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【後編】

<五>


 ウメは研究所で雄二の助手をしていて、たびたび亡くなった弟の隆雄のことを想いぼうっとしてミスをすることが多くなってきた。昨日も神経細胞に当たる配線を間違えて、脳に電気が逆流し危うく大切な脳細胞を破壊してしまうところであった。細かなミスは数えだすとキリが無い。

 

 喜んで耳を振る犬。

 後ろに歩く猫。

 空飛ぶネズミ、マイティーマウス。古い!

 盆踊りを踊る牛。いや、ないない。

 『転職に人間力を!』の広告を見て人間になった豚。だからないって!

 髪切ってボーイッシュになった私。いったい何の話だ?

 どこまで広げるんだ! ……。 

 

 恐るべきことに、ウメは筆者の頭に電流を逆流させていた。


 人間の頭脳は都合よく、亡くなった人に関する負の感情、すなわち悲しみや憐れみなどの感情を次第に記憶の領域から除去していき、現実の世界を取り戻し維持していくようプログラムされているといわれる。寝ている間にみた夢は基本的に寝ている間に記憶から除去されているし、起床直前にみた夢でも起きてから急激に記憶が薄れていくことがわかる。どれもこれも、現実の世界と取り違えないためのプログラムだ。


 ウメはこのことを雄二から聞かされていたので、隆雄に関する悲しみは次第に薄れていくものと考えていた。しかしながら、ウメの脳にはこの回路が欠落しているのか、日が経つにつれ、どんどんと悲しみが増していった。


 このままだと、ウメは助手どころか雄二の研究の足を引っ張っていってしまうと考え、この会社を辞めようと考えた。


 ウメは雄二のことを頼りにしているし、特別な恋愛感情が既に心に芽生えてきていることも自分自身気づいていた。だからなおさらのこと、雄二のもとを離れることはウメにとって胸が締めつけられるような思いだった。


 ……でも、このままでは私も雄二も駄目になってしまう。今が引き時だ……。


 雄二はウメの退職願を手にし唖然とした。しばらく悲痛な顔をしていたが、思い立ったように言った。


「ウメッコ……。俺は君のことを待ち続けている。いつか必ず戻ってきてくれることを信じて……」


「雄二。さようなら。いろいろありがとう」


「いろいろねえよ。あるとすればこれからだった。ははは」


 雄二の瞳は涙に覆われたような光を放っていた。



◆◇◆


 ウメは背中に雄二の強い視線を感じながら、一度も振り向かずに研究所正門をあとにした。


 研究所の脇は古びた喫茶店。その隣にはペットショップがあった。中学を卒業してから五年間通い詰めた道ではあったが、その両方とも、一度も店の中に入ったことはない。ウメはここを通るのも最後だと思い、ふらっとペットショップの中へ入っていった。


『爬虫類ペット、大特価セール』


 大きな紙に書かれた文字がいきなり目に飛び込んできた。

 

 ……爬虫類セール? 変わってるなあ……


「いらっしゃいませ、爬虫類が今日まで全部表示価格の半額です」

 

 以前、都心のワンルームマンションでイグアナを飼っている女性がテレビで話題にされたことがある。

 

 ……私もやってみようかなあ……


 半額なのかどうかは、もともと定価など無いようなものだから全く当てにはならない。『今日まで』というのも、今考えたようで怪しい。


 しかし、ウメはこの店で何か生き物を買っていこうと思った。そうしないと寂しすぎるのだ。しかしウメはトカゲだのヘビだのイモリだの、この類は大嫌いである。(※イモリは爬虫類ではありません。カエルの仲間です。念のため)


「すいません。これなんですか。目のでっぱってる変な動物。十万円の……」


「ああそれはカメレオンですね。それはすいませんが半額は無理です」


「そうなの。爬虫類じゃないの?」


「爬虫類ですが、値引き対象外なんです」


「じゃあこのみどりのアゴの大きい奴は?二万円の……」


「ああそれはイグアナです。その価格は昨日までです。今日の定価は四万円です」


 ……今日の定価って? なんで上げるの? 普通下げるでしょ! ……


 ウメの手元には、今日までの日割のお給料八万円と亡くなった隆雄の先月の給料三万円の合計十一万円があった。ペットなど普通、衝動買いするようなものではないが、ウメは今日一人でアパートに帰り落ちついた気持ちでいられる自信が無かった。何か買って帰ろうと……。


 ウメがきょろきょろと求める動物をさがしていると店の奥にある銅像のような変な動物が目に入ってきた。値札に二十万円と書いてある。


「あれは何ですか?」


「ああ。あれですね。さすがにお目が高い。ハシビロコウという鳥ですよ」


「ハシビロコウ?」


 ハシビロコウ……。

 

 解説しよう。正直なところ、読者の方の想像に任せるのが筆者としては最も楽である。ある人はニワトリを想像し、ある人は大鷲を想像する。しかし、筆者の性格はそういうことが嫌なので、読者に嫌がられても強制的に『ハシビロコウ』を解説する。ちょっと我慢してね。


 ハシビロコウは、アフリカ大陸原産の鳥で、主にウガンダ共和国のビクトリア湖周辺に見られる。ワシントン条約で国際取引が規制されている希少種である。


 全長約1.2メートルの大型の鳥類である。この鳥は初めて見た者を『ぷっ』と笑わすようなものすごくアンバランスな巨大なくちばしを持ち、数時間にわたってほとんど動かないのが特徴である。これは大きな図体で動き回り魚に警戒感を起こさせることを避けるためと考えられている。魚もそこに生き物がいることを認識しないほど動かない。大型のハイギョ(魚)が「安全、安全」と空気を吸いに水面に浮かび上がる隙を見て、「はっ」と素早くくちばしでこれをとらえる。


 岩のような灰色をして、銅像のように固まっているこの鳥は、これを見る人間にとってちょっと気味が悪いかも知れない。しかもその目つきの悪さは他に類を見ない。飛行も得意とし、翼を広げた時の長さは約2メートルにもなる。


 この目つきの悪さと滅多に動かない生態。ただ一つ動くときは餌を本気で採るときと、親愛を示す時の首振りのお辞儀。これがとてつもなくキモ可愛いという。(筆者は残念ながらお辞儀は見たことが無い)


 筆者は、そんなハシビロコウが大好きである。!!


 寿命は解明されていないが、高齢になるに従い瞳の色が金から青に変化する。これも好き!


「これ、爬虫類セール対象ですか?」


「…………」


 店の主人は呆れたように言った。


「あのね。お客さん。どう見たらそれが爬虫類に見えるんですか? それじゃあ二万円引いて十八万円にまけときましょう。どうですか?」


 ウメはその変な鳥がどうしても欲しくなり、おかしなことを言い出した。


「あれ、やっぱり爬虫類でしょう?」


「ええ? お客さん。ふざけちゃいけませんよ。いやだなあ」


「うんにゃ! 私、この鳥知ってます。あなた知らないの? これワニ科の動物よ」


「!! …………。お客さん。ははは。今、お客さん自身、『この鳥』って言われましたよ」


「うんにゃ。『鳥に見えるこの動物』って意味よ。この目をよく見てごらんなさい。これは爬虫類の目です。ペットショップやっててあなたそんなこともわからないの?」


 店の主人はハシビロコウの目を見た。


 ハシビロコウの目つきは相当悪い。その目でじいっと主人の方を見返している。

 

 ……あれ? やっぱ、ワニに似てるかな? いやいや。そんな馬鹿なこと……


「お客さん。くちばしが見えませんか? 鳥ですよ。トリ」


「あなた、カモノハシって動物知らない?あれはくちばしがあるけど立派な哺乳類よ。くちばしとか羽根とか見た目は分類に関係ないのよ。バッカじゃないかしら」


「ムッ!羽根って……。羽根のあるワニはダメでしょう。いくらなんでも」


 もはや全然会話になっていない。


「もう、いい加減にして! あなたまさかラドンとかギャオスとか知らないの?」


 とうとう怪獣まで登場してきた。ウメはもう必死である。完全に大阪のおばちゃん状態だ。


 ウメはきっぱりと言った。


「十万円にして! そうしないと、この店、詐欺まがいのことしてるって言いふらすわよ!」


「ちょっ、ちょっと。そっ、それは……。じゅっ、十万円でいいです。はっ、はい」

 店の主人はワケも分からず慌てて応えてしまった。


 ……勝った……

 

 ……アパートには『犬・猫禁止』って書いてあったけど、『ハシビロコウ禁止』とは書いてないからね……


<六>


 その鳥は『たか』と名付けられた。


 たかちゃんは大変おとなしく、ほとんど一日中はく製のように固まっている。頭も撫でられるし、餌やりの時は人に馴れたもので、くちばしを開いて入れてくれるのを待っている。


 そのうち、ウメに本格的に馴れてきて、たかちゃんは部屋で放し飼いをするようになった。


 日が経つにつれ、ウメには、たかちゃんが隆雄のように思えてくるようになった。ウメはかつて研究所に勤めていたせいからか、ひょっとして隆雄の脳がこのたかちゃんに埋め込まれているのではないか、という妄想が頭を支配するようになっていった。


 当面の生活費は貯金で賄えたので、ウメは研究所を辞めてから五ヶ月もの間、夜遅くまでやっている近所のスーパーに買い物に行く時以外は、たかちゃんと一緒にアパートに引きこもっていた。


 ウメは一切の来客にも応じないでいたが、ある日新聞代の未払いにしびれを切らした販売店主が来て、ドアの前で大声をあげるのでウメは仕方なく扉を開けた。


 その時に販売店主の見た光景。


 ウメの身長は一五八センチ。その脇のたかちゃんが百四十センチ弱。

 二人、いや、二匹、いや、ともかく並んで立っている。

 たかちゃんは店主の方をじーっと見ている。


「あっ、あの。それは……。いったい何ですか? はく製じゃないですよね」

 慌てる店主。差した指をすかさず引っ込める。


「はい。生きてますが……」


「そっ、それ動きますか? たしかテレビで見たことあります……」


「えっ? そうですか?」


 たかちゃんは突然、しかしゆっくりと前に出てきた。

 店主はずるずると後ずさりする。

 たかちゃんの目つきは相当に悪い。


「ちょっと、ちょっと待って……ごめん、ごめん。すいません」


 何故か店長はたかちゃんに対してしきりに謝っている。


「ぎゃーあああ!!」


 店主は真っ青になって一目散に走り去っていった。


 ……たかちゃん。あなた嫌われちゃったね。大丈夫。私がいるから……


◇◆◇


 ウメの精神状態は、もはや普通ではなかった。気が狂ったようにたかちゃんをかわいがりだし、時には近所に聞こえるくらいの叫び声をあげることもあった。


 そのうちウメは、うつ病のようになり、ある日を境にたかちゃんと一緒に心中することを考えるようになった。


「たかちゃん……死んでしまおうか」


 たかちゃんは目つきが悪い。


 しかしその時、たかちゃんの目はウメの目をまっすぐ見つめていた。

 

 もう誰にも彼女を救うことはできない。だいいち、身寄りの無い彼女を救おうとする人自体、この世に存在していない。


 ウメは引きこもりからほぼ半年経ったある日の真夜中、たかちゃんの手(手? 羽根?)を取ってアパートの屋上に上がった。


 四階建てのアパートの屋上。


 頭から転落すれば少なくともウメは亡くなるであろう。

 たかちゃんはよくわからない。野生の鳥であれば飛べる。しかしたかちゃんはウメと同じく引きこもりなので、一度も飛んだことはない。


 しかし、ウメにとっては、たかちゃんが死ぬか死なないかは問題ではなく、たかちゃんと一緒に飛び降りたい、という欲求を満たすことが目的となっていた。彼女は気が狂っていて、これまでたかちゃんの脳に隆雄の脳が埋め込まれて生きていると思い込んでしまっていた。


 ところが、いざ死のうという時になって再び正気を取り戻したかのように思えた。

 

 ……隆雄はとうの昔に死んでしまっている……。


 ……だから、私もそこへ行けばよいのだ……。と。


 ウメはたかちゃんの手(手? 羽根?)を引っ張り、屋上の柵の切れている場所に連れだした。そして自分も屋上から下の駐車場の方へ身を乗り出した。


 ……ああ。神さま。私は今、あなたのところへ行きます……。


 その時突然。


 たかちゃんが暴れ出した。いくら野生でないっといっても、そこから落ちたらまずいことくらい本能で察知しているのであろう。


 たかちゃんは大きなくちばしを開き、ウメの足に噛みついた。


 今だかつてウメはたかちゃんに噛み付かれたことはない。


 これまでのたかちゃんからは想像できないほど野生強暴化している。 

 

 たかちゃんは、そのままくちばしの猛烈な力でウメを引っ張った。


「きゃあああ……!!」


 ものすごい力である。しかも今まで見せたことの無い機敏な動作だ。


 鋭く大きいくちばしを震わせながら、ウメの右足に首をぎゅうっとまわした。

 放さない。


 ウメはとうとう屋上の中央へ引き戻された。


 それから、たかちゃんはうつ伏せになったウメの背中に乗り、今度は首に噛みついた。

 再びウメの悲鳴が夜空に響き渡る。


「ぎゃあああ……!!」


 ウメは必死だった。


「死なせて、お願い! 死なせて」


 ウメは叫び、たかちゃんの羽根をかきむしった。


 たかちゃんの血が飛び散った。

 

 たかちゃんがひるんだ隙にウメは起き上り全速力で走り出した。


 そして屋上の端。

 

 そこから跳んだ。


 すぐに地面が迫ってきた。


 地面の寸前でウメは大きな羽根が見えたような気がした。

 

 ……ぎゃあああ!! ……

 

 瞬間、ウメの右足の膝は激しい痛みに襲われた。しかし、それは地面に叩きつけられたような感触とは違う。同時に地面がみるみる離れ、ウメの居たアパートがどんどんと小さくなっていく。


 満天の星空には、黒いシルエットの大きな鳥がばっさばっさと音をたてて羽ばたいていた。



<七>


 ウメは気がつくと病院のベットに横たわっていた。


 脇の椅子には遠藤雄二が座っている。


 ウメは起き上ろうとして、雄二に優しく制止された。


「ウメッコ。気分はどうだい?」


「雄二……私」


「何も言うな」


「…………」


「隆雄くんが助けてくれたんだよ」


「何? 何? 今何て言ったの?」


「隆雄君が助けてくれたって言ったのさ」


「本当?」


「死ぬことなんてこと考えてはいけないよ」


「ねえ。雄二。隆雄が助けたって……。本当?」


「僕がウメッコに嘘をついたことがあるかい?」


 ……あるある。嘘ばっかり……


 病室はとても静かだった。


 どのくらい意識を失っていたのだろう。もう西日が差している。

 

 ……何だか心地いい……


 ……もしかして、全部夢だったのかなあ。そんなことないかあ……。


 ウメはキュッと右足に痛みを感じたので、浴衣タイプの病院の室内着をめくって自分の足を見た。


 そこには包帯がぐるぐると巻かれていた。


 露出した部分は太ももの付け根の方まで紫色になっていた。

 

 …夢じゃないのね。でも。ホントに夢みたいな話……

 

 ウメはふっと表情を緩ませた。

 

 気がつくと、雄二の視線がウメの太腿の付け根あたりに釘付けになっている。


 フレッシュピンクのシルクショーツが丸見えである。


「やだっ! エッチ!」 

 

 ウメは室内着の前をあわてて閉じた。


 雄二は少し残念そうな顔をした。そして、そのあとウメの目をしっかりと見据えながら言った。


「鳥は、研究所の中でずっと固まってるよ。部外者は研究所に入れないことは知ってるよね。目つきの悪い鳥に会いたいだろう?」


 雄二の声は、とてもきっちりとした声だった。

 

 ウメは自分に恥ずかしくて雄二の目をまっすぐに見ることができなかった。


 しかし、おどおどと上目遣いに視線を合わせた。


 そして照れくさそうに微笑んだ。

  

 雄二はウメに選択の余地を与えないような厳しい口調で言った。

 

 「目つきの悪い鳥に会いたかったら、ウメッコ、おまえは研究所に戻って来い!!」 


 雄二は微笑みながら、首を少し傾げて左目を閉じて見せていた。

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