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瑠璃の羊  作者: 八谷紬
第一章 貴石羊は半貴石の夢を見るか
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(1)

 恋愛は馬鹿がするものらしい。

 だからジーンリッチは恋に落ちない、愛さない。だって自分の遺伝子を残すときは最高の組み合わせを選ぶだろうから。髪の色、顔の造形、頭の中身――自分好みで自分以上の。もしも残すことを選んだら、だけれども。

 まあどちらにしても事実、ジーンリッチが結婚したという話は耳にしたことがない。もっともそれは「わたしは」という前提であって、この世界のどこかでは恋に落ちて共に暮らしている者がいるかもしれないし、いないとは言い切れない。だけどきっとそれはとてもひっそりとしているのだろう。


 ナギ・ユズリハ。わたしは今、その名前に恋をしている。恋。いいや、これが恋というものかどうかは判断が難しい。なぜなら恋愛というものをわたしはしたことがないからだ。けれどもしジーンリッチが恋に落ちないのであれば、欠陥品であるわたしのこの感情は恋と呼んでも良いのかもしれない。

 きっかけは一枚の絵だった。羊の絵。群れが一様にこちらを見ているのに、一頭の羊だけが空を見上げている。そしてその羊だけは、何故か瑠璃色。まるでラピスラズリのような、混じり合った青色。麻色の下地に、それだけが描かれた絵。

 そこに添えられた名がナギ・ユズリハ。一度も姿を見たことがないこの人物にわたしは恋焦がれている。いや、この名前に、がやはり正しい。だって恋愛はそのひととなりにするものなんでしょう?


 そして今、その名はわたしと共に並んでいた。校内の電子掲示板を流れてゆく通達文書の中に。


 ナギ・ユズリハ

 ニイ・アマハネ

 以上の者を七日間の寮謹慎とする


 その名はひどくさみしいものに思えた。自分の名と並んでは、どこかもうあの名ではない気がしていた。そう、あの絵に添えられたからこその名前。ひどく身勝手な感情だけれど、それが恋ってものなのでしょう? 古今東西、どの小説だって恋は愚かで自分勝手だって書いてある。

 本来、並ぶことがないであろうふたつの名前。わたしはそれを喜ばしいことと受け取れない。わたしなんかと並んではかすんでしまう。しかもそれが謹慎の通告だなんて。


 寮謹慎。タイミング素晴らしく明後日からこの学園は夏季休暇に入る。電子掲示板に記された日付も、明後日から一週間になっている。謹慎には違いない、だが学校には来てもらう。そんな意図が見えるベストなタイミング。

 たった五分のオーバー。それがこの学園では謹慎に繋がる。寮の門限がいかに重要だというのだろう。遊びに行っていたわけではない、図書棟で本を読んでいただけだというのに、理由はお構いなし。大切なのは規則を破ったという事実。頭が固い。それならば図書棟の戸締り時間を早めるべきだろう。全寮制なのだから、少しぐらい寮の門限に余裕を持たせてもいい。それをしないのは、きっと自己管理ができないものをあぶり出すためだ。わたしみたいなのを。

 不自由さの中にある自由。それを知っている身としては、この処分は結構きびしい。寮謹慎ということは外出禁止。あの空間に閉じ込められていると思うと、嫌気がさしてくる。

 幸いなのは夏季休暇ゆえに、みなが実家に帰っているから顔を合わせなくていいということであろうか。外にも出れず四六時中、寮生と顔を合わせるとなるとさすがに窮屈過ぎる。それがないだけでも感謝するべきかもしれない。

 いや、もうひとつだけある。それが幸いといえるかどうかはわからないけれど。


 黒緑色の中に浮かぶ文字。その前から一歩離れる。目が乾いて左目をこする。帰ろう、そう思って顔を戻した先にクラスメイト数人が立っていた。灰色の四角の中に、整った姿の男女数人。

 放課後とはいえ、おりこうさんばかりが通うこの学校はとても静かだ。でも利口というのは行儀が良いとか人格的に優れているというものではない。生きることがうまいということだ。そう、静かなのだって彼らなりに理由がある。

 そのおりこうさん代表とも言えるクラスメイトたちは、わたしを見て口の端を上げながらねっとりとした視線を寄こしてくる。重さに比例しないそれは、押し返すのではなく受け流すのが妥当だとわたしはとうの昔に理解していた。

 狭い、灰色の廊下。丁寧に磨かれている床が窓からの光を反射させている。その先に見えるいくつものつま先。人工的な甘さと混じった汗の匂い。

 くすくすと笑う声が耳に届く。聞くんじゃない。わたしの心がそう脳に指令を出す。

「お似合いね」

 通り過ぎる瞬間、そんな声が聞こえた。

 お似合い? 一体何が。

「落ちこぼれどうし。ま、もっとも君はそもそもが違うわけだけれど」

「みんな酷いなぁ。彼らがいるから、僕たちの優秀さが際立つんじゃないか」

 別の声が会話を繋げていった。皮肉なことに、人類は遺伝子操作を覚えたといえども身体は何も進化していない。視覚も聴覚も、自分でシャットダウンすることは出来ない。美醜、優劣、そんなのにこだわるぐらいなら、人間という生物自体を成長させたらいいのに。

 でもきっと、それでもわたしたちの間には平穏は訪れない。ほんとうに平和が欲しければ、きっとみなの意思を統一してしまう他にないだろう。

 残念ながらそのときは訪れない。だからわたしたちは、不平等と矛盾に溢れた世界で生きていくほかないのだ。


 聞きたくもない声を遠ざけつつ、わたしは階段を下りてゆく。皮の手袋がきゅっと音をたてた。

 お似合い、そんなはずあるわけない。

 開け放たれた玄関から温い風が吹き込んできていた。もう夏だ。でもここには蝉の鳴き声も色鮮やかな花もない。外に出ればきれいに整備されたグラウンドが待っていて、その先には有名建築家がデザインしたという四角い箱――学生寮が並んでいる。

 まだ眩しい陽ざしに目を細めて仰ぎ見る。狭い空はそれでも青かった。灰色の飛空挺がその中を泳いでいる。いつもと変わらない風景。

 息を吸う。ああ、そうだ。その体勢のままひとつ理解する。

 わたしは、あの羊なのだ。瑠璃色の、ほかとは違う羊。

「その絵を描いた本人は、どっち」

 息を吐く。落ちこぼれどうし。その言葉が引っかかる。聞いてはいけないと思いつつも、そう言われては何が共通点なのかと探してしまう。いやそもそも、わたしはきっとナギ・ユズリハとは違う。落ちこぼれ以前の問題。


 もう二年も通って、まだ何も見つけられない日常。たぶん、わたしの目的はここに入学したことで達成されてしまったのだ。次は何をしたら良いのだろう。卒業したら、何をしてゆくのだろう。

 先の見えない現状、今の場所にしがみつくしかない。もう一度息を吸って、わたしは寮へと帰る。

 ふいにくちなしの香りがした。でもそれは幻想。わたしの記憶。

 

 *


 この学園にわたしのほんとうのことを知っている人間は、教師のぞいてふたりしかいない。ひとりは幼馴染のヒノエ。そしてもうひとりが、わたしが属する第二寮の寮長。キッカ・ナナミ。

 わたしはこの男のことが嫌いではない。入寮したての頃こそ、その誰にでも同じ笑みと声音が気持ち悪かったものの、今ではそれにも慣れてしまった。だって彼はすべてにおいて嘘くさいのだ。ならばそれが真実。すべて裏ならそれは表。

「おかえり、ニイ・アマハネ」

 寮長室は玄関脇で、彼はこの時間帯いつもそこで本を読んでいる。常に開いている扉からは、甘い紅茶の香りが漂ってきていた。

「ちょっと、おいで」

 柔和な笑み。でもそれだって微妙な変化があることも知った。嬉しいとき、怒っているとき。彼は目尻の位置がすこし違う。

 そして今回はそのどちらでもない。おそらく、呆れているとき、だ。


 まだちらほらしか見ない生徒たちを尻目に、わたしは寮長室へと入る。さして広くない、ひとりが過ごすだけの部屋。彼の好みなのか、最低限の家具が置かれているだけの殺風景な空間。

 めずらしくキッカが扉をしめた。ロックはかけていない。

 紅茶は、そう問う声に首を振った。互いに椅子に座ることなく、一拍の沈黙。それから見栄えのいい寮長は、机の上から一枚の紙をつまみあげた。

「謹慎。一週間」

「はい。見ました」

「ごめんね、たった五分、それも別段困った理由じゃないのに、どうにもならなかったんだ」

 あの微笑みの呆れはわたしに対してではなかったのか。意外な言葉にわたしはもう一度かぶりを振る。

「わかってます、この学園が石頭だってことぐらい」

「手厳しいねぇ」

 わたしのことばにキッカが笑った。そしてつまんだ紙に視線を移す。

「一緒にナギ・ユズリハも、ね。ふたりいっぺんってのはなかなかないよ」

 また怒られるんだろうなぁ、そんなため息が聞こえてきた。こういうことをあっけらかんと言ってしまえるところも、嫌いではない。

「ご迷惑をおかけします」

「気にしないで。迷惑かけられるのが僕の仕事だから」

 左右対称の、均整ののとれた顔立ちがやんわり微笑む。

 夏季休暇の際、家に帰らない生徒はいない。むしろそれが義務のようなものだ。だからその間は各寮長も休暇が取れる。なのにその期間に謹慎とは。

「キッカさんも、煙たがられてるんですね」

 彼に遠慮はいらない。だから嫌いじゃない。

「手厳しいねぇ」

 もう一度キッカが笑った。たぶんヒノエ以外の唯一の味方、に近い人間。

 他に話はなさそうだったので、わたしは頭を下げてから退室しようと回れ右をした。ティーポットから、こぽこぽと紅茶をそそぐ音が聞こえる。

「これをきっかけに話でもしてみてよ」

 扉のノブを押した瞬間、そんな声を背中に聞いた。それが誰をさしているのかは、聞かずともわかっている。


 廊下でひとつため息をつくと、ちょうど玄関から入ってきた男子生徒と目があった。名前は知らない。制服の学年章は後輩。

 彼はわたしの顔を見て、それから手を見て、さっと顔をそらした。わたしが知らなくても向こうは知っているのだろう。そそくさとわたしの前を過ぎていく。その間際に見えた口元が歪んでいた。先輩は敬いましょう。そんな学園理念は、ジーンリッチの中でしか適用されない。白い羊と瑠璃色の羊。そこには明確でいて越えられない壁があって、けしていっしょくたにはなれやしない。つまり、彼はジーンリッチだ。

「ニイ」

 背中から再びキッカの声がする。

「まあ、のんびりね」

 彼もそう。日本での第一世代。見た目だけの、ジーンリッチ。


 皮の手袋がきゅっと鳴る。わたしは部屋へと続く階段へと足を乗せた。頭のなかに、瑠璃色の羊が浮かんでくる。

 知っている。ナギ・ユズリハもジーンリッチだ。それでもわたしはその名に恋をした。それぐらい、あの絵には惹かれるものがあった。詩がある絵、そういう表現を読んだことがある。それならばあの絵は「詩をつむぐ絵」だと思う。

 ジーンリッチは恋に落ちない、愛さない。だからわたしは恋をしたのだろう。わたしは出来そこない、失敗作。本当は彼らと同じに生まれてくるはずだったのに、そうはならなかった欠陥品。生まれてすぐに出された判断は、一生消えることのない烙印だ。


 そう、ほんのすこしだけわたしは謹慎処分を下されたことを喜んでいる。わずか一週間とはいえ、家に帰らなくて済むのだから。もちろん、帰ったら友人にも会える、懐かしい風景のなかにいれる。それでも、あの両親のもとへ長々と滞在するのは、遠慮したい。嫌いなわけじゃない。息がつまるというのが正しい。

 謹慎の一週間、この寮にはわたしとキッカとナギ・ユズリハだけ。そう、それがもうひとつ。微々たる期待、淡い想い。あの名の持ち主は、どんな人間だろうか。これでナギ・ユズリハがマジョリティであれば、わたしは小さな絶望を味わうだろう。でもそれはしかたがないこと。彼らは頭が良い。それはけして勉強ができるというだけの話ではない。自分に不易なものはさっさと切り捨てる能力が高いのだ。

 

 ときどき、わからなくなる。わたしはジーンリッチとして生まれたかったのか。

 当然、彼らにだって個性はある。博愛精神に優れたものもいる。犯罪組織に入るものもいる。モラルや思想は生まれる前からついてくるものではない。彼らだって人間には違いない。集団の中に埋もれるのも、突出するのも、彼らの生き方だ。

 だけど、わからない。わたしは彼らと一緒でいたかったのか。いつも迷う。そしてどうにもならない答えにたどりつく。

 わたしは欠陥品という、片や笑われ、片や不憫に思われる中途半端さが嫌なのだろうと。

 もっとも、わたしはそこからの逃げ方を知らない。いつも温い泥にまみれて、転ぶだけだ。

 この学園の生徒たちの中では、わたしは一般人だ。試験をパスしたとはいえ、欠陥品を入学させるのにしぶった学園側の答えがそれ。つまり、わたしはスタートと同時に転んでいる。そして起きあがる術を知らない。形だけ押しつけれられた欲しかったもの。最初からそれだったならば、わたしはけしてこの学園には来なかっただろうに。


 部屋の鍵を開け、そのままベッドに寝転がる。薄暗い部屋の中、モニタだけが淡く光を発していた。メッセージのアイコンが点滅している。誰だろうか、その答えはしばらく知りたくない。

 仰向けになり腕を伸ばす。ぼんやりと浮かぶ黒の手袋。それをそっと外してモニタの灯りにかざす。もう死んでしまった、過去に生きていたものの皮の匂いが立ち昇る。

 この学園に入ることが目的だった。入ったあとのことなど考えていなかった。結果、わたしはこうして、自分に目を背けて生きている。

 手の甲から指にかけて巻きつくそれが、わたしを食い殺してくれる蛇だったらいいのに。そう思いながら、わたしはゆっくりまぶたを閉じた。


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