【前編】
<一>
株式会社ニュートンは、都内に本社を構え従業員が百人ほどの中堅企業である。
社名がニュートンといっても、その会社は物理のニュートンとほとんど、いやまったく関係のない、医療用の人工臓器等の開発委託を主とする研究開発会社である。
一般に『臓器』などと言うと何やら胡散臭い印象を受けることもあるが、その会社は専ら科学者や医師のチームによる研究開発を目的としており、臓器そのものの提供を受けたり、売買したりすることは全く無い。
ここで言う人工臓器とは、世に知られる人工透析や外科手術の際に使用される人工心肺のような外的手段によって人間の臓器の役目を一時的に代替する医療機器のことではない。あくまで、人間の体内にあって神経細胞を経由して脳や脊髄などから送られてくる直流電気信号を受け取り、物理的な運動や有機化学反応を司る人工的な臓器を言う。
人工臓器は生身の臓器と違って、完全に生理的な状態を作り上げることは困難であり、臓器側から脳へ情報を発信することもできない。さらに、他の臓器の不具合を補完したり、自ら不具合が生じた場合に修復する機能も持たないため、生身の臓器移植に比べ高価な割に移植成功率や移植後の生存率は格段に低い。にもかかわらず、各社は躍起になって、人工臓器の開発を水面下で進めているのはいったい何故であろうか……。
その決定的な理由は、生身の臓器はその細胞の中に『寿命』という情報が刷り込まれているのに対し、人工臓器はそれが無いということである。つまり、その臓器だけを考えれば、不老不死ということだ。不老不死は人類永遠の憧れであり大きな魅力あるテーマだ。少々の危険を冒してでも手に入れたいという気持ちはわからなくもない。
◇◆◇
その会社の第一研究所には、遠藤雄二という大変研究熱心で若い『天才的』な社員がいた。
巷に、『馬鹿と天才は紙一重』などという言葉があるが、彼の場合それがぴったりと当てはまるかも知れない。彼は根っからの研究者であり、すこぶる温厚な性格ではあったが、生来、人付き合いがへたなため、いつも他の研究者から離れて黙々と研究をしていた。
この研究所では、第二研究所での基礎的研究成果を受けて、実用化のためのさまざまな実験を行っている。そして、どの研究者も出来得る限り生身の臓器を忠実に再現するということに力が注ぎ込まれていた。そんな中、遠藤はそんなことをしても無駄だと心の中で一蹴する。
彼に言わせると、そもそも人間の肉体は小宇宙に匹敵するほど限りない未知の神秘に包まれているという。
細胞はその機能が著しく低下する寸前に分化して、自らと全く同じコピー細胞を造り上げる。このことによって人間の活動を司る肉体は元の機能を維持していける訳であるが、実はそれだけでは生命体の維持を完全なものにするに充分ではない。
細胞には、先に述べた通り、どういうわけか『寿命』という情報が刷り込まれているようであり、分化の回数に限りがあると考えられているからだ。 何故そうなっているのか。理由は確かな保証を得られているものではないが、一般的には、生命体を取り巻く環境は常に変化する可能性があり、同じものを造っていくだけでは『種』の保存ができないためだ、と考えられている。
ある種の生命体は進化するために必ず『命』をリセットし、環境に適応した新しい生命体を造る機会がなければならないのだ。
細胞には大きく分けて二種類あり、一つは自らと同じコピー細胞を造るものである。いま一つは『幹細胞』といわれる細胞で、この細胞は人間の肉体を形成する情報を既に持っていて、色々な種類の細胞に分化することのできる細胞である。
幹細胞のわかりやすい例としては、『受精卵細胞』がその筆頭に挙げられる。受精卵が分裂して細胞の数が増えていくにつれ、どの細胞がどの組織になるかということが次第に限定されていくのである。この幹細胞があるからこそ、人間は命をリセットし、新しい環境に適応することのできる『命』を得て、進化を遂げていく事ができるのだ。
人類生命の将来は最初の幹細胞である受精卵細胞の適応力に賭けられているといっても過言ではない。 そしてその『種の生き残り』を賭けた意気込みは我々が普段考えるような生半可なものではない。
その凄さを数字で示すと、例えば標準的な人間の『精子』は一秒間に約一千個づつという猛スピードで造られ、五日弱で四億ものストックを形成し排出される。このような生成は他には類をみないためその目的意志は明確に認識できる。つまりそれは、種の保存のため四億分の一の強靭な生命体を造るための一つの過程であり、間違いなく人類という『種』を保存しようとする意志である。
男子陸上百メートル走の世界記録保持者、ジャマイカのウサイン・ボルトは九秒台半ばで百メートルを走り抜ける。彼の持つ記録はまさに驚異的なものであるが、百メートルを走り抜けるその間に彼の体内で一万個もの精子が生成されていると考えると、そちらのほうも負けず劣らず凄いことである。これは無論ウサイン・ボルトだけではない。筆者はそう考えながらその辺を歩いている普通の殿方達を見るにつけ妙な気分にさせられるのだ。(筆者は科学者の卵の端くれであり、純粋に科学的見地から話を展開している。特段の他意はない)
話が少し脱線した。もとに、戻そう。
こうしたことを考えると仮に細胞組織に似たものを造ったとしても、その能力は生身の細胞の足元にも及ばないことは明白である。そうであれば、人間や動物の肉体を今ある通りに再現することなどやめて、複雑な脳や脊髄細胞の直流電気指令を忠実に受け取り、機械のように人間や動物の動きを再現できる肉体を全部勝手に造ってしまえばいいのだ、と彼は考える。
そうなると、人工臓器ではなく、まるごと人工肉体である。
限りなく人間の肉体組織に似たものを造り出す技術があれば、そんなことは容易いことだ。あとの問題は脳信号の解析であり、これは時間さえかければ達成可能であるように彼には思えた。
こうして、馬鹿か天才か定かでない遠藤は脳信号の解析に日夜奮闘していた。
<二>
世の中不景気なわりに、研究所はいつも忙しかった。
そんな中で自分勝手な研究を進めている遠藤は、ますます他の研究員と疎遠になっていった。しかし彼には所内でたった一人だけ心の通い合った人間がいた。
滝川ウメ……。
ウッ、ウメ? 今どき珍しい名前だ。名前からはご高齢の方を連想するが、これがまだ二十歳になったばかりの女性だ。
遠藤の助手である。彼女は研究者ではないので、個別のテーマを持っていない。そのため複数の研究者の助手を担当していたが、事実上遠藤が彼女を完全に助手として独占してしまっている。
「ウメッコ。豚の腎臓取ってくれる」
「あいよう。雄二」
「……。あのね、これ肝臓なんだけど」
「ええ? あいよう。雄二」
「……。あのねえ、これすい臓」
「ええ? あいよう。雄二」
「……いい。自分で取るから。肝臓とすい臓戻しといて」
「あいよう。ごめん雄二……」
◇◆◇
ウメの両親は彼女が六歳の時に離婚し、当時彼女は弟、隆雄と共に母親に引き取られたが、引き取られてまもなく母親が病死、父親も別な女性と海外へ行ってしまい、その後行方が知れず仕方なく姉弟は施設へ預けられた。
ウメは中学卒業後自らの意志で施設を出て、株式会社ニュートンへ就職した。三つ年下の隆雄はその後も施設に留まっていたが、今春高校を中退し、ウメのいる研究所近くのガラス工事の店で住み込みで働くことになった。
ウメは唯一人、血の通った隆雄のことが気がかりで仕方がなかった。
隆雄は先天的に知恵の発達が人よりやや遅れていて、動きもぎこちない。誰かが見ていてあげないと少し心配なところがあるのだ。ガラス店さんのおかみさんは朗らかで優しい人だったが、夫が工事現場を走り回っている間、事務所での電話の応対や雑用一切を任されているため、殆ど隆雄の身の回りの面倒をみてやることは出来ない。隆雄は買い物一つ、自分一人では心もとないのだ。
ウメは毎日自分のアパートに帰宅する際にガラス店さんに寄り、隆雄の様子を確認して色々と話しかけることが日課になっていた。食事は別支給で、月三万程度の隆雄のお給料は当然ウメが預かることにしている。
「おねえちゃん。俺、お腹すいた」
「もう少し待ってね。もうすぐお夕食があると思うから。今日は一緒に食べようか」
「ええ? お姉ちゃん。ご飯一緒に食べる?」
隆雄の顔は上気して興奮している。
「今日はね。隆雄くん。一緒に食べようか。おばさんに言っておくから、ねっ」
姉と一緒に食事。
たったそれだけのことで、隆雄の目からはぼろぼろと涙が落ちた。
ウメの気持ちはとても複雑だった。
<三>
「おーい。ウメッコ」
「はーい」
「今夜はおまえとイタリア料理食べるぞ」
「わあ。うれしい」
「豚はやめとこうな」
「ほんと。やだ」
「ははは」
雄二と一緒にいる時は、ウメにとってはとても心が休まる時であった。それは、弟の隆雄を忘れることのできる時でもあったからだ。
いや、それだけだはない。
ウメは雄二と二人でいる時、自分が生きている事を実感できた。
これが恋、とか、愛、とかいうものか。
ウメにはよくわからなかったが、ともかくこれでいい、と思うと限りない安心感が彼女の胸にこみあげてきた。
しかし、いつも雄二と別れ、隆雄のもとへ寄ると、自分の気持ちをどのように処理して良いのかわからなくなることがしばしばあった。
◆◇◆
何の予告前ぶれもなく、突然の不幸がウメのもとに訪れた。
「所沢東警察です。滝川ウメさんですか?」
「はい。そうですが……」
「弟さんの隆雄さんとみられる方が交通事故に遭われ、現在、所沢東総合中央病院に移送されておりますが、身元が確認できません。来ていただけませんか」
「ええっ?」
神に祈るようにして病院に駆けつけたウメは、この先の人生の行き先を完全に失った。
息もせずウメの目前に横たわる隆雄。下半身は無残に潰されこれが人の姿かと、今ある目の前の現実を疑いたくなるような状況であった。
「隆雄? 隆雄どうしたの? あなたはいったいどこにいるの? まさかあなたじゃあないよね……」
「弟さんですね」
「……。いいえ違います」
「…………」
「弟は家にいますから」
「…………」
「滝川さん。お気持ちは察します。でも、亡骸を仏にしてやっていただけませんか」
「ああ。あああ。隆雄う。ううう。ううう」
気持ちの行き場所を失ったウメの心は、無意識に雄二の携帯を呼び出していた。
十数分後病院を訪れた雄二は、ウメの姿を確認すると力一杯彼女を抱きしめ、彼女の悲しみを少しでも自分にわけてもらうよう祈り続けていた。
……このままで済まされるものか。造物主よ! あなたはどこまで残酷なんだ。どこまでウメの心を傷つければ気が済むのだ! ……。
<四>
三ヶ月後、第一研究所の実験室では、ネズミがからからと丸い車輪の中を走り続けていた。
隆雄の葬儀のごたごたのあと、しばらくウメは家に引きこもっていたが、ようやく研究所に職場復帰した。
「ウメッコ。ついにやった! 完全な肉体だ。世間に公表する時がきたぞ!」
「何があ?」
「このネズミを見ろ」
ウメはネズミの入ったかごを覗き込んだ。
「このネズミは一種のサイボーグだ。脳と脊髄以外は全て人工のものだ。」
「これが?」
「もう一カ月以上生き続けている。もう大丈夫だ。完全に生身の状態を再現している。脳波を調べても苦痛信号は一切ない」
「へえ~」と疑いの目をするウメ。
「へえ~、じゃない! 本当だ。これがエックス線写真だ」
ウメは中腰で貼られた写真を見る。
「これ、どう見ても普通のネズミのレントゲン写真じゃない?」
「違う! 良く見ればわかる」
「うんにゃ。普通のネズミだよ」
「ウメッコ! お前はバカか。俺がこれを造るのにどんだけ努力したかわからんのか!」
「わかんない」
「……。おまえ、いちいちすぐに応えるな! 気が抜ける」
「雄二。これ、公表してもアホだって言われるよ。きっと。私はやだ」
雄二は泣きそうな顔になった。
「ウメ。おまえ、どうしてそういうこと、さらっと言うわけ? ひどすぎるよ」
「だってやだもん。私、みんなの前で馬鹿にされるの嫌だもん」
「くう~~」
「ねえ、雄二。そのネズミじゃなくて、ひょっとしてサイボーグネズミはこっちのネズミじゃない? こっちの方が顔がそれっぽいよ」
「何?」
「このネズミ……」
雄二はウメの指差すネズミの方をじっと凝視する。
「あれ? そうかな? こっちがそうだったっけかな」
「そうそう。このネズミちょっとこわい顔してるもん」
そのネズミはこわい顔をして雄二の方をじっと見つめている。
雄二はウメに指摘され自信がなくなってきた。
「いやいや。やっぱりこっちだ」
「ううん。私はこっちだと思う」
「そうかなあ……」
ウメはため息をついた。
「ダメじゃん」
雄二もため息をついた。そしてとりあえず公表は見送ることにした。
……俺、嘘言ってないんだけどなあ。信じてもらえそうにないなあ……
「ねえ雄二。ネズミみたいなセコイ動物じゃなくって、豚の肉体造って猫の脳で動かしてみたら?」
「ああん?」
「ほら、豚が『にゃーん』とか鳴いたらはっきりするんじゃない?」
「そっ、そうか! それだ! それで行こう!」
……あれ? 雄二のやつ。本気にしちゃったみたい……
◆
三ヶ月後、第一研究所の実験室には一匹の豚がいた。
「ウメッコ。やったぞ! 完全な肉体だ。この豚を世間に公表するぞ!」
ウメは豚の入ったかごを覗き込んだ。
「完全に生身の状態を再現している。脳波を調べても苦痛信号は一切ない」
ブヒッ。
ウメは首を傾げた。
「今、ブヒッて鳴いたけど……。にゃーって鳴かないの?」
「残念ながら鳴かない。声帯と喉の構造が豚だからにゃーとは鳴けないのだ」
「それってダメじゃん」
「いいや、歩き方を見てみろ。明らかに猫だ」
その豚は餌を求め、とぼとぼと、ごく普通に歩いている。
「これ、豚じゃん」
「足が短いからな。やっぱり猫歩きは難しそうだ」
「それってダメじゃん」
「おい! おまえ、ひょっとして俺のこと疑ってないか?」
「疑ってるよ」
ウメは間髪を入れずに答えた。
「くうう。猫は腹を上に向けて落としても、きちんと足から着地するんだ。見ていろ!」
雄二は豚を抱いたまま、椅子の上に上がり、腹を上に向けてそのまま腕を放して見せた。
サイボーグ猫かもしれない豚は、そのまま落下した。
ブヒーーーーッ。
ウメはため息をついた。
「ダメじゃん」
雄二もため息をついた。そしてとりあえず今回も豚猫の公表は見送ることにした。