶやいた。いや、寝ていたわけではないのかもしれない。なんとなくだけれど、こういう状況で寝れるひとではない気がする。


 まだ昼を過ぎたばかりのはず。だけどここはとても静かで、雨の降る外は暗かった。

 考えてみれば朝食も昼食も摂り損ねている。でもそこまでお腹は空かない。食べておいたほうが良いに決まっているけれど、正直あの匂いがまだ鼻の粘膜から離れない気がして食欲はわきそうになかった。でもおかげで病院独特の、消毒液とすえた匂いは気にならない。どちらがいいのかと問われても答えられないけれど。

 ふう、ともう一度息を吐く。夏なのに肌寒い。二の腕をさすっていると、かすかに音が聞こえた。

 鼻に比べたら耳は平凡過ぎる。だから耳をすませてあたりを伺う。寝息とは違う、吐息。もしやと思って、音をたてないように立ち上がり、扉へと近づく。小さな気配。

 開けていいものか、しばし迷った。目覚めてわたしが顔を出したら彼はどう思うのだろう。キッカなら寮長だしまだわかる。だけどわたしは。

 扉に手をかけたまま、止まっていた。やがて新たな音が加わった。わたしはそっと扉を離れる。

 くぐもった声。必死に噛み殺す何か。

 ナギ・ユズリハは泣いていた。声を押し殺して。だから、わたしは顔を出さない。

 

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